
画:かDo氏
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要目(カッコ内は戦艦改装後) ・基準排水量 35.000頓 (42.800頓) ・満載排水量 41.500頓 (49.300頓) ・全長 252メートル ・全幅 31.5メートル ・喫水 8.8メートル(9.5メートル) ・機関出力 180.000馬力 ・速力34.5ノット(33.5ノット) ・乗員 1700名 ・主砲 54.5口径28サンチ砲三連装四基(50口径41サンチ砲連装四基) 40口径12.7サンチ連装砲八基(65口径12.7サンチ高角砲十四基) 25ミリ三連装機銃十四基(後に40mm連装機関砲12基を追加) ・航続距離18ノットで8.500カイリ ・装甲 舷側 250mm 甲板 100mm 主砲 250mm(350mm、150mm、380mm) ・同級艦「雲仙 ・搭載機 なし(3機) <六甲>級概要 「六甲」級は、ドイツとの積極的な技術交流により建艦思想が一変した日本が産み出した条約型戦艦である(竣工当時の日本の呼称は装甲巡洋艦)。 この「六甲」級と対比されるのが、かつて海軍内部で「技術輸入」と称され、積極的にイギリス技術を導入して建造された「金剛」級巡洋戦艦である。ドイツ技術を積極採用し、「金剛」級の代艦として建造された「六甲」級は、日本建艦思想を一変させるものであったのである。 1.「技術交流」の開始 日本海軍が、後に「技術交流」と称し、ドイツの艦艇建造技術を採用させる要因となったのが、@連合艦隊事件と、Aドイツのロンドン海軍軍縮条約参加である。 @連合艦隊事件 1933年、荒天の中実施された海軍大演習において、航空母艦「龍驤」大破、軽巡洋艦「夕張」横転、を始めとする多数艦艇が被害にあったという、連合艦艇始まって以来の「大損害」をこうむった事件である。この事件の後艦政本部において、平賀派が一掃され、藤本喜久雄造船中将を主とする派閥により艦艇設計を行うことになったのである。 この藤本造船中将を評価する上で欠かせないことが、日本海軍にとって余りにも軽視されていた艦艇のダメージコントロールを重視したという事である。彼は、ダメージコントロールを重視するためには、艦艇に溶接技術を採用する事がその前提条件であるとしていたのである。しかし「最上」級で露呈した日本海軍の溶接技術の未熟さ、これは彼をして落胆させるものであったのである。 相対的に他列強と比べて弱体な日本の技術、これを補い列強に互するだけの艦艇を建造するための技術をどこから持ってくるか、そこで彼は、ドイツ技術を採用することに思いついたのである。英国との交流をすべきであるという意見は、艦政本部内にも強かったが、彼はその意見を押さえつけた。彼は、これまでの艦艇設計技術を一変させるためには、「ドイツ技術」の採用という艦艇設計思想を一変させる方策が必要であると考えたからである。 Aドイツのロンドン海軍軍縮条約参加 そして、結果として装甲巡洋艦時代の「六甲」級が、28センチ砲三連装四基十二門、34ノットの高速艦として建造された一番大きな背景、それは1935年に成立した第二次ロンドン海軍軍縮条約にあった。 本来ならば1936年末で期限が切れるロンドン海軍軍縮条約の終了を待たずに35年1月に再更新された理由は、ベルサイユ条約を破棄し再軍備宣言を行ったドイツの伸張を恐れたフランス・イタリアが、34年にドイツを条約に加え、その動きを抑えようとしたからであった。 折しも大恐慌によるブロック経済化と、フーバーモラトリアムの不成立により、経済的に大きく英米が対立する状況において、英国は日英同盟以来再び日本と接近する事になった。30年頃からはじまった日英の接近は、後にドイツをも巻き込むことになり、日本は英独の最新技術、生産設備の導入など様々な有形無形の技術を得ることで中国、満州の共同経営を計ることになる。このことが大幅な海運量増加、経済発展を招くことになるのはいうまでもないことである。 そして、1934年に日・英・米・仏・独(イタリアは条約不参加)5カ国によって会議が始まったロンドン海軍軍縮条約(以降、第二次ロンドン条約と称する)は、大きくは次の改正点を有していた。 @日米英主力艦保有数を10隻・18隻・16隻とする。 Aドイツの艦艇保有比率を対英35%とする。(フランスは対英45%に拡大) B主力艦の最大トンを35.000トン、主砲の最大口径を14インチにする。 (条約未締結国がでた場合、最大排水量45.000トン、主砲最大口径16インチに) C日本の補助艦保有比率を対米八割に。 D装甲艦条項の追加。 一番目そして四番目の改正点が挙げられた理由、それは先述した英国との貿易量増加である。英国との貿易量の増加、すなわち重要性を増しつつある海上通商路の護衛をイギリス側が日本に求めたからであった。単純な日本の海軍力強化に反対するアメリカ合衆国には、日英側がアメリカの戦艦数を増勢することにより、アメリカ側の不満を抑えている。 そして、このロンドン条約の改正において新たに追加された五番目の装甲艦条項、これはドイツが保有していたポケット戦艦の扱う上で誕生したものであった。この条項は、補助艦としての重巡洋艦の能力に不安を抱いていた日米海軍が、英国の反対を押し切って制定されものであった。 装甲艦の制限は、その主砲の最大口径を12インチ、最大排水量を26.000トンにしている。この制限の根拠は、第二次ロンドン条約の下建造されるであろう条約型戦艦と装甲艦との関係が、過去の前ド級戦艦と装甲巡洋艦の関係に酷似したものになると考えられ、生まれたものである。 対馬沖海戦(日本海海戦)における装甲巡洋艦の見せつけた能力は大きいものであった。装甲艦条項を日米が積極的に取り入れようとしたのも、この条項により建造される艦に過去のこれら装甲巡洋艦の機能を求めたからである。 条約参加国のいずれもが、かつての装甲巡洋艦の末路について知らなかったわけではない。防御力・速力に劣るかつての装甲巡洋艦は、第一次世界大戦においてその命脈を完全に経たれてしまったことを。しかし、この第二次ロンドン条約が機能している限り、かつて装甲巡洋艦の命脈を断ち切った存在である超弩級艦が生まれてくることは無いことが、この装甲艦条項を採用させる理由となったのである。 装甲艦の建造による単なる軍拡を抑えるために、既存の重巡保有トン枠を活用し、既に保有する重巡洋艦の艦齢が10年を経た時点で代艦の建造が認められるという制限が存在していた。しかし条約参加国(特に日米)にとって、戦艦に準ずるとするにふさわしい艦を保有することが出来たことは、極めて大きな成果であった。 この装甲艦条項設定の結果、日本は重巡として改装を行う前提で建造していた「最上」級三〜六番艦の建造を中止し、また溶接技術の未熟さからドックに逆戻りしていた「最上」級一・二番艦を大幅に改装する事になる。そして、この装甲艦条項こそが、「六甲」級に条約型戦艦としては最小口径の主砲を装備する結果となるのである。 2.戦艦試案 第二次ロンドン条約のもと建造される新戦艦において、日本は第二次ロンドン条約が失効した場合、即座に十六インチ砲に換装するという前提でその設計を始めていた。ただ、保有隻数でアメリカより少ない日本は、「コロラド」級並びに新型条約戦艦に対抗すべきこの新戦艦の設計において大きな混乱を見せることになる。 この第二次ロンドン条約の制約の下35年から再開された建艦競争において、英米は36センチ四連装三基十二門積んだ戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」「ノースカロライナ」級を条約成立と同時に建造を開始した。またドイツは連装四基八門で30ノットという「ビスマルク」級を、フランスは四連装二基八門搭載した、「リシュリュー」級の建造を開始していた。 日本にとって特に注意しなければならない「ノースカロライナ」級はいったん戦争になれば16インチ砲三連装九門へと換装されることが明らかであり、日本海軍が建造すべき新戦艦は、その「ノースカロライナ」級に対抗すべき新戦艦は英米と似たフネになるはずであった。 しかし、条約型戦艦4隻ならびに、改装途中の「長門」級合計6隻で、アメリカの条約型戦艦、更には「コロラド」級計9隻に対抗するためには、条約型戦艦に何らかのアメリカ戦艦に優位に立てる新機軸を採用しなければならないことは明らかであった。これまで、「金剛代艦」として、1920年代から代艦の設計を行っていたが、それらの艦ではアメリカの条約戦艦に「匹敵」するだけに過ぎず、確実にうち破れる能力を持っているとは思えなかったのである。 そこで艦政本部は、条約失効後の改装時点でアメリカ条約型戦艦、ならびに「コロラド」級をうち破れるだけの砲力ならびに防御力を付加するということで、条約の機能している間は、その条約制限に当てはまった「船体」を建造しようと考えたのである。後に「第二状態」と海軍内部で呼称されることになるこのような建造方法は、「摂津」級や、「蒼龍」級においても活用されることになった。 そこで、アメリカ戦艦を撃破可能な戦艦として、導き出された性能は、 基準排水量 42,000トン 最大速力 33ノット以上 主砲 50口径41センチ砲八門以上 建造隻数 四隻 というものであった。 主要部の装甲を後に施す設計にしておけば、35.000トンという条約枠内に収まるこの戦艦が正式に戦艦として洋上に出れば、「コロラド」級以上の防御力を持ち、速力では10ノット以上、想定目標である「ノース・カロライナ」級でも6ノット以上優速であり、砲力でも口径の分攻撃力の上昇は明らかで、優位に戦いを進めることができることは明らかであった。 次に考えられたのは、どのようなスタイルの戦艦を建造するかであった。 十六インチ砲に換装した場合のデザインであるが、 ・三連装四基 ・三連装三基、前部集中案 ・三連装三基、前部二基、後部一基 ・四連装三基 ・三連装二基+連装二基 ・連装四基 の六つであった。 この中から採用されたのが、連装四基案であった。無理をすれば三連装二基、連装二基という案も無理ではなかったが、主砲の交互射撃を重視するということと、二種類の砲塔の旋回速度に差がでるということから回避された。三連装砲の採用は、「六甲」級の拡大型である「摂津」級で行われた。同一口径の主砲を連装−三連装というパターンで採用するという日本海軍の建造スタイルはこの「六甲」級から始まったのである。 こうして新戦艦は、連装四基(14インチ砲)、33ノット強、船体防御というスタイルで建造されることが決定された。搭載されるべき14インチ砲は、廃艦となる「金剛」級各艦そのものを受け継ぐことで、費用の削減を図ることになるはずであった。しかし、新戦艦建造時において、その砲が載せられることはなかった。 「装甲巡洋艦」という「六甲」級の種別から判るように、彼女たちは純粋な「戦艦」として帝国海軍にその名を連ねたわけではなかったのである。彼女たちが海上に現れたときに装備していた砲は、「三笠」をはじめとする前ド級戦艦の主砲である12インチ(30.5センチ)砲よりも口径の小さい11インチ(28センチ)砲であった。 前述したとおり、ドイツの条約加盟によって「ドイッチュラント」級装甲艦を認める代わりに出された装甲艦条項により、文字通りの戦艦の補助艦となるクラスのフネを建造する権利を得た日本は、「高雄」級が艦齢10年を迎える1942年に重巡の保有枠いっぱい(14万トン)を使って装甲艦六隻を竣工させる事が可能であった。 このため日本海軍は後にこのクラスで使用されるはずの砲塔をとりあえずは新戦艦に乗せておき、のちにこのクラスが建造される時、条約切れで改装される事が当然である新戦艦の砲塔を再活用することで全体の費用を圧縮することにした。 そこで新戦艦に搭載された砲は54.5口径28センチ、またそれは日本ではなくドイツで製造されたものであった。同時期に建造された装甲艦「シャルンホルスト」級に装備された28センチ砲そのものであった。日本は満州の共同経営を独英に持ちかけており、その代わりに様々な経済的・技術的見返りを受けることになっており、「六甲」級の主砲はその見返りの最たるものであった。 当初、「六甲」級は、「ドイッチュラント」級装甲艦の52口径28センチ主砲を装備するよう設計変更がなされていた。しかし、「六甲」各艦の砲塔を受け継いで建造されることになる「阿蘇」級装甲巡洋艦において装備するはずの54.5口径とは、主砲の初速・射距離までが大きく違うということが判明したため、日本側が積極的にドイツ側に働きかけ、ライセンス生産を行うことで、急遽「六甲」級に装備されることになったのだ。 また「六甲」級の特徴として、副砲を装備せず、八十九式12.7センチ砲の仰角を上げた「両用砲」を装備している。なぜ副砲を装備していないか、その理由は単純で、重量軽減のためであった。しかも最上甲板に装備すべき6基も重量軽減の面から装備されていない。 機関は、建造が中止されたものの先に発注されていた「最上」級三〜六番艦の機関を流用している。またその機関自体もドイツ技術の流用により缶圧を上げるなどの教科が施されており、約一割強の出力強化がなされている。また藤本造船中将が主張していた機関のシフト配置は「六甲」級ではなされていない。後の改装において排水量画像ダイすることは了承の上ではあるが、それでも防御区画が拡大することによる更なる排水量の増大は避けるべきだと判断されたためであった。機関のシフト配置は、後の「摂津」級からなされている。 船体に関しては、ドイツにより開発された溶接可能な高張力綱「ST52」を積極採用し、全溶接で建造されている。重量削減の面から、バルジなど重心増加を招く部類の装甲面は削減されてはいないものの、水平・垂直装甲は可能な限り軽量化されている。また煙路の直接防御や、煙突そのものの防御もなされていない。日本艦艇の特徴である誘導煙突の装備も装甲巡洋艦時代の「六甲」級には装備されておらず、二本煙突を直接的に出すといういわば乱暴な解決策を採っている。この二本煙突のために後部艦橋の位置が多少後部に設置されている。「六甲」級の建造において、日本側のある技官は「事ある毎に、「ドイツの技術は世界一です」と言うドイツ技官の独善性には辟易していたが、しかしながら彼らがその技術に自信を持つのもある意味納得はできる」と評しているとおり、ドイツ技術を採用することで、「六甲」級は、これまでの日本艦にはない力強さを持った艦になることが明らかであった。 こうして「六甲」級は28センチ砲三連装四基十二門積んだ34ノットの高速艦として建造が開始された。 「六甲」という山の名前のとおり「金剛」級の後継艦として建造されることになった。新型戦艦のもう一つの特徴は、全艦が民間工場で建造されている。この理由は、「最上」級で露呈してしまった溶接技術を海軍が再習得するためのものであった。ドックに逆戻りすることになった「最上」ならびに「三隈」は偵察軽巡洋艦として再設計されることになり、新造に等しいまでの改装を加えられていた。また「蒼龍」級航空母艦や高速戦艦化された「長門」級の大改装など海軍工廠のドックは手一杯であったことも民間工場に「六甲」級が発注された理由である。しかしながら、自らの溶接技術の未熟さを露呈したくない海軍のメンツを保つために発注されたというのが現実であるらしい。 当時三菱や川崎を始めとする造船所は、中国貿易の増加により船舶の大量建造を行っており、その結果ドックの拡張や、建造工期を短縮するための溶接技術を積極的に採用していたのであった。 こうした状況もあり、民間に発注しておけば何かしら問題が起きた場合でも、民間にその責任をなすりつけてしまえばよいという発想が生まれたのはいうまでもないことである。結果、新型戦艦は、三菱・川崎にそれぞれ二隻ずつ発注されることになった。後にこの競争試作方法は海軍省のみならず、陸軍省や鉄道省でも採用されており、企業の競争意識を煽るためには最適の方策であったのだ。 当時現在の「六甲」級というネームシップは選定されておらず、一番早く竣工した戦艦がそのネームシップになるというふれこみを海軍が出したことでその競争意識を煽られた両企業は、昼夜兼行でその建造に力を傾けることになった。 特に川崎重工は、神戸の近くに航空機工場や製鉄所の建設、鉄道車両工場の拡張工事の完了(後にD51の缶圧を18気圧に挙げたD52や、そのボイラを活用した旅客用のC58の製造、そして日本における電気式ディーゼル機関車の隆盛の母胎となるDC11の輸入と技術習得はここによってなされたといっても過言ではない)、神戸工場もまた英独との貿易量が増えることを見越したドックの拡張工事を完了していたことなど、兵庫県中西部の開発を行っていた。 また過去にガントリークレーンの事故によりネームシップになることのできなかった「加古」の汚名をそそぐために、全力で「六甲」の建造に当たっていた川崎重工の工員の努力によって、翌1936年4月という驚異的なペースで「六甲」は進水する事になったのである。 「六甲」級各艦が進水する頃には、「キングジョージ五世」級や「ノース・カロライナ」級も続々と進水しつつあった。特にアメリカはニューディール政策における公共事業の一環として、「ノース・カロライナ」級を六隻(「ノース・カロライナ」、「ワシントン」、「サウス・ダコタ」、「アラバマ」、「マサチューセッツ」、「インディアナ」)同時に進水させており、また「ノース・カロライナ」級に続く戦艦(アイオワ級)の設計にも入っていた。 「六甲」が竣工したのは1938年。わずか三年弱という建造時間の短さは、その機関を建造がうち切られた「最上」級三〜六番艦から受け継いでおり、その主砲システム一式もまたドイツからの輸入によるものである事が大きい。このことがなければ条約の失効を待つことなく極秘に「第二状態」である戦艦として建造されていたであろう。 「金剛」級各艦と交代して第三戦隊に全艦配属された「六甲」級は、演習において「摂津」級に取って代わられることになる「扶桑」・「山城」級からなる第二戦隊と交戦、3発/分というその高い発射速度と30ノット強という高速でもって終始第二戦隊を翻弄し、二隻を撃沈、残りの二隻もまた行動不能に陥れるという「大戦果」を得たのであった。 「六甲」の運用において、その発射速度の高さによる手数の多さは魅力であった。一時は砲の換装は行わず、このまま防御力の改正のみでもという声があった。しかしながら、重装甲を信条とするアメリカ戦艦では一発一発の威力に劣ることは明らかであり、結局は十六インチ砲へと変更されるものの、「六甲」の改装においても射撃速度の維持に最大限の努力が払われており、「ノース・カロライナ」級と比べ門数では一門少ないものの単位時間あたりの発射数では大幅に上回るという結果を得ている。 また、強力な冷房設備と海水蒸留施設を装備していた「六甲」級は他艦の乗員の羨望の的であった。蒸留設備による風呂を装備していた「六甲」級各艦には、「六甲」は「有馬」といった、各艦の名称である山の名の近くに存在する温泉地の名をその風呂の名としていたことから、「ホテル六甲」、「雲仙温泉」という異名を付けられることになった。 しかしながら、後の改修を加えるという上で竣工した「六甲」は様々な問題を抱えていることは確かで、後に装甲を取り替えるあるいは取り付けるという設計で竣工した「六甲」は、燃料減少時に重心が上昇する事で非常にバランスの悪いフネであったのである。 3.改装 「六甲」級が装甲巡洋艦として洋上に姿を見せていたのはわずか二年に過ぎなかった。国際情勢は大幅な変化を見せようとしていたのだ。 1936年にソビエトが「23号計画」と呼ばれる海軍拡張計画によって、10年間に戦艦・巡洋戦艦各十五隻を建造するという情報を得た各国は、最初それを荒唐無稽な計画であると考えていた。 しかし、中国を巡って米仏との対立を深めつつあった日英独は、日英独に対抗すべく特にソビエトとの関係を深めつつあるアメリカが、軍縮条約に縛られない艦船をソビエトのため、しいてはそれをベースにした艦艇を設計・建造するであろう事を見越し、そのために条約に改正を加えることでアメリカの伸張を抑えようとしたのであった。 後に「改正条約型戦艦」と呼ばれる新たな制限は、ロンドン条約型戦艦がほぼ出そろいつつある、つまり建造中の戦艦に徹底的な改正を加えることの出来ない時期である1938年6月に、もしも第二次ロンドン条約を批准しない国が出てくれば排水量、主砲口径を引き上げるという条項(排水量45.000トン・口径16インチ)を正式に取り入れ成立した。「キング・ジョージX世」級戦艦の四・五番艦の建造をうち切って建造された「ライオン」級や仏「ガスコーニュ」級、独「マッケンゼン」級、米「アイオワ」級、そして日本の「摂津」級がこれに当たる。 また改正ロンドン条約と呼ばれるこの条約において、第二次ロンドン条約の下建造された条約型戦艦は、改正ロンドン条約の期限が切れる41年末日を持ってその制限が解かれるとされていた。ワシントン条約によるかりそめの平和はほころびを見せつつあり、改正ロンドン条約に続くべき軍縮条約を提案しようとする国はついには現れなかった。 建造中のソビエト戦艦「ソビエツキー・ソユーズ」級戦艦が改正ロンドン条約型戦艦をうち破れる性能を持っているという情報を得た各国海軍は極秘裏に「超改正条約型」の設計・建造を開始していた。そうして建造された戦艦−米「モンタナ」級、英「アイアン・デューク」級、独「バイエルン」級、そして日本の「相模」級−達は、条約型戦艦二隻分に達するあるいはそれをも越えた、まさしくモンスターともいうべきフネであったのだ。 1940年「六甲」各艦は、それぞれが進水、艤装段階に入っていた「摂津」級と交代でドックに入渠、改装を加えられることになる。 主要な改装点は以下の通りである。 ・主砲を九六式50口径41センチ砲八門に交換 ・艦主要部の装甲変更、新型綱板への交換 ・煙突の誘導煙突化ならびにに航空機兵装の追加 ・高角砲をはじめとする対空火器の変更・増設 ・水上・対空レーダーの搭載(「六甲」「生駒」は英国製、「雲仙」はドイツ製、「野呂」は日本製) 九十六式50口径41センチ砲は、四年にも渡る大改装において、高速戦艦化した長門級に装備された主砲である。この砲は後の相模級で装備された19インチ砲に隠れてはいるものの、「アイオワ」級に搭載されている50口径砲よりも強力な砲であったのだ。 また両用砲は新式の零式65口径12.7センチ連装砲に更新されている。 煙突の一本化、誘導煙突化によって浮いたスペースにクレーンやカタパルトといった航空機関連の設備を追加する事で水上機三機を搭載することになった。このことは「六甲」級と非常によく似たデザインであった独「ビスマルク」級との大きな識別点になる。 様々な改装を経て「六甲」級装甲巡洋艦は、「六甲」級戦艦として再び海に出ることになった。海軍の記録上では「六甲」級の改装終了は1942年一月一日となっていたものの、実際は十月頃には既に各艦とも海軍に引き渡されており、いつともしれぬ対米開戦に向けて猛訓練に励んでいた。 あとがき 岩本です。 戦艦二種の内、火葬戦艦こと「六甲」級です。この戦艦が生まれたのは、去年yamazaki!!さんのBBSで私が巻き起こした「重巡不要論(笑)」に原因があります。結局、重巡の正当性を論ずることができなかったんですね、私は。 その結果、この世界には重巡洋艦という艦種は余りありません。「加古(古鷹ではない!)・青葉」級は廃艦となってますし、「妙高」・「高雄」級は防空巡洋艦に改装されています。「最上」級二隻は35年という時代、ドック入りを余儀なくされていますので、後の「利根」級に近い大改装をおこなっています。この辺は私が開設するホームページにて描くつもりです(書く時間あるのか?)。 代わりに産み出されたのが超甲巡!(ワタシ真っ白に燃え尽きたネ…)でした。これを必要とする設定をどこから持ってくるか、それがドイツの条約参加です。28センチ砲という条約外の主砲を取り入れることで、超甲巡の存在を妥当なもの(ホンマか?)にしてみました。その後で、ドイツの技術を取り入れたら結構な戦艦も造れるのでは…という考えから、この「戦艦」は産み出されました。 もともと、ドイツ艦が好きなもので、ドイツと積極的な技術交流さえあれば、そのような戦艦が造れるのではないかと考え、「シャルンホルスト」級をベースにした戦艦を考えていました。「シャルンホルスト」級は、後に38センチ砲への改装計画ありましたし、ベースにするには最適でした。それをそのまま砲塔一つ増やせば…と考えていたのです。しかし、その線で建造した場合、重量面で競争試作用戦艦はわずかながらオーバーしてしまうのではという不安があったのです。 「蒼龍」級や「ビスマルク」級は、条約制限を大幅に越えたフネですから、条約を破る艦を造ることを枢軸海軍は何とも思ってません(笑)。しかし、私が条約を破った場合、胃袋さんからどのようなお叱りが待ちかまえているか判りません。 私は帝国海軍と相談し(ンナ事あるかい!)、「とりあえずゥ〜、後で条約ブッチするんだしィ〜、要る所後からもっぺん付けるって事でェ〜、一応海に浮かべてみようよォ〜」とする計画案を出しました(単純や…)。その結果、砲塔四基化「シャルンホルスト」は、「ビスマルク」にまで肥大する結果となりました。まあ、「ドイツノォ!技術ワァッ!世界一ィィッ!!」といわれるまでに防御力に不安のない戦艦になったのは良しとすべきでしょう(強引だ)。 神戸を建造地にしたのは、去年亡くなった私の祖父がそこに勤めていたからです。昔私に「試験中の空母(たぶん『飛鷹』や『大鳳』でしょう)とか巡洋艦や潜水艦に乗せてもろた」といってました。35年なら当然うちの祖父も勤めていたはずです。ならばそこで戦艦を建造しようと考えたのです。「六甲」という名称はそこから生まれました。 最初、「六甲」、「雲仙」、「生駒」…と全盛期の国鉄急行の名称で考えていたのですが、今年で広島から出ていくので、急遽名称未定の四番艦を呉市近郊の「野呂」(広島人しか知らないと思う…)山から拝借しました。「野呂」を採用した結果、「阿蘇」級の艦名には「妙義」、「碓氷」、といった峠族のたむろする艦名となってしまいました(笑)。 ちなみに、改装後の「六甲」級や「生駒」が対米戦途中に大破し、航空母艦に改装されるとかという設定や、「阿蘇」級装甲艦等の画像はできておりますので、近い内にお見せできるかもしれません。 結局修士論文の関係上、前に書いていた文章を切った張ったする事になり、非常に読みづらい文章になってしまったことをお詫びします。 最後に相当無理のある設定の戦艦の画像を描いて下さったかDoさんありがとうございます。この戦艦は暴走記外伝で使って下さって結構です(制御電脳化もOKですぅ)。しかし、その他で使われる場合は私の了承を経てからにして下さい。一応これでも私に著作権があるのですから。 |