
画:olympia氏
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○イタリア条約型戦艦○ ◎プブリウス・スキピオ型戦艦 (ポエニ戦争クラス)◎ 同型艦2隻 ●プブリウス・スキピオ Puburius Scipio 建造所:ジェノア造船 1933年11月2日起工 1937年1月12日進水 1939年10月22日就役 ●スキピオ・アエミリアヌス Scipio Aemirianus 建造所:トリエステ造船 1934年12月1日起工 1938年3月4日進水 1940年1月29日就役 性能主要目(1939年竣工当初) 常備排水量 35,000t 満載排水量 42,040t 全長 291,70m 垂線間長 278,25m 幅 27,3m 吃水 9,87m 兵装 55口径280mm3連装砲4基 50口径90mm単装高角砲12基 54口径37mm連装機銃6基 60口径20mm機銃18基 533mm3連装魚雷発射管4基 主缶 ヤーロー缶16基 主機・推進器 ブルッゾ・タービン4基:4軸:4翼 出力 200,000馬力 最大速力 36,2ノット 燃料 重油5,269t 航続距離 最大速力36,2ノット:1,712浬 巡航速力18ノット:3,712浬 経済速力14ノット:4,541浬 装甲 舷側装甲帯250mm 甲板80mm 主砲搭360mm 指令塔260mm 乗員 士官87名、 科員1820名 ●建艦への歩み● ネイバル・ホリデー後のイタリア海軍戦艦は大波に翻弄される葦に似ていた。 歴史という名の女神に玩ばれた大国を気取る二流国のあがきは、この戦艦建造に如実に現れている。 第一次世界大戦後、共産主義が蔓延し内乱状態となった国内は1922年、ファシスト・ムッソリーニの台頭を許してしまった。 政権を掌握したムッソリーニは壊滅的な内政を脱却すべく強固な膨張政策を押し進めた。 彼の信念は『地中海のイタリア化』即ち『失われたローマ帝国の再興』であった。 ここに地中海を経済圏の基盤としている『大英帝国』との衝突が予想された。 大英帝国は地中海の覇権を望むイタリア海軍第1仮想敵国として戦略に組み込まれた。 だが英国地中海派遣艦隊の実力は現在のイタリア国力からすれば過ぎた相手であった。 『老いた獅子』の貯め込んだ資本は第一次大戦によって磨り減ったものの、今でも強力な戦艦群・数多くの空母を保有し『遅れてきた暴君』の台頭を許さない強固な軍営を牽いていたのだ。 イタリア海軍は当面の敵として国境を接し経済資本圏の重複から対立を深めていたフランスを選んだ。 当時、フランスは先の大戦での陸軍の活躍と対照的な海軍作戦への不信感から軍事費の大半を陸軍へと投入され、広大な前世紀的戦略を基本とする『マジノ要塞』を建設していた。 フランス海軍の現状はは保有する戦艦の保守すらままならない状態となったのだ。 ワシントン条約によって同一の戦艦保有量とされたフランスを凌駕する――イタリア海軍の当初の目標は易々と達成されるかに見えた。 その そして自国海軍より優勢なイタリア海軍にフランスは消極的となり戦闘には至らないであろう…また、大英帝国派遣艦隊を各個撃破出来る事が可能ではないだろうか…フランスが脱落すれば大英帝国との政治的解決もあり得るのでは…と言う超希望的楽観論が兵士ならいざ知らず将校間ですら取り交わされ光景がそこかしこで見受けられた。 だがここに、フランス海軍の救世主とも言える非凡なる辣腕海相『ジョルジュ・レイグ』が登場するに至りイタリア海軍の楽観的憶測は水泡へと帰した。 彼は軽艦艇の建造や戦艦の近代化、新造戦艦建造の為の予算獲得に寝食を忘れて奔走した。 1926年、彼の献身的努力によってフランス議会は重い腰を上げ26,000t型2隻の新造戦艦建造予算を承認したのだ。 この新造戦艦は1931年にダンケルク型として日の目を見るがジョルジュはその完成を見ることなく1932年に現職海相のままこの世を去っている(彼は近代フランス海軍の父として今も讃えられている)。 このフランス海軍の急速な増強にイタリア海軍はワシントン条約によって定められた戦艦保有上限175,000t一杯の保有を目的とした建艦計画を持って当たる事とした。 当初、海軍上層部は35,000t新造戦艦5隻の建造を予定していた。 だが不況に喘ぐイタリア国政の現状は、それを許さなかった。 海軍は計画を大幅に見直さざるおえなくなり、新案計画は以下で一応の決着を見た。 ◎旧式戦艦を25,000t上限で近代改装し4隻で計100,000t、新型戦艦35,000tを2隻建艦し計170,000tを1942年度までに保有・整備し国防に当たるものとする(1931年度第4期海軍国防会議記録より抜粋)◎ これらの戦艦群の改装・設計は当時の造船総監であったプリエーゼが全面に渡って担当・総括し数々の新技術投入が予定されていた。 改装の筆頭は1928年までに一応の完成を見せた新型シリンダー式水中防御システム『プリエーゼ・システム』の搭載であった。 この『プリエーゼ・システム』とは船体側面下部両舷に密閉した巨大な円筒物(シリンダー)を内包した防御隔壁を形成、その内部を液体(燃料重油)で満たし水中爆発の衝撃を軽減、艦の浮力は円筒物で維持させるという物であった。 打撃能力向上の為の新型砲塔への改装、近代戦に対応出来る指揮能力の保有、『プリエーゼ・システム』の搭載を含めた旧式戦艦『コンティ・ディ・カブール』『カイオ・ジュリオ・チェザーレ』『カイオ・デュイリオ』『アンドレア・ドリア』の近代改装は艦全体の6割にも及ぶ言う大規模な物とされ、その為の資材・資金は新造艦建造並となり、設計が進行すると共に安価な改装案と言う当初の目的は急速に失われていった。 そして当然の事ながら、この近代改装について造船内部でも意見が大きく分かれ紛糾した。 時局を正確に認識する造船技師・将校の間では列強各国の新型艦艇に対抗する為は、我が国もより多くの新型艦を起工すべきである、との多くの声が挙がっていた。 仮想敵国フランスで新型戦艦『ダンケルク』が1932年に起工され事態は一刻の猶予も無くなった。 そんな逼迫した時、海軍造船部を揺るがす一大スキャンダルが露見した。 いわゆる『サン・ジョルジオ事件』である。 この贈賄事件によってプリエーゼ造船総監やロートウンディ造船官が逮捕・更迭されるにいたり、彼等を中心とした旧式戦艦改装を推進する一派は急速にその発言力を失っていった。 事此処に至り、イタリア海軍は膨大な経費を掛けて旧式戦艦改装を実施するより、新造戦艦を建造する方が良いとの結論に達した。 1932年、当初改装が予定されていた旧式戦艦4隻を廃艦処分とし、その資金・資材を持って本艦型2隻の起工が決定した。 イタリア海軍は対ダンケルク用本高速戦艦2隻(条約型新造戦艦)、高速戦艦(406mm砲搭載無条約型新造戦艦)4隻を1942年度までに建造、高速戦艦艦隊を編成し時局に対応する事としたのだ。 ●新造戦艦建造● イタリア海軍の戦艦建造の第一の制限としてロンドン条約の遵守が有った。 旧式戦艦しか保有していない今、大英帝国を無意味に刺激し地中海への介入を誘うのは避けねばならない。 主砲は当初、アンサルド社・OTO社が現在開発中の55口径356mm4連装砲塔を搭載し、全戦艦が就役する1942年には4隻の無条約型戦艦と同等の新開発の50口径380mm連装砲塔へと換装し無条約型戦艦と戦隊を編成可能な物とする計画であった。 しかし356mm4連装砲搭の開発は、遅々として進まず1937年になっても完成の見込みが全く立たなかった。 この主砲開発遅延は本艦建造上、致命的問題となりその竣工自体が危ぶまれる最悪の事態が発生したのだ。 勿論、イタリア造船技術の急速なる進歩を期待した50口径406mm連装砲塔は試作品すら完成していなかった。 このままではフランスが建造を進めている新型載艦『ダンケルク』型、更にはその後継艦である拡大改良型『リシュリュー』型すらもが先に竣工してしまう(仮想敵艦である『ダンケルク』型はすでに進水し、竣工直前の状態であった)。 事態を重く見た造船首脳部は、急遽代わりの主砲選定に奔走した。 旧『カイオ・デュイリオ』より回収した305mm砲を再搭載する案、前記の305mm砲をボーリング拡張し320mm砲として搭載する案などの現実的な案や、あくまで406mm艦砲新造に固執する案など造船部内の派閥対立が表面化し発生し事態は紛糾した。 そんな折り、36年に締結した三国協定で盟友となったドイツより意外な提案が有った。 その提案とは現在建造中のビスマルク型に搭載予定の47口径380mm連装砲を提供すると言うものであった。 このドイツの申し出に狂喜した造船部は一も二も無くこの380mm砲の搭載を決定した。 だがドイツでも新開発の380mm砲の生産は遅延しており、ドイツが現在建造中の新造巡洋戦艦『シャルンホルスト』型と同様に55口径280mm3連装砲搭を一時的に搭載し、380mm砲塔が完成次第換装すると言う事で落ち着いた。 全くもって願ってもいない僥倖であった。 これで条約違反で大英帝国を刺激する事もなくなった。 正に『瓢箪から駒』『負んぶに抱っこ』ではあったが形振りは構っていられない。 早速ドイツから8基分の280mm砲の諸部品が列車・船舶によって到着し本艦型へと搭載された。 主砲塔バーベット口径は406mm砲搭載を前提にしていた為、少々の改造で搭載が可能となった。 本艦型に搭載された機関は設計期間短縮・資金軽減の為に、軽巡洋艦『アブルッチ』型搭載の100,000馬力を複数搭載する事で200,000馬力を発揮する事に成功している。 本艦型の出力基準排水量比5.71(リットリオ型で3.14、アイオワ型で4.41)であった。 本艦型の艦縦横比は10.68(リットリオ型で7.23、アイオワ型で8.19)で復原性能上・強度上の実用的限界と言われる艦縦横比【11:1】ギリギリで設計された。 本艦の起工に批判的な将校達はその細い船体を評して『駆逐艦戦艦』と陰口を叩き、諸外国からは、『パスタシップ』と呼ばれ笑い者にされた。 実際、本艦型の船体は非常に不安定であり大口径砲のプラットホームとして見た場合は問題が多かった。 特に荒天下での凌波性・耐波性・安定性は最悪であり、『プブリウス・スキピオ』は1940年の慣熟訓練中に遭遇した記録的台風によって艦首を切断すると言う事態が発生した。 『プブリウス・スキピオ』はこの事故を契機に以前から問題が有った錨取り付け部の変更、鋭角度クリッパー式艦首への変更を実施している(『スキピオ・アエミリアヌス』は改装する事無く戦没してしまった)。 ●竣工● 47口径380mm連装砲がドイツのクルップ社で完成間近の39年9月1日、ドイツが突如ポーランドに侵攻しヨーロッパは戦火に塗れた。 第二次世界大戦の始まりである。 この事態に慌てたイタリア造船首脳部はドイツに対し380mm砲の早期引き渡しを求めた。戦争が始まった今、条約など無意味となってしまったのである。 だがドイツ側の回答は極めて冷徹であった。 大戦が始まった現在、陸路、海路共に主砲をイタリアに輸送する事は物理的に不可能である。と表向きはこの様になっているが、本当の所はムッソリーニが英仏に対し中立を宣言した事への報復であると思われる。 1939年12月に『プブリウス・スキピオ』が、翌年1月には『スキピオ・アイエリアヌス』が相次いで就役した。 1940年現在、イタリア造船部内では前記のドイツ式55口径280mm連装砲塔を参考として50口径381mm3連装砲の試作が完成し1941年には量産化の見通しを立てていた。 この主砲塔は現在建造中の『ヴィットリオ・ヴェネト』に優先的に搭載される事とされた。 本艦型も1942年中に改装を予定していた。 だが海軍上層部が進めていた1942年艦隊整備計画は突然のムッソリーニの政策変更によって水泡へと帰してしまった。 1940年6月10日、主砲塔を換装できないまま本艦型は大戦に突入する事になってしまった。 ●戦歴● 2隻の緒戦は早々とやって来た。7月9日、カンピオーニ提督率いるイタリア第一艦隊がマルタ島からの引き揚げ船団護衛任務の為出撃したイギリス艦隊を、スパルティヴェント岬沖で捕捉、戦闘となる。(カラブリア岬沖海戦) 両軍の兵力は以下の通り。 イタリア艦隊 戦艦4隻「プブリウス・スキピオ」、「スキピオ・アイエリアヌス」、「コンティ・ディ・カヴール」、「ジュリオチェザーレ」 重巡6隻、 軽巡12隻 駆逐艦多数 イギリス艦隊 戦艦3隻「ウォースパイト」、「マレーヤ」、「ロイヤル・ソヴリン」 空母1隻「イーグル」 軽巡5隻 駆逐艦6隻 数では有利だが戦艦の主砲口径が劣るイタリア艦隊は、距離の不利を埋める為イギリス艦隊に対し、隊列を組んで突撃を開始する。 だが、戦意旺盛なイギリス艦隊は逆に空母「イーグル」より発艦した雷撃機が、イタリア艦隊に対し先制攻撃をかけた。 この先制攻撃により被害はほとんどなかったが、隊列はめちゃくちゃに乱れ突撃どころではなくなってしまった。 さらにこの時射程圏内に入ったイギリス艦隊が猛烈な射撃を開始し「ジュリオ・テェザーレ」が「ウォースパイト」の、「プブリウス・スキピオ」がイギリス重巡の命中弾を受けてしまった。 乗艦に被弾されたカンピオーニ提督は慌てて全艦に撤退命令を出すと36ノットの高速を生かし、先頭に立って逃げ出してしまう。 司令官の突然の逃走に至っては、すでに艦隊としての機能など望むべきもないイタリア残存艦は、駆逐艦の魚雷攻撃の援護の元、 全艦離脱して行った。 更に不運な事に、戦闘終了後メッシナ海峡に向かっている第一艦隊にイタリア爆撃機が敵艦隊と間違えて爆撃を行ってきたが 危うい所で被害を免れた。 この海戦では両艦とも新型の単装広角砲が期待通りの性能を発揮したのみであり主砲を戦艦に向けて1発も発射出来ないまま、「プブリウス・スキピオ」 が小破と散々たる結果に終わったのである。 この海戦から4ヶ月後の11月11日、イタリア海軍にとって最悪の日となった。 その夜タラント沖170浬 迄接近したイギリス機動部隊から発進したソードフィッシュ雷撃機21機が闇夜をついて侵入、雷撃を行った。 この攻撃は完全な奇襲となりイタリア軍の防空体制が整わないうちに易々と雷撃を成功させ「カイオ・デュイリオ」、「コンテ・ディ・カヴール」に魚雷1本、「スキピオ・アイエリアヌス」に魚雷を3本命中させた。 「カイオ・デュイリオ」、「コンテ・ディ・カヴール」は大破。「スキピオ・アイエリアヌス」に至っては3本目の魚雷が弾薬庫へ誘爆、 一瞬のうちに船体が真っ二つに折れ轟沈してしまったのである。就役からわずか10ヶ月と言う短さであった。 尚、「プブリウス・スキピオ」はドックで修理中だった為、難を逃れた。 この甚大な被害によりイタリア軍とイギリス軍との戦力比は一気に逆転してしまい、これ以降イタリア海軍はドイツ空軍に支援を要請しなければならない程であった。 明くる41年6月イタリア海軍部内で、大胆な作戦計画が立案された。タラント奇襲の報復として地中海のイギリス海軍の一大根拠地であるアレキサンドリアに艦隊で殴り込みをかけると言う物であった。しかしこちらには空母が無い為、航空機での攻撃はもちろん艦隊の護衛すら不可能な距離である。 この無謀とも思える作戦の指揮をとる事になったイアチノ提督は、旗艦「プブリウス・スキピオ」以下戦艦1隻、重巡6隻、軽巡2隻、駆逐艦13隻を率いてタラントを出撃しクレタ島の北を抜け、エーゲ海のレロス島で補給後そのまま全速で南下し、アレキサンドリアに突入する計画であった。 そして7月29日、作戦が決行された。タラントを出撃したイアチノ艦隊はクレタ島周辺でイギリス空軍機の激しい攻撃を受けるも、駆逐艦1隻沈没のみの被害でレロス島に到着し、慌ただしく補給を受け直ちにアレキサンドリアに向かった。 全速力で南下中の午後3時40分頃アレキサンドリアまで300浬と言う所でイギリス艦隊に発見されてしまう。実はクレタ島を通過している時からレーダー、偵察機、潜水艦などにより逐一アレキサンドリアの地中海艦隊司令部に位置を通報されていたのであった。 イアチノ提督はここまで来たら逃げずに戦う事を選んだ。旗艦を先頭に単縦陣を組み、果敢にも待ち構えるイギリス艦隊に突撃していった。 2時間の大海戦によりイギリス戦艦1隻撃沈、1隻中破、1隻小破、重巡2隻中破、軽巡2隻撃沈、3隻中破、駆逐艦3隻撃沈、3隻大破、1隻中破、4隻小破、と言う戦果を上げるも、 イタリア艦隊も戦艦1隻撃沈,1隻大破、重巡4隻撃沈、2隻小破、軽巡1隻撃沈、1隻大破、駆逐艦6隻撃沈、3隻大破、4隻中破と言う壊滅的な打撃を受けてしまう。「プブリウス・スキピオ」は戦闘開始30分後、戦闘艦橋に被弾しイアチノ提督以下、司令部要員全員戦死と言う悲劇があったが、生き残った者達の英雄的な行動により戦闘を続け戦艦「マレーヤ」を撃沈するも、「ウォースパイト」による命中弾多数による進水の為、午後4時52分沈没した。 |