米国陸軍航空隊 試作重爆撃機 ダグラス XB-22A「カナード・マスター」


XB-22A 三面図

ダグラス XB-22A 緒元
エンジンアリソン V-3420 液冷 24 気筒(2,600hp) x 4
武装12.7mm 機銃 x 8, 7.7mm 機銃 x 1
爆弾最大 8,000lbs(3,629Kg)
最大速度397mph(638Km/h) 高度 3,000m
322mph(518Km/h) 高度 7,500m
航続距離通常 2,500mile(4,022Km)
最大 3,800mile(6,114Km)
乗員9名
翼幅141.7ft(43.2m)
全長86.9ft(26.5m)
全高34.1ft(10.4m)
自重乾燥重量 71,590lbs(32,473Kg)
全備重量 105,800lbs(47,990Kg)


"Mourey's Bigbird"
The story of XB-22A "Canard Master".



 1943 年 7 月 21 日の早朝、カリフォルニア州パーム・スプリングスの陸軍航空隊試験飛行場はただならぬ騒ぎに包まれていた。手空きの整備員達は人垣を作り、新鋭機を見慣れた筈のテストパイロットですらその目を驚愕に見張っていた。エプロンに引き出され、エンジン試運転を行っているのは巨大な「怪鳥」…ダグラスの新鋭四発爆撃機、XB-22A であった。群集の片隅で、この「ビッグバード」の産みの親フィリップ・L・モーリー技師はその若さに似合わぬやつれた顔を上げ、感無量の表情で朝日を鈍く反射するオリーブドラブ迷彩の巨体を見つめていた。

 話はこの七年前に溯る。1936 年から始まったスペイン戦役においてソ連 SB-2、ドイツ He111 など「高速爆撃機」が、旧式の複葉戦闘機を振り切って傍若無人の活躍を見せたことは世界の空軍関係者に少なからぬ衝撃を与えていた。世に言う「戦闘機不要論」の台頭である。特に米陸軍航空隊においては、「爆撃親父」ことヘンリー・「ハップ」・アーノルド将軍の舌鋒は凄まじかった。

「戦闘機と爆撃機の飛行性能には大差がなくなってきている。航空機の性能向上が目覚しい今日、この関係が逆転する日も遠くないであろう。我々の『空の艦隊』が出撃し、戦闘機を振り切って敵首都を焼き払えば、戦争が数日で終わる時代が来る!」

 1939 年 9 月、彼の強力な論調に押し切られる形で、米陸軍航空隊は翌年に予定されていた次世代大型爆撃機計画「R-40B」を大幅に手直しし、予定より三ヶ月も早く「R-39B-1」として発令した。その内容は過酷極まりないものであり、各メーカーの担当者を大変な苦悩に陥れるものであった。

RC-40B 原案と RC-39B-1 修正案の比較
R-40BR-39B-1
爆弾搭載量2,000lbs(907Kg)10,000lbs(4,536Kg)
航続距離5,333ml(8,580Km)2,200ml(3,540Km)
最大速度400mph(643Km/h)380mph(611Km/h)

 「ハップ」・アーノルドの「空中艦隊」構想を実現するため、爆弾搭載量は大幅に増やされている。また、この時点では武装・防御について特に要求は出されず、「速度こそを第一とする」という注釈が付いていた。速度についての要求値こそ RC-40B 原案より 20mph 妥協されていたものの、380mph を一マイルたりとも切るなという緊迫感が仕様書の言外に滲み出ていた。



 RC-39B-1 に基づき XB-22 の形番を受け取ったダグラス社では、当時社内開発中だった UC-394/B を改造してこの仕様に宛てようとした。UCB-394/B は社内呼称 UC-394 多目的機の爆撃機タイプである。これは太い円筒形の胴体を持った肩翼の四発機で、高々度爆撃機・隠密偵察機・長距離輸送機を兼ね、平時には民間用として輸送機・旅客機にも流用しようという野心的なプロジェクトであった。
 しかし計算の結果、UC-394/B の改造では RC-39B-1 の要求仕様はとても満たせないことがわかり、また戦況の逼迫によって UC-394 プロジェクトも中断されてしまった。こうして、XB-22 計画はゼロから再スタートすることになり、新たなプロジェクトには XB-22A の番号が与えられた。UC-394 の失敗で既に他社から遅れだしていたダグラスは、起死回生を図って徹底的に速度を追求する決意を固め、27 歳で新進気鋭の若き設計者フィリップ・L・モーリーを主任設計者に任命した。

 モーリーにとって、XB-22A の設計は徹底的な抵抗削減との戦いに他ならなかった。四発機にとって、最も大きな空気抵抗源は疑う余地なく四基のエンジン・ナセルである。これを少しでも細くできれば、あるいは二つをまとめて一つにすれば大幅な抵抗削減ができるが、そんあうまい手段があるのだろうか?
 「ある!」フィリップ・モーリーはその頃アリソン社で開発中だった V-3420 2,600hp 液冷 24 気筒に目をつけた。これはアリソン V-1710 を二基結合した双子エンジンであり、技術的に未知の部分も多かったが、もし稼動すればアメリカ最強の液冷エンジンになるはずであった。これは実用試験を兼ねてダグラス社の失敗作 XB-19 に搭載する予定があったのだが、モーリーは一足先にその新鋭エンジンを頂いてしまったのである。一方、液冷エンジンが被弾に弱いことは全く考慮にならなかった。XB-22A は戦闘機を振り切れる高速重爆なのだ、誰が被弾の心配をする必要があるだろう?
 モーリーのアイデアマンぶりはそれにとどまらなかった。彼は両翼のナセルに二基の V-3420 を隣り合わせに格納し、延長軸とギヤボックスで二重反転プロペラを回転させるメカニズムまで考案したのだ。だが人々を驚かせたのはエンジンの配置だけではない。モーリーは高速を追求するあまり、大型爆撃機としては異例の「エンテ」形態、すなわち先尾翼を採用したのだ。

 エンテ型は主翼と先翼の両方で揚力を受け持つため、通常形態よりも胴体強度を高めなければならない。しかも重心位置が胴体中央付近にあるため爆弾倉を主翼桁から離れた場所に配置せねばならず、胴体全長にわたって強度材を貫通させるためになおさら重くなりかねないということなのだ。
 先尾翼によって得られる空力的有利は重量増加の不利を上回るのか?そもそも、こんな前例のない技術ばかり集めて大丈夫なのか?堅実を持って知られるダグラス社だけに、モーリーへの風当たりは強かった。だがモーリーの自信は揺るがず、彼はこの機体に「カナード・マスター」という誇らしげなニックネームまで付けていた。そして人から疑問や不安を投げかけられると、彼は決まってこう言うのだった。

「よし、それなら俺は降りてもいい。誰か他の奴にこのイマイマしい R-39B-1 を突きつけて代わってもらってくれ、そいつが三年以内に要求仕様通りのものを作れるんだったらな。」



 欧州の戦争は急ピッチで進み、太平洋にも暗雲が垂れ込みはじめていた。設計は迅速に進めなければならない。ダグラスの開発陣は UC-394 プロジェクトの開発チームをそのままモーリーの配下に回し、日に夜を次いだ猛烈な設計作業が開始された。解決しなければならない問題は山のようにあった…隣り合った V-3420 二基の冷却と排気をどうするか、燃料・オイル・電装系の配管をどうするか。整備パネルをどう配置すべきか。脚はどこにどう引き込むべきか、強度は大丈夫か。二重反転プロペラやギアボックスの設計は半ば手探りだったし、前例のない胴体中央爆弾倉の強度計算と実験にも膨大な時間が費やされた。更に、設計半ばで軍が防御火力(遠隔操作式腹部銃座を含む)の強化および防弾鋼板・防漏タンク・自動消火装置の増設を要求してきたため、設計現場はパニック状態の混乱に陥っていった。

 フィリップ・モーリーが良い設計者であったかどうかはともかく、優れた管理者であったことは確かであろう。彼は続発する問題をてきぱきとまとめて担当者に渡す一方、自らもアイデアを絞って解決に臨んだ。クローム・モリブデン合金を削り出した長さ 3.75m という異常に長い前脚はダグラス社内では製造できず、モーリー自らが駆け回って仕様通りの脚を作れる工場を見つけてきた。後輪は二基のエンジンの間に引き込むため前後タンデムの配置となり、地上姿勢においては車輪格納庫がそのまま整備員の入るスペースになる設計だった。
 1940 年暮れにはモックアップが完成したが、軍からは「背面銃座の射界が狭い」というクレームがついた。ヨーロッパでの戦訓により、後上方への射撃こそ最も重要な防御であることが判明していたのだ。XB-22A は両翼エンジンナセル上に二枚の尾翼が突っ立っており、背面銃座からの射界は極めて狭かった。また空力を最重視したため尾部には有人銃座がなく、遠隔操作式の 37mm 機関砲が据え付けられていただけだった。
 R-39B-1 では武装について特に要求してなかったのに…などと泣きごとを言っても始まらない。モーリーは垂直安定板の面積を増すと同時に、外側 42 度に倒して射界を確保するよう設計を変更した。空力知識のある関係者たちは、これが爆撃機の命とも言える直進安定性に及ぼす悪影響について心配したが、当のモーリーは楽観的だった。彼の計算によれば XB-22A の縦に長いエンジンナセルには垂直安定板と同じ作用があり、後退角のついた主翼にも正の方向安定性があり、更に二重反転プロペラがトルクを相殺するので、垂直尾翼の効果減少は充分補えるとのことだった。機銃手が誤ってプロペラや垂直尾翼を撃たないよう、後方銃座には電気式の安全装置が設けられ、危険な角度では射撃できないよう調整されていた。



 そして 1941 年 12 月 8 日、パールハーバー奇襲のニュースが全米を戦慄させた。慌ただしく始まった対日戦の準備の中、XB-22A にも太平洋戦線を眼中に入れた航続距離延長要求が追加された。モーリーは悪化した持病の胃潰瘍に苦しみながらも、翼端の延長・尾部 37mm 機関砲の除去(連装 12.7mm に換装)などを指示し、爆弾搭載量を 2,000 ポンド減らして増加タンクを取り付けた。このため胴体強度計算と設計はやり直しになり、XB-22A の工程は更に遅れることとなった。
 一方、ヨーロッパ戦線ではイギリス海岸を基地とした B-17・B-24 のドイツ本土空襲が始まり、ドイツの誇る対空砲火と迎撃戦闘機の前に激戦が展開されていた。凄まじい被害に遭遇した前線からは「一日も早く新型機を!」という悲痛な声が上がっていたが、一方では旧式と考えられていた B-17 の頑丈さが有効であることも証明されていた。よく防御された近代都市への空襲とはアーノルド将軍が考えていたような甘いものではなく、強力な火器と防弾装備に身を固め、強固な編隊に物を言わせて被害を物ともせずに強襲するものだったのだ…少なくとも米第8空軍にとってはそうだった。同じ頃、被弾に弱い液冷エンジンを積み防御砲火も貧弱なイギリス爆撃機は、散開編隊による夜間空襲作戦を採っていたが、これは米空軍の望むところではなかった。
 一時期は米空軍のホープと期待されていた XB-22A は、その実用性に対して疑いの目が向けられ始めた。米空軍が必要としているのはハイテクを満載した脆弱な駿馬ではなく、殺しても死なないほどタフな馬車馬だったのだ。また、その心臓部であるアリソン V-3420 は実運用試験に入ってもトラブルが続出しており、こんなものを一つのナセルに二基も搭載してまともに稼動するのかどうか、さしものモーリーも不安に感じていた。ヨーロッパの激戦を経験したある空軍将校は、XB-22A の設計図を見てこう言ったと伝えられる。

「おい、これは何の冗談だ?一つのナセルに二基のエンジンを格納するなんて、片方のエンジンが被弾して燃えたらもう片方も道連れじゃないか。つまり二発喰ったら両翼のエンジンが止まってお陀仏ってことだ、馬鹿にしてるよ。これを設計したセンセイを一度 B-17 に乗せてルールの上空にでも飛ばしてやんな、『戦略爆撃』ってのがどういうことかよーくわかるぜ。」

 もちろん、モーリーにはルール爆撃を体験する余裕などなかった。試作機製作に入ってからも続出する技術的問題に加え、彼は軍からの冷淡や社内からの逆風とも戦わなければならなかったのだ。



 相次ぐ設計変更に製造現場も大混乱の様相を呈していたが、それでも 1942 年中頃には飛行機らしい形になりつつあった。零号機による強度試験は 1942 年 10 月に行われたが、主翼および胴体の強度不足が判明し、製造中の初号機には必要な補強が施された。当初の予定乾燥重量 68,000lbs(30.8t)は大幅にオーバーしており、モーリーは計測結果に目をつぶりたいくらいだった…この時点での乾燥重量は 71,590lbs(32.5t) で、3,500 ポンド以上のオーバーである。これに武装や爆弾を搭載したら、果たして予定の飛行性能は出るのだろうか?不安を抱えたまま初号機の製造は続行され、1943 年 4 月には発動機の機上試験が始まった。しかし予想通り V-3420 の不具合は完治しておらず、特に冷却不良からくるトラブルが続出した。何か故障が起きるたびに整備員は脚収納庫にもぐりこんで作業せねばならなかったが、エンジンの余熱立ち込める狭苦しいスペースでの作業は困難を極めた。加えて延長軸の共振やギヤボックスの焼き付き、二重反転プロペラの故障も続発し、地上走行試験まで三ヶ月もかかってしまった。
 1943 年 7 月 12 日、トラブル続きの「ビッグバード」はようやく地上走行試験を行った。冷却不良は相変わらずの問題だったが、ギヤボックスやプロペラの問題はほぼ解決していることが確認された。何度かの「ジャンプ」試験のあと、翌週の 7 月 21 日に XB-22A は初飛行に飛び立った。「あんな化物が飛ぶはずがない」という前評判とは裏腹に XB-22A はスムーズに舞い上がり、上空を何度か旋回したあと無事に飛行場へ戻ってきた。パイロットはこの奇妙な機体の操縦性は意外なほど良好だったが、爆撃機としては直進安定性に欠けるようだ、と報告した。また、わずか 20 分の飛行にも関わらずオイル・冷却水が過熱しており、配管の一部はハンダが溶け危険な状態になっていた。



 モーリー達は試験飛行を続けながら問題を整理し、ライン上にある二号機・三号機にも必要な改良を施していった。10 月 18 日に行われた全速飛行では高度 10,000ft で要求値を大幅に上回る 397mph(638Km/h)を出し関係者を沸かせたが、排気タービンを装備していないため 15,000ft を越えたあたりからエンジン馬力は目にみえて落ち、25,000ft では 322mph(518Km/h) にまで低下した。軍はこれを不満としてが、そもそも R-39B-1 の要求は中高度での高速性であり、高々度性能は要求外の筈だったのだ。
 モーリー達の努力にも関わらず、1943 年 11 月 21 日付けで陸軍航空隊は XB-22A プロジェクトの廃棄を正式に通達した。最も大きな理由は直進安定性の不足でも高々度性能の不足でもなく、XB-22A の高価格だった。量産ベースの見積もりでさえボーイング B-29 の三倍以上というその価格は、とても性能差には見合わないと結論づけられたのだ。プロジェクト廃棄の代案として XB-22A を改造した高々度隠密偵察機の試作が示唆されたが、ただでさえ機構を押し込みすぎたエンジンナセルには排気タービンを装着する余裕がなく実現しなかった。
 組み立て途上にあった二号機・三号機はスクラップにされ、戦争資材のアルミ塊に変えられてしまった。ただ一機残った XB-22A はカナード翼の空力研究用としてアリゾナ州ツーソン基地へと移管されたが、わざわざ戦時に整備の難しい機体を飛ばす余裕はなく、1946 年までは基地の片隅で埃をかぶっていた。1946 年 4 月には再び XB-22A に脚光が当たり、ジェット爆撃機に改造するため機体は再びパームスプリングスへと戻された。この改造型には XB-22C(何故か XB-22B は欠番である)の形番が与えられ、ジェネラル・エレクトリック J-33 四基を搭載する予定だったが、作業にかかるまえに計画はキャンセルされた。不運な「ビッグバード」は又もやツーソンに送られたが、今度は飛行場ではなく「ボーンヤード(骨置き場)」と呼ばれるスクラップ場に放置されることになった。



 XB-22A に関する記録はここで終わっているので、今でもツーソン・ボーンヤードのどこかガラクタの山に埋もれているのであろう。なお、フィリップ・L・モーリーは 1945 年 10 月にダグラスを退職して自動車メーカーのクライスラー社に移っているが、彼の退職が XB-22A の失敗に関係しているかどうかについては記録がない。クライスラーでは設計ではなく管理職として務め、高く評価されていたという。モーリーは 1958 年に 46 歳の若さで世を去った。死因は胃癌であった。

作者からのコメント

 当初はおとなしいデザインを考えていたのですが、大人しくなりすぎて面白くないので描き直したら、過激な火葬機になってしまいました(^^;)。折角描いた画像なので話のネタに使っています。今回はちょっとストーリーに凝ってみました。コロコロ変わる顧客の要求と上司の無理解に振り回される技術者モーリーの姿には、知らず知らずのうちに自分自身の姿を投影してしまったかも知れません。しかし…あぁ、また失敗作を描いてしまった…(T_T)。

文・画とも Copyright by Y.Sasaki 1999 2/14