防空巡洋艦「葛城」型

防空巡洋艦「葛城」型
画:海野土左衛門氏

全長  160メートル
全幅  14.2メートル
出力  90000馬力
速力  32ノット
兵装  1式70口径8インチ連装対空砲 2基
     89式5インチ連装対空砲    2基
排水量 5950トン

同型艦 「葛城」、「伊吹」、「鞍馬」、「白根」
準同型艦「石狩」、「丸山」(いずれも1式70口径8インチ連装対空砲を搭載せず。)

昭和16年3月増強が予想される米軍航空戦力に対応すべく7000トン程度までの 船体を用いて、艦隊対空防護艦の建造が計画された。
当初は、14〜15センチ対空砲を8〜10門程度装備したオーソドックスな巡洋艦 が計画されていた。
ところが、ある海軍の士官(この士官の名は伝わっていない。)がとんでもない防空 計画(というより思想)をぶちあげた。
「軍艦と航空機の闘いは軍艦同士のそれより遙かに近距離で行われるモノである。軍 艦同士の撃ち合いは10キロから、時には30キロ以上の遠距離での戦闘なのに対して航空機は高さを含 めても1キロ程度のものである。航空機はそこまで近づかなければ搭載兵器の命中は期待できないのだ。」 「したがって、洋上決戦において飛来する米航空機群に対し、その射程距離外から長射程の対空砲を もって攻撃すれば、長篠の戦いでの織田鉄砲軍団のごとく一方的勝利をおさめられる」と いう防空思想である。
そしてこれを実現させるべく、航空機の攻撃距離1キロの10倍の有効射程距離をもつ70口径8インチ 対空砲を5500トンクラスの船体に搭載し、電探で発見した米航空隊に対しT字戦 法(ようするに側舷射撃)を行う、という前代未聞の防空案を立てたのである。
この1士官の防空案がなぜ通ったのかは謎であるが、ともかくこの案を実行に移すべ く造船技師は設計に入った。
問題は2点、1点は70口径8インチ対空砲という重巡クラスへの搭載がふさわしい 大口径砲をいかにして、5000〜6000トンクラスの船体に搭載するか、そしてもう1点は“70口 径8インチ”という化け物のような砲(特に砲身)をどうやって製造するかであった。
70口径8インチ連装対空砲搭載のため、もっとも安定性の高い船体中央部にトップ ヘビーを避けるべくできるかぎり低い位置に、背中あわせに砲塔を2基配置し、本来その位置におかれる べき機関部を前後に2分割して配置、これに連動し艦橋も前方に移動、艦首部と艦尾部の少ないスペース に5インチ連装対空砲をそれぞれ1基づつ配置するという苦肉の設計を行ったのである。
そのため煙突と煙突のあいだに大砲塔が2基あるという異様なシルエットとなった。
70口径8インチ連装対空砲も製作は困難を極め、他の重巡にも、このクラスの5番 艦以降にもこの砲を搭載することは、ついにかなわなかった。
1番艦「葛城」の起工は昭和17年2月、他の工廠の範となるべく海軍呉工廠で行わ れた。4月に、三菱長崎工廠で2番艦「伊吹」が起工された。
3番艦は横須賀工廠で、4番艦は神戸工廠で起工予定だったが、時折しも日本機動部 隊(特に艦戦隊)がインド洋で大活躍をしており、「防空艦はあまり必要ないのでは?」との意見もあり、 また70口径8インチ連装対空砲の生産が滞っていたこともあり、起工は延期された。
しかし昭和17年6月、運命のミッドウェー海戦で、無敵を誇った零式艦戦隊は米降 下爆撃隊の侵入を許し、旗艦「赤城」以下3空母は炎上。残る「飛龍」も、これを守らんとする護衛艦の 対空砲火を、突破した米降下爆撃隊によって、葬られた。
これにより、防空艦の必要性が再浮上、3番艦以下10隻の建造が計画された。
3番艦「鞍馬」が横須賀工廠で、4番艦「白根」は神戸工廠でそれぞれ8月に起工さ れ、5番艦以降は、1〜4番艦が進水した後に順次起工することとなった。
昭和18年1月に1番艦「葛城」が、4月には2番艦「伊吹」が竣工し、それぞれ連 合艦隊に編入された。
しかし、3番艦「鞍馬」、4番艦「白根」は進水したものの、肝心の70口径8イン チ連装対空砲ができておらず、3番艦「鞍馬」は12月に、4番艦「白根」は19年5月にようやく装備 するというありさまだった。
この極端な生産性の悪さに海軍は、7番艦以降の建造は70口径8インチ連装対空砲 の生産の見通しが立つまで延期し、5,6番艦は25ミリ連装機銃を装備して連合艦隊に編入し、70口 径8インチ連装対空砲の完成後、改装するという妥当な措置をおこなった。
昭和19年6月米軍がサイパン攻略のため、空母15隻を基幹とする大艦隊を派遣す ると日本軍も「あ号作戦」を発動、空母9隻を基幹とする大機動部隊を出撃させた。
小澤治三郎中将指揮下の機動部隊のうち、空母3隻、戦艦4隻を基幹とする前衛部隊 に「葛城」、「伊吹」、「鞍馬」、「白根」は編入された。(5番艦「石狩」、6番艦「丸山」は出撃しな かった。)大林少将指揮下の前衛部隊は、より後方に位置する甲部隊、及び乙部隊に向かう米航空部隊を その対空砲火をもって漸減する役目を負っており、「葛城」級の対空火力に期待していたのである。
マリアナ沖海戦で完敗し敗走を始めた日本艦隊に、米機動部隊の一部が航続距離ぎり ぎりから追撃をかけてきた。ついに「葛城」級の出番がやってきたのである。
戦隊旗艦「白根」を先頭に4隻が単縦陣を作り、電探でキャッチした米航空機群に向 かって猛然と70口径8インチ連装対空砲の側舷射撃を加えたのである。米航空機群は壊滅する・・・はず であった。
しかし実際には10キロ彼方から撃ってくる対空砲弾など全く命中せず、航空機の付 近で炸裂した3式弾など一発もなかったのである。
日本軍は近接信管を持っておらず、炸裂させる距離は電探や光学測定によるデータを もとに数学で計算し、砲弾の炸裂時間を設定するものでしかなく、10キロもの遠距離では効果は期待でき なかったのである。
抜本的な対策がみいだせぬまま、昭和19年11月となり、米軍はフィリピンに空母 20隻以上を基幹とする大艦隊を派遣、日本軍は「捷1号作戦」を発動し、最後の決戦を挑むこととなった。

「葛城」、「伊吹」、「鞍馬」、「白根」は栗田中将指揮下の第一遊撃部隊に編入さ れ25ミリ機銃を5インチ連装対空砲に換装した、「石狩」、「丸山」は小澤治三郎中将指揮下の機動部 隊に配備された。
第一遊撃部隊に襲い来る米艦載機群に対し、今回は通常の対空砲と同じく近距離での 射撃を行ったが、今度はその砲塔配置、砲塔の重量が災いし十分な対空射撃を行うことができなかった。
威力は高かったが連射力と命中率が低く、砲塔の取り回しが悪かったのである。
数度にわたる空襲で「鞍馬」は機関室に被弾したが、その特異な砲塔配置により機関 室が前後に分かれていることもあり、後方に落伍はしたものの、なんとか戦場を脱することができた。
サンベルナルジノ海峡を突破した後、サーマル島沖で米空母群を発見したときは、巡 洋艦、駆逐艦に混じり、「葛城」、「伊吹」、「白根」も追撃を開始、これを撃退しようとする米空母艦 載機群に必死の対空射撃を行った。
特に「葛城」は前方射界を取るため艦橋上部を吹き飛ばしてまで対空戦闘を行った。
この「葛城」級の奮戦もあり、追撃自体は失敗したが、追撃を行った艦艇はボロボロになりながらもなん とか帰還できたのである。
「捷1号作戦」の後は「葛城」級はすべて内地に回航され、稼働させるための重油が ないため、柱島に碇泊したままだった。
米軍の空襲を受け2番艦「伊吹」以外はすべて、大破着底、横転していた。
「伊吹」もそのまま、終戦を迎えるかにみえたが、8月6日広島に原子爆弾が投下さ れると、3度目の出動が命じられた。
B29の帝都に対する単機侵入を阻止すべく、70口径8インチ連装対空砲を持つ「 伊吹」を東京湾に送り込むことになったのである。
呉軍港のなけなしの重油をすべて積み込み、8日に出発した「伊吹」は途中潜水艦に 襲われながらも何とか、11日朝に東京湾にたどりついた。
そして、13日午後2時10000メートル上空から単機侵入してきたB29を見事 撃墜したのである。
終戦後、「伊吹」は米軍の調査をうけた後解体された。
架空戦記では、「大和」級や、重雷装型「大井」級と同じくらい活躍しているらしい。(笑)