
![]() 緒元(C6M1)
解説 三菱が昭和十六年八月の試作要求に基づいて作った艦上偵察機。発動機には大馬力・大直径の「火星」を採用、プロペラは直径 3.2m の VDM 電動三翅。動力系の設計には同じ「火星」を積んだ局戦「雷電」の経験が応用されたが、雷電で懲りた延長軸+強制空冷ファンは装備しなかった。 本機の特徴は乗員席を後退させ、胴体内に大容積(800リッター)の燃料タンク(防漏ゴム被服および自動消火装置つき)を設置したことである。翼内機銃にはあえてベルト給弾ではなくドラム給弾の九九式一号三型機銃を搭載し、空いたスペースを翼内燃料タンク(各200リッター)とした。機内燃料容積は合計1,200リッターに及び、これにより増槽なしで2,300Kmの航続距離を実現していた。しかし太く長い機首のため前方視界が悪く、離着艦は非常に難しかった。視界改善のため試作一号機は風防内に引き込み式の展望鏡を装備していたが、「視野が狭いうえ震動がひどくて使い物にならない」と評価され二号機以降からは取り外されたた。 後席は主翼と水平尾翼の中間に位置しており、側方視界は悪くなかったがやたらと狭く、所狭しと積まれた写真機・無線機・酸素ボンベ・旋回機銃の狭間で観測・撮影・通信・航法・射撃までこなさねばならない偵察員は大変だった。また、後部旋回機銃の射界は垂直安定板に遮られて非常に狭かった。 胴体下と両翼には合計三個所の懸架装置が備えられ、偵察装備の時は 800リッターおよび 500 リッターの増槽を装備して最大 4,320Km の航続距離を実現していた。攻撃装備の時は500Kg 爆弾×1または 250Kg 爆弾×2が装備可能で、搭載燃料を減らせば 800Kg 爆弾の装備も可能であった。 採用されたとして後の経緯 C6M の原形機が初飛行したのは昭和十八年六月である。最高速度は要求値に及ばず、離着陸時の前方視界の悪さ・後方旋回機銃射界の狭さなど問題点も多かったものの、強行偵察機としての撃たれ強さを買われて十九年四月に「早雲」一一型艦上偵察機(C6M1)として採用された。しかし時既に遅く本機を運用すべき母艦はなく、主に陸上基地において使用された。一一型はわずか13機で生産が打ち切られ、発動機を「火星」21型に換装した一二型(C6M2)、続いて翼折り畳み機構を省略し翼内機銃を九九式二号銃に換装した二二型(C6M3)に切り替えられた。この二二型が「早雲」の主力生産型である。 約一年後に登場した後継機の中島「彩雲」が抜群の高性能を示したため、「早雲」は本来の用途である偵察機としてはほとんど使われず、主に爆撃・哨戒任務に従事した。対潜哨戒飛行で多くの輸送船を救う一方、とかく故障の多い「彗星」「流星」艦爆の補充として機動部隊攻撃や沖縄夜襲にも出撃し、地味ながら重要な活躍で大戦末期を戦い抜いた。なお、二二型の後席を取り払って五式 30mm 斜銃一門を装備した夜間戦闘機型(C6M3-J)が十数機生産され B-29 迎撃に配備されたが、戦果を挙げたという記録はない。 作者からのコメント 「早雲」という名前の割にはちっとも速くない飛行機です(笑)。短胴でテイルヘビーぎみなので運動性・安定性はあまり良くないと思いますが、ライバル?のカーチスSB2Cヘルダイバーよりはマシでしょう。艦爆とも艦偵ともつかない中途半端な機体ですが、そもそも偵察機に艦爆なみの機動性や武装を要求すること自体が間違いだと思います。陸軍にも百式司偵の後継機立川キ70に武装や爆撃装備を要求して失敗した経緯がありますしね。 大直径で燃料喰らいの「火星」を装備して速度と航続距離を稼ぐために、乗員の居住性や前方視界を犠牲とした飛行機になりました。機首燃料タンクの800リッターは大袈裟に聞こえますが、P-47が932リッターの耐弾タンクを積んでいたのだからあながち無理ではないでしょう。しかし操縦席は主翼後縁よりも後方に下がってしまいました。この位置は前方視界が悪いと悪評の「雷電」や「剣」よりも更に後ろであり、ドボアチーヌD520やボートF4Uあたりと張り合います。視界にうるさい日本海軍のこと、これが本当に存在したらモックアップの段階で不採用の烙印を押されること間違いなしですね(苦笑)。そもそも、三菱の艦載機設計者なら絶対こんな位置に操縦席を置かないでしょう。 文・画とも Copyright by Y.Sasaki 1999 4/26 |