
基準排水量 17,000t 満載排水量 20,500t 全長 203.5m 全幅 25.5m 機関 艦本式蒸気タービン4軸 100,000馬力 速力 30.5kt(公試30.82kt) 航続距離 16kt 12,000海浬 武装 65口径10cm連装高角砲3基6門 96式25mm三連装機銃14基42門 搭載機 水上機16機 二式水戦・強風・三座零式水上偵察機・零式水上観測機 大型カタパルト 前部後部各1基計2基 同型艦 「松島」「厳島」「敷島」「八島」「秋津洲」 空母の艦隊運用法が確立されつつある中、時期の浅い水上機母艦は未だにその 任務と位置付けというものが曖昧であった。 そこで昭和13年9月に発令された新型水上機母艦の計画案は、海軍の南方方面 での移動基地としての機能、艦隊偵察任務を前提にするという、具体的な運用方 法の基に立案されたものである。 長い飛行甲板を必用とする空母に比べ、水上機母艦はカタパルトがあれば事は 足り、空母より時間も費用もかからなかった。 そして幸いなことに、日本は水上機の技術では一歩先を行く国であったことが、 本計画を浮上させた。 これが水上機母艦「橋立」である。 新造水上機母艦は、前作である「日進」「瑞穂」を上回る性能を求められたの は当然のことだが、その上船体を極力簡易化すると明言されていた。 これは同時期、極秘裏に建造されていた大和級戦艦や、新鋭空母など主力艦に 影響を与えないようにと配慮されたからである。補助戦力は極力切りつめるとい う海軍の方針が見て伺えよう。 一説には、この新造水上機母艦の計画は、「大和」の建造費の隠れ蓑であった とも言われている。仮想敵国であるアメリカなどのスパイから、建造中の戦艦の 規模を隠すために予算を少なく計上し、別に架空の艦艇の建造費用を計上してそ れを大和級に充てていたのである。 実際に、「大和」の建造には陽炎級駆逐艦3隻と2100t型潜水艦1隻の架空予 算が計上されている。この水上機母艦の計画案も「大和」の架空計上に利用され るはずであったが、別途に予算が下りたために建造に至った、という説である。 この説は信憑性に乏しい上、確たる証拠もないため、架空計上ではなかったと いうのが、後の研究家たちの揃った見解である。 新造水上機母艦は昭和12年竣工の最新鋭艦「瑞穂」よりも高性能を要求され、 なおかつ、極力簡易化するという板挟みになりながらも、計画は進められた。 そして一つの試案として、アメリカで採用されているブロック工法を使用する というものがあった。主に民間船舶において実績をあげているこの工法に、造船 技官たちは着目した。短時間、簡易に船体が建造できるという点は非常に魅力的 であり、一番実現可能な技術だろうと判断した。 アメリカとはまだ開戦の緊張もない頃であったため、技術提供を受けるのはさ ほど難しいことではなかった(それでもパテント料として多額の海軍費を食った)。 この工法は後に小型艦艇や護衛空母等にも応用され、量産能力において劣る日 本にとって、これだけでも大きな成果といえた。 次に、司令部としての機能である。南方方面など前線に進出し、水上機基地を 設営する際に本格的施設が完成するまで同地にて司令部代役を務めるというのが 本級の狙いでもある。 本級は司令部施設を従来の艦艇よりも大幅に強化し、通信設備も最新のものを 設置している。大戦中期にはいち早くレーダーを装備し、電子機器においては海 軍の中でも指折りの通信・旗艦設備を備えることとなった。 水上機の設備も大幅に更新されている。潜水戦隊旗艦用に計画されている「大 淀」よりも一回り大きな格納庫を備えている。スコールの多い南方方面において は、機体の整備が最重要課題である。この格納庫ではそんな機体整備はもちろん、 部品さえあれば飛行機を組み立てることも可能であった。格納庫の両舷には物資 搬入用口がついている。場合によっては戦車を含む地上部隊を運ぶことも出来た。 搭載機には三座水偵と零式水上観測機を塔載し、主に偵察と着弾観測を任務と した。大戦中期には、激化する空中戦に対応するため、二式水上戦闘機への機種 転換が行われ、開発中の十五試水上戦闘機も後に塔載している。 期待された特殊水偵「紫雲」を試験を兼ねて塔載したが、試験運転中に事故を 起こすなど、皮肉にも新鋭機の欠陥を露呈する結果になった。 格納庫を船体中心よりやや後方に配置し、艦橋と煙突は右舷側に配置された。 前部左舷側には35mカタパルトを配置し、格納庫から出された搭載機をここか ら射出した。カタパルトは15度〜90度左舷に向け、海上に向かって射出された。 後部甲板にもカタパルトを配置し、迅速な展開を可能とした。後部カタパルトに は常時一機、駐機されている(前部は高角砲の射撃の邪魔になるため不可)。 武装は自衛の最低限の装備として、40口径12.7cm高角砲3基、25mm三連装機銃 6基が計画されたが、後に航空兵力の脅威が増大したため、秋月級に開発された 長砲身65口径10cm高角砲3基に換装され、機銃も14基に増設されている(画は装 備換装後)。 艦隊と随伴できる能力として、30Ktという高速を有したことも特筆する。これ は巡洋艦と同程度の機関を塔載したためである。輸送船と同程度の速度で構わな かったのだが、艦隊と行動を共にするならば、軽快な回避運動も取れなければな らないという声の後押しもあって、強力な機関の塔載にあいなった。 同時に、南方方面での単艦行動も前提にしており、16ktで12,000海里の広大な 航続距離も有している。長期間にわたる作戦を遂行する上で、移住性においても、 従来の軍艦とは比べ物にならないほど改善された。赤道直下での活動のため冷房 設備を充実し、アリューシャン方面に派遣された姉妹艦は暖房設備を強化してい る。これは士気を維持する上でも重要なことであり、戦闘時など精神的にも有利 である。 以上の様に、内外共に従来の水上機母艦のコンセプトを踏襲しつつ、出来うる 限り性能向上させた結果、本級に至った。 計画案がまとまったのは発令より約十ヶ月が経過した14年7月末のことである。 その年の臨時海軍予算で可決され、同年12月に一番艦が横須賀海軍工廠で起工 された。 予定では2隻の建造に止まる筈であったが、「日進」「千代田」「千歳」が特 殊潜航艇母艦に改装されるため、水上機母艦が不足となった。そのため、新たに 4隻が追加発注され、計6隻が建造されることになった。 尚、命名基準が定まっていないため、ネームシップ「橋立」「松島」「厳島」 は、日清戦争で活躍した海防艦から襲名し、後者の「敷島」「八島」「秋津洲」 は「瑞穂」にならい日本の別称とした。「橋立」「松島」「厳島」は初代と同様 に、「三景艦」と呼ばれた。 水上機母艦「橋立」の戦歴 「橋立」は昭和14年12月に起工され、八ヶ月後の昭和15年8月に進水している。 ブロック工法によるところが大きいにしろ、驚異的な早さでの進水である。こ の後、さらに七ヶ月後の昭和16年3月に竣工した。 この頃、日米開戦が囁かれ始め、「橋立」はすぐにでも実戦に投入できるよう 訓練を重ねていた。そして慣熟訓練も兼ねた南シナ海での三ヶ月の処女航海を終 えて一度柱島に戻り、再び南シナ海へと向け碇を揚げた。 12月8日の運命の日は香港沖で迎えている。 ペンキの匂いも馴染まぬうちに戦争へと駆り出された「橋立」の初陣は、シン ガポール攻略作戦の偵察・着弾観測の支援任務であった。 陸軍の山下泰文中将の活躍により、シンガポールは無血開城に終わり、そのま まジャワ島上陸作戦に参加している。 この作戦で上陸支援中の偵察機が連合国軍の艦隊を発見している。米海軍重巡 洋艦「ヒューストン」を始めとする四カ国艦隊は、輸送船団の上陸を阻止せんと するもので、迎撃の「那智」「羽黒」を中心とする日本艦隊は太平洋戦争におけ る最初の本格的な艦隊戦行い、巡洋艦二隻撃沈を含む日本側の勝利に終わった。 スラバヤ沖海戦は昼夜の二海戦に分けられ、「橋立」の搭載機は昼間戦で着弾 観測行い、夜間戦では照明弾を投下して味方艦隊を支援した。 この後、陸軍はマレー半島、ジャワ島など南方の主要地帯を占領下に治めた。 シンガポール占領後、山下中将は「橋立」の支援により陸軍が有利に作戦を進 めることができたことに敬意を表して、「橋立」乗組員と塔載機のパイロットに 感状を送っている。 束の間を休息を終え、姉妹艦「松島」と合流し次なる作戦地、ニューギニア方 面へと進出した(「厳島」がアリューシャン方面に進出)。 ニューギニア方面ではソロン、ラバウルに停泊した後、ガダルカナル方面まで 進出している。 多数の小島が点在するガタルカナルでは、入り江に停泊し臨時水上機基地とし ての機能をいかんなく発揮した。 しかし、有利に戦況を進めていた陸軍が、ガタルカナル方面からの撤退を決定 すると、「橋立」と「松島」も陸からの支援なしでは戦えず、トラックまで転進 することになった。昭和17年10月のことである。 その途中、帰路の途中で待ち伏せていた潜水艦の雷撃により、「橋立」の後部 に1本命中した。どうにか沈没は免れたものの、浸水が酷く、一時5ktまで速度 を落とした。「橋立」は修理のため、護衛に駆逐艦をつけて本土に帰還をせざる をえなかった。 本土に戻った「橋立」は大幅に改装を加えられることになった。 40口径12.7cm高角砲を65口径10cm砲に換装し、新たに開発された対空レーダー を装備している。搭載機も従来の機体を減らし、「強風」を塔載している。 同時に、司令部設備を水上機基地仕様から艦隊仕様にまで大幅に更新した。 太平洋戦争中期の戦況はやや、米軍が押していた。反撃を開始してきたアメリ カ軍はサイパン島に強襲上陸し、グアム沖では最大規模の機動部隊同士の決戦で あるマリアナ沖海戦を繰り広げていた。 そしてマリアナ沖海戦でかろうじて勝利した日本軍は、孤立したサイパン島の 米陸軍・海兵隊5個師団に対して逆上陸作戦を敢行した。 この時、「橋立」には上陸作戦の司令官・志摩清英中将が乗艦し、逆上陸する 海軍部隊・輸送船団の全ての指揮を取っている。 司令部設備を一新した「橋立」は、水上機母艦から上陸支援母艦と改称され、 その指揮通信設備は連合艦隊旗艦である「大和」に優るとも劣らないの能力を備 え持っていた。 この後、第二次ウェーキ攻略作戦、マーシャル諸島作戦で上陸部隊の中心とし て活躍した後、ハワイでの講和条約締結にも姿を現した。 姉妹艦のうち「松島」がマーカス島沖で、米潜の雷撃を受けて沈没した他、 「八島」は艦隊偵察任務中、航空攻撃により沈没、「秋津洲」はトラック島空襲 により大破着底、後に引き揚げられて本土に回航され、上陸支援母艦の改装を受 けている。 「橋立」は戦後、朝鮮戦争において国連軍上陸艦隊として従軍している。 海軍の直轄艦として10年間の就役した後、昭和32年に海軍戦術研究所へと配置 替えとなり、同時に実験艦へと転籍している。 そして近代化改装などを受け老骨に鞭を打ち、昭和40年まで現役に有り続けた。 「水上機母艦」という艦種は、航空機のジェット化が進んだ現代ではもはや時 代遅れの存在となってしまった。しかし、「橋立」で培った「上陸支援母艦」と いう艦種は、日本海軍に吹き込まれた新たなコンセプトとして、昭和45年竣工の 揚陸支援母艦「剣崎」や平成3年竣工の強襲揚陸艦「大隅」に脈々と受け継がれ ている。 しょうもない後書 どうも幸祐輔こと服部祐輔です。 前回は皆様のおかげで、「空知」が栄誉を得ることができました(多謝)。 今回も作品を出品させていただきました(調子づいてる!?)。 また暴走しています。最後の方はもう水上機母艦じゃないです(アイデア違う じゃん)。 極力簡易化するっていっても、実際は複雑になってるようにも見えますし(‥ ‥‥)。 最初は練習巡洋艦「香取」から改装しようかとも思ったんです(弱そう)。 それなら安上がりだし、新造しても時間も費用もかからない(客船に近いし)。 アイデア的にも簡単だし(そっちの方が良かったかも‥‥‥)。 結局のところ、最後に「大隅」を出したかったのかも(強襲揚陸艦って好き)。 今回の「橋立」という命名に際し、掲示板において命名基準をご教授 いただきました。教授してくれたすなみさんや関係した方々に心から深く感謝致 します。 命名基準のアドバイスを受け、とりあえず日清戦争で活躍した艦船から 取りました。アドバイスにあった日本の美称から三つ取り、趣味で『三景艦』の 三隻から取りました。 ひょっとしたら「橋立」じゃなくて「西京丸」とついていたかもしれません (笑)。 まあ、とりあえず、こんな風になりもうした。 あとは煮るなり焼くなり好きにしてくれい。 金月真美「勝手にKISS」を聴きつつ 七月某日 今回も文章で逃げた 服部祐輔 |