軍 艦 八 洲(やしま)


昭和17年秋、R方面航空部隊所属時の八洲:作画 天城氏



八 洲 の 要 目(竣 工 時)

公式類別 :水上機母艦
基準排水量:11,317t
公試排水量:12,500t
全 長 :192.5m
水線長 :183.9m
垂間長 :174.0m
最大幅 :19.7m
最大速力 :28.0ノット
航続距離 :16ノット−8000海里
兵 装 :12.7cm連装高角砲×4基(計8門)
25mm三連装×6基、連装×1基(計20門)
搭載機 :常用 二座水偵21機+3座水偵4機/補用5機
射出機 :呉式二号五型×4
主 機 :13号10型内火機械(ディーゼル)×4
13号 2型内火機械(ディーゼル)×2
軸 数 :2軸
軸馬力 :47,000PS

八 洲 の 建 艦 思 想

 大正3年8月23日、日本海軍は世界最初の水上機母艦である若宮を就役させた。それ以後、能登呂、神威、千歳、千代田、瑞穂と水上機母艦は続々と就役した。そして、昭和13年には、日進が起工され、その勢力は着々と増強されていった。又、昭和12年には、香久丸、衣笠丸、神川丸が特設水上機母艦に編入され、日本海軍の水上機母艦は、順調にその勢力を伸ばしていったのである。

 しかし、こと艦隊型水上機母艦という観点から見ると、その実状はお寒い限りであった。若宮は昭和6年に除籍されており、能登呂と神威はカタパルトを装備されていなかった。更に両艦共、運送艦を改造した水母の為、最大速力はそれぞれ12ノット、15ノットしか出せず、戦闘部隊と行動を共にする事が出来なかった。
 また、特設水母は、高速貨物船を改造した水母の為、その最高速度は19ノットであり、これも戦闘部隊と行動を共にする事は出来なかった。
 一方、艦隊型新鋭水母の4隻、つまり千歳、千代田、瑞穂、日進は、対米有事には特殊潜航艇母艦として決戦水域に投入されるべき艦であり、水上機母艦としての姿は、あくまで諸外国を欺く為のものであった。
 事実、日進は、当初高速敷設艦として計画された艦であったが、進水1ヶ月前には水上機母艦へ艦種変更がなされ、昭和17年に特殊潜航艇母艦(但し公式類別は水上機母艦)として竣工した。また、千代田は、特殊潜航艇母艦への改装工事に入る為、昭和15年にその艦載機を降ろした。つまり、日本海軍の水母の中で、日米開戦が勃発した際に、戦闘部隊と行動を共に出来る水上機母艦は、0隻となる可能性が高かった。

 昭和13年9月に要求が発令された水上機母艦は、このような状況のもとで設計が開始された。この艦の目的は、対米戦が開始された時に想定しうる南西太平洋の島嶼戦において、基地航空隊が展開するまでの間、水上機基地として使用する事と、空母や基地航空隊の支援が期待出来ない艦隊への、偵察を主とした航空支援であった。
 移動水上機基地として使用する水母は本来特設水母の任務である。しかし、元々が貨物船である特設水母は、当然の事だが、敵の攻撃に対する抗堪性が低く、喪失の危険性が高い。島嶼占領初期の航空基地は水上機母艦に頼らざるを得ないという事を考えると、敵の攻撃によって派遣した特設水母を失う事は、水上機基地の喪失、ひいては制空権の喪失を意味した。
 そこで、敵の攻撃に対し有効な火力と抗堪力を持つ正規水母を、島嶼侵攻戦の最前線に配置する事で、占領地域の制空権を守り、それに続いて特設水母、あるいは基地航空隊が進出する事により制空権を確固たるものにする、という使用法が考えられていた。

 昭和14年の第四次補充計画で建造された水上機母艦は、このように主力艦隊の一員として使用する艦では無いという建艦思想の下、他の計画艦の建造に支障が生じないような配慮がなされたのである。つまり船体の基本設計を日進より流用する事で設計陣の負担を減らし、また、複雑な工作を必要とする特殊潜航艇の運用施設、つまり発進設備や、積込用エレベータ、積込専用デリック等を撤去した形で設計された為、建造面における負担も軽減されたのである。また、上構部分については、基本的に日進の設計が流用されたが、砲煩兵装については、瑞穂の兵装を基に再設計がなされた。

 しかし、この新型水上機母艦は単なる日進の焼き直しでは無かった。この艦に盛り込まれた新しい試みとして、飛行機作業甲板とカタパルト甲板とを同一平面とした事が挙げられる。多数の水上機を運用するこの当時の日本軍艦として、水上機母艦の他には重巡利根級が挙げられるが、いずれの艦もカタパルト甲板が、飛行機作業甲板より一段上に位置していた。その為、飛行機作業甲板上にある搭載機を発進させる時には、飛行機作業甲板とカタパルト甲板をつなぐスリップウェイを介して、ウインチを使って、カタパルト甲板へ引き上げるという作業が必要であった。それに対して本艦は、全機カタパルト甲板と同一レベルで駐機出来る為、連続射出がスムーズに行なわれた。
 また、この事により、他の水上機母艦や利根級では、スリップウェイとなっている箇所にも駐機することが可能となった為に、常用全機を飛行機作業甲板上に駐機出来た。これにより、千歳級では、かなわなかった30分以内に常用全機を射出する事が、可能となったのである。
 また砲煩兵装は、その任務の関係から敵制空圏下での行動が想定される為、水上機母艦として最も強力な対空兵装が与えられた。当時の標準的な日本戦艦の対空兵装は、12.7mm連装高角砲×4基、8門25mm連装機銃×10基、20門である。つまり、高角砲、機銃共に戦艦と同じ対空火力を持つ事となったのである。

 余談であるが、八洲の機銃の中で、艦橋直前の機銃のみが連装となっていることの理由については、色々な説が出ている。有力な説の1つとして、本来13mm4連装機銃を配置する予定であったが、威力不足の理由から25mm機銃が搭載された、というものである。しかし、私はこの説を採らない。なぜならば、通常13mm機銃は、戦艦の艦橋上の様に25mm機銃を搭載するスペースが無い箇所に用いられている機材であるが、八洲の連装機銃の搭載箇所には、充分なスペースがある。また、この説では他の機銃と違って、ここの機銃だけが連装である事の理由を説明出来ていないのである。
 これらの事から、もう一つの有力な説、つまり三連装機銃の機材不足の為、連装を一ヶ所だけ搭載した、という説の方が信憑性が有ると考える。理由としては、後述する搭載機の件からも判る通り、この艦は装備の定数を揃える為に、使える機材なら、どんなものでも使った節が有るからである。 また、他艦の建造に影響を与えない様な配慮が為されていた、という事もこの説の裏打ちとなるだろう。

 さて、この艦の主力兵装といえる搭載機について述べよう。この当時、最大の搭載機数を誇った航空母艦は、赤城と加賀であり、その戦闘隊の定数は21機だった。つまり、この水母が搭載する2座水偵を全て艦隊防空に使用した際には、大型空母の戦闘隊と同じ機数での艦隊上空直衛が可能であった。その上、長距離偵察に適した3座水偵を4機も搭載出来たのである。
 このように充実した兵装は、第二戦線に投入する艦としては、贅沢とも言える内容であり「第2状態への改造を考慮した、決戦海域への投入が可能な艦にするべき」との声も高かったが、それに伴う予備艤装を施す事は、船体工作の複雑化、ひいては、他の第四次補充計画艦の建造に支障をきたす為、純粋な、水上機母艦として建造する事となったのである。

 このような建艦背景のもと、昭和15年10月17日呉工廠で、この新鋭水母は起工された。この艦にとって幸いした事は、先に高速敷設艦として起工された日進が、進水前の昭和14年10月31日付けで水上機母艦に艦種変更されたことであった。
 日進の建造を参考に出来た事により、新水母の建造は順調に進んだ。昭和16年9月10日新水母は進水、「八洲」と命名された。日露戦争で沈んだ戦艦八島がその艦名の基となっている事は、明らかである。しかし、触雷により沈没した艦名を踏襲する事に、抵抗があった為、島の字を洲と置き換えたという。こうして、昭和17年6月23日、八洲は、日本海軍5隻目の艦隊型水上機母艦として竣工したのである。ちなみに、本艦より2年も前に起工された日進は、建造中の設計変更が重なった為、その竣工は、八洲の竣工のわずか4ヶ月前であった。

 八洲が竣工する、およそ2ヶ月前の5月2日には、彼女の砲煩兵装設計の基となった瑞穂が沈没していた。第二次世界大戦において初めての、日本軍艦の喪失だった。瑞穂は、ディーゼル主機の不調で苦しんだ艦だったが、その経験は、無駄にはならなかった。日進と八洲に搭載された13号ディーゼルは、所期の性能を発揮したのである。

 八洲の竣工時の搭載機は、三座水偵が九四式二号水偵と零式一号水偵を各2機、二座水偵は九五式二号水偵が15機、零式一号観測機が6機であった。水上機の機材及び搭乗員の不足に悩まされた当時の海軍にとって、旧式機との混成とはいえ定数機を確保した事は、その期待の大きさの表われといえるだろう。

 八 洲 の 戦 歴

 竣工後、第11航空戦隊に編入された八洲は、訓練を終えた昭和17年8月7日、最初の航海の為、柱島を出港した。目的地はトラック。そして同じ日、ガダルカナルへ米海兵隊が上陸したのである。米軍の反撃が始まったのだ。トラックに到着した八洲は、8月21日、ショートランドに進出、同地に水上機基地を開設した。その後、特設水母山陽丸、水母千歳、特設水母讃岐丸と戦力は増強されてゆき、8月29日これらの艦でR方面航空部隊が編成された。
 R方面航空部隊の水母の内一隻はショートランドに常駐し、基地支援と補給を行う事になっていたが、ショートランドは敵の空襲圏内であった為、部隊の中で最も優れた対空兵装を持つ八洲がその任に当たる事が多かった。
 R方面航空隊の活躍は、輸送艦船への上空警戒をはじめとして防空、哨戒、そしてガダルカナル島への爆撃等、その活躍を、語られる機会は数限りないが、それも連日の敵襲の中、航空隊の支援を行った、八洲をはじめとする、水母の支援があればこそだった。

 このように、R部隊の後方支援として活躍した八洲であったが、同じ水上機母艦の千歳や日進がガダルカナル島への高速輸送艦として活躍したのに対して、八洲は輸送艦として使用された事は一度も無かった。前述の通り、強力な水母をショートランドに配置する必要があったことも、その原因の一つではあるが、最大の原因は、甲標的積込用エレベータや、艦尾の甲標的発進口が無い為、短時間での物資揚陸作業が必要な、この任務に不向きと判断された為だった。

 ガダルカナル島攻防戦における、日本のラバウル航空隊とアメリカのヘンダーソン基地航空隊との戦いは、有名な話である。しかし、それは水上機の時代の終焉を意味する戦いでもあった。R方面航空隊は奮闘した。しかし、敵の戦闘機はグラマンF4F。この頃、零戦と互角に戦えるまでに成長していた機である。水上機では、かなうべくも無い敵であった。R方面航空隊の水母達が内地より運んだ水上機も、時が経つにしたがって、戦果よりも損害の方が大きくなっていった。

 このような状況の中、昭和17年11月3日、水母千歳はショートランドを出港した。目的地は佐世保工廠。その目的は、航空母艦への改造であった。そして、翌日、水母千代田が横須賀へ向けて、ショートランドを出港した。千歳と同じ目的の為に。
 そして同じ頃、八洲にも新たな任務が与えられた。それは、第五艦隊への編入だった。水上機が航空戦力の主役でいられた最後の戦場であるキスカへと、八洲は出撃していった。

 北東方面を担任する第五艦隊には、当時、特設水母君川丸が配備されていた。しかし、米軍がアムチトカ島に飛行場を完成した後は空襲が激しくなり、君川丸の能力では、水上機基地としての任務に支障をきたしがちとなっていた。
 そこで、ショートランドでの実績を買われて、八洲に白羽の矢が立ったのである。その期待に答えて、水上機基地に、飛行機輸送に、そして防空砲台にと八洲は活躍した。
 しかし、この地の真の敵は米軍ではなかった。米軍より恐ろしい敵、それは、極寒の大自然であった。ひとたび暴雪風が吹けば、八洲がこの地まで輸送し、そして整備した機は、無残な骸となったのである。4月29日、アッツ島の守備隊が玉砕、米艦隊がキスカ周辺に出没するにいたり、キスカへの航海もままならなくなっていった。

 その頃、水上機母艦はもはや戦力になりえない事から、日進、八洲両艦を航空母艦へ改造する事が検討されていた。しかし、空母改造の予備艤装が施されていない艦の改装は、完成迄にかなりの時間がかかる事が見込まれる為に、断念されたのである。

 7月22日、八洲は幌延を出港した。久しぶりのキスカへ向けての航海だった。5日前にキスカ撤収作戦を果たせずに帰還した木村艦隊が再出撃するにあたり、キスカ周辺海域に到達する迄の間、前路哨戒支援を行う事で、キスカ撤収作戦の成功に万全を期す為であった。前回、キスカへの突入を見送った事に対して、轟々たる批判を受けていた第五艦隊は、背水の陣で任務に挑んだのである。
 そして同じ日、八洲の準姉妹艦である水母日進は、米軍機に対して最後の戦いを挑んでいた。7月29日キスカ撤収作戦は無事に成功した。

 その後、八洲は戦闘艦艇としての適当な運用法が見つからないまま、東南アジア各所への輸送任務に就いていた。日本にとって必要だったのは、水上機母艦よりも輸送艦だったのである。事実、昭和18年10月1日には、特設水上機母艦の君川丸、聖川丸、国川丸、山陽丸、の4隻が特設運送艦へ艦種変更がなされ、日本海軍から特設水上機母艦は姿を消したのである。こうして、日本海軍が保有する水上機母艦は、飛行艇母艦の神威と秋津州、水上機を降ろして実質的には輸送艦となっていた能登呂、そして、艦隊型水上機母艦として生まれたものの、適当な使用法が無く輸送艦として行動していた八洲の4隻だけとなっていた。水上機母艦の時代は、終わったのである。

 このころ、八洲を有力な戦力とする為のアイデアが出された。それは結果的に、八洲の運命を狂わせる事となったアイデアだった。それは、艦上爆撃機「彗星」の搭載である。当時、改装を終えていた、伊勢級航空戦艦と同様に、カタパルト射出が可能な彗星を搭載して、機動部隊の一員として使用するというものであった。そして、航空戦力を一隻でも増やしたい海軍は、早速この案を採用した。

 昭和19年3月17日、カタパルト射出が可能な、彗星21型が正式採用された。そして4月7日、八洲は彗星を運用する為の改装を行うべく呉工廠へ入渠した。その内容は、彗星の昇降が出来る大きさにエレベータを拡張する事と、カタパルトを一式二号11型へ換装する事であった。
5月19日に工事が完成し出渠した八洲は、同日、第四航空戦隊に編入された。僚艦は同じく彗星21型を搭載する伊勢と日向だった。そして、これらの艦が搭載する飛行隊として第634航空隊が編成されていた。
 しかし、彗星21型の量産は遅々として進まず、また、航空戦艦に搭載予定の瑞雲は2度も空中分解事故を起こすなど、この部隊の実戦化へ向けての問題は山積みであった。
 その後、第634航空隊は戦闘隊を持たない為、戦術単位として不十分である事から、八洲搭載機の半数を戦闘機とする案が出された。つまり、カタパルト射出が可能な様に、各部を補強した水上戦闘機「強風」を搭載するという案であった。この案は採用となり、カタパルト射出が可能な強風が、昭和19年8月10日に、強風21型として制式採用されたのである。

 こうして、八洲は再び水上機を搭載する事となった。しかし、飛行機の量産が叫ばれる中、カスタムメイドともいえる強風21型の生産は、一向に進まなかった。しかし、そのような状況の中、八洲は、射出訓練に、また時には標的艦として、搭載機の練成の為の任務をこなしつつ、634空の戦力化を待ったのである。
 そのかいもあって、10月1日、634空は定数機を確保した。すなわち、彗星36機、瑞雲24機、強風12機、計72機の戦力を保有する航空隊に成長したのである。しかし、それもつかの間の事であった。10月12日に米機動部隊が台湾へ来襲した事により、634空の彗星隊は基地航空隊として戦闘に参加、また、強風隊と瑞雲隊は、第6基地航空隊に編入され、比島決戦に備えて九州へと移動していった。

 昭和19年10月20日、八洲は機動部隊の一員として呉を出港した。R部隊での後方支援、北の海での過酷な自然との戦い、そして輸送任務と華やかさとは無縁だった生涯の中で、初めて立つ晴舞台だった。
 僚艦には、R部隊で共に戦った千歳と、その姉妹艦の千代田、開戦以来の歴戦艦の瑞鳳といった面々がいた。
 また、八洲の所属する第四航空戦隊は、キスカで共に戦った多摩、防空巡洋艦に改造されていた五十鈴、そして八洲と共に、634空を搭載するはずだった超弩級戦艦伊勢、日向で編成されていた。
 そして、この部隊の直衛に就く、第31戦隊の旗艦は、長10cm高角砲を搭載する大淀が配置されていた。その配下の駆逐隊は、12.7cm高角砲を主砲に持つ松級駆逐艦で構成された第43駆逐隊と、長10cm高角砲を主砲とした秋月級で構成された、第61駆逐隊と第41駆逐隊があてられていた。また、この直衛戦隊が装備する高角砲は、実に52門に及び、これだけの高角砲を揃えた直衛戦隊は、日本海軍には他に例が無かった。
 さらに、この艦隊の旗艦には、真珠湾以来の武勲艦、正規空母「瑞鶴」が就いたのである。この機動部隊に、与えられた任務は、囮だった。

 小沢治三郎中将率いるこの機動部隊は、比島へ向けて進撃した。戦艦を主力とする第一遊撃部隊が、米機動部隊の攻撃を受ける事無くレイテ湾に突入し、上陸中の米軍を砲撃出来る様にする事が、その任務である。つまり、米機動部隊の目を自らに向けさせる為の艦隊だった。そして、この艦隊は、その任務を果たした。すなわち、10月25日8時15分、米空母からの空襲を受けたのである。

 航空機を持たない第四航空戦隊の各艦は輪陣形の外周に位置し、空母を守るべく敵機と戦った。八洲も、自慢の対空兵装に加えて、飛行機を積む事が無くなった飛行甲板に、無数の単装機銃を配置し米軍機の空襲を迎え撃った。 しかし、この空襲で、千歳、秋月が沈没、多摩が大破した。

10時00分には再び、米機動部隊からの空襲が始まった。この攻撃で、千代田が航行不能に陥った。

13時05分に米第三次攻撃隊が来襲、瑞鶴、瑞鳳が沈没した。

16時47分、前進してきた米巡洋艦部隊の砲撃で千代田沈没。こうして、出撃した日本空母は全て波間に飲まれていったのである。

 「Hey! Get the miserrable Jap! Go on a spree!」
17時10分アメリカの第4次攻撃隊長機から無線が発信された。この攻撃でのアメリカ機の目標は、伊勢、日向、そして八洲だった。
 しかし、八洲の対空火器は、三度の空襲にも関わらず、全て健在であった。建造当初、戦艦並みを誇った8門の高角砲は、艦正面方向から近づいた急降下爆撃機に対して抜群の威力を誇った。加えて、飛行甲板に配置された単装機銃群は、その射界の広さから敵機を寄せ付けなかった。その上、第四航空艦隊各艦の回避機動は絶妙だった。634空への標的任務が、回避機動に磨きをかけていたのである。八洲も数発の至近弾こそ受けたものの、敵の攻撃をかわし続けた。一発の爆弾も一本の魚雷も命中出来ないでいる米攻撃隊に焦りの色が見え始めた。日没の時間を考えると、この攻撃が米軍にとって最後の空襲である。そして、この祭りで本当に可哀相なのは、戦果を得られずに帰投し、ハルゼーに怒鳴り散らされる米攻撃隊だった。しかし、米攻撃隊も、決死の攻撃を敢行していた。そして、一機のSB2Uが、見事八洲の後甲板に肉薄した。
だが、そこは、ハリネズミの様に対空機銃が配置されている、米軍機の死地である。瞬く間に、この機は、比島の空に散った。しかし、その数秒前、この機のパイロットは、爆弾投下装置を作動させていた。
 エレベータに命中した爆弾は、八島の速力を見る見る間に落としていった。だが、米軍機もすでに全ての雷爆撃機の攻撃を終えていた。八洲に更なるダメージを与える術を失っていた米攻撃隊は、帰路に着いたのである。

 本隊と分かれた八洲は、応急処置を行いつつ、微速ではあったが日本へ向けて進んでいた。傍らには、護衛についた、初月がいた。
 八洲の艦内では、懸命に修理が行なわれていた。夜の間になんとか速力を上げ、日の出前に日本制空権に逃げ込む。これが、生き残る為の術であった。だが、暗闇の中から魔の手は伸びてきた。千代田を沈めた米巡洋艦部隊は、そぐそばまで迫っていた。闇の中から砲撃を開始した、重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦9隻からなる米艦隊に対して、八洲を守るべく、初月は戦いを挑んだ。初月は単艦よく戦った。その死闘は、実に1時間半にもおよび、後に米軍が賞賛の声を惜しまなかったという、見事なものだった。しかし、多勢に無勢、22時45分、初月の艦影は、海面下へと消えていった。
 しかし、初月の犠牲は無駄にはならなかった。彼女が米艦を引き付けている間に、20ノットにまで速力が回復した八洲は、米艦隊から逃げ切る事が出来たのだ。日本制空地域は、もう目の前だった。しかし、そこには、6時間前に、多摩を屠った米潜水艦ジャラオが待ち受けていた。

 「Torpedoes Loss」ジャラオの艦長が命じると共に、3本の青白い航跡が八洲の方へと進んでいった。懸命の回避機動も及ばず右舷後方に一発の魚雷が命中した。応急処置を終えたばかりの艦尾部に被弾した事は致命的だった。昭和19年10月26日2時16分、八洲はその生涯を終えたのである。

 八 洲 の 考 察

 八洲について語られる話題としては、一万t級の水上機母艦を建造する事が果たして妥当だったのかという事と、彗星を搭載せずに、水上機母艦のまま護衛任務に就けた方が、有効に使えたのではないのか、という二点であろう。

 水上機母艦を建造する事の是非について、筆者は、この時期に建造する艦であれば航空母艦として建造し、一刻でも早い就役を目指すべきだった、と考える。
 八洲が水上機母艦として行動できたのは、実質的には、就役後わずか一年間だけである。これは、あまりにも非経済的な艦といえるだろう。
 また、建造時に出された意見の様に、空母や甲標的母艦を第二状態とする形で建造すれば良かったのではないか、という意見も聞かれるが、これについても、筆者は否定する。この意見の思想で建造された千歳級が、甲標的母艦や空母としては、何ら戦局に寄与することなく沈んでいった事と、空母予備艦として起工されながら、開戦当初より、航空母艦として就役し、主要な海戦に参加した祥鳳級の戦歴を比較すれば、この事は明白である。
 さらに、予備艤装に伴う工作の複雑化により、就役時期が実艦より相当遅れた事は、容易に想像できる。そうなれば、八洲がR部隊として活躍した時期に、就役出来なかったという事となり、この艦が水母として建造された意味が全く失われてしまう。

 だが、筆者は艦隊型水上機母艦という艦種を否定するものではない。艦隊の目や上空直援といった空母の持つ役割と、移動水上機基地という本来の水上機母艦がもつ任務を併せ持ったこの艦種は、日本海軍にとっては、有効な艦種と考える。空母はあくまで洋上でしか飛行機の運用能力がないことから、この艦の当初の目的であった島嶼侵攻戦においては、空母よりも有効な艦種であったといえる。

 但し、この艦種は開戦時に就役出来ていなければならない艦種であった。もし、八洲が開戦時に就役できていれば、緒戦の島嶼攻略戦において、攻略部隊の航空支援と、移動水上機基地としての機能という、この艦本来の持ち味を、100%生かせた筈である。また、仮に開戦時に就役出来ていたなら、ウェーキー作戦に投入出来る水母(又は空母)を、捻出できたと思われる。そうすれば、この作戦は、第一次攻略戦で目的を達成出来たはずである。

 それでは、この艦を開戦時に就役させる為には、いつ起工すれば、良かったのだろうか。
 まず、第二次補充計画での建造されてたならという仮定は、この計画において三隻の水母が建造された事から、相当、無理な仮定といえるだろう。
 ならば、第三次補充計画で建艦されたならどうだろうか。当初から水上機母艦として設計し、昭和13年に起工していれば、開戦に間に合ったであろう。つまり、八洲は、第三次補充計画で建造されるべき艦だったといえるだろう。

 一方、護衛水母としての使用については、否定的な見解を下さざるを得ない。確かに磁探搭載の零式水偵を搭載して、対潜哨戒に当たらせる事は有効な活用手段に思えるかもしれない。しかし、同様の使われ方をした大鷹級空母の運用実績を見る限り、その効果については疑問を感じるのである。結局制圧すべき潜水艦から、返り討ちにあったであろう事が、容易に想像出来る。それでは、この艦の有効的な運用法としては、どのようなものが、考えられるのだろうか。

 実艦の通り彗星を搭載する事も一つの手段であろう。しかし、彗星を搭載して作戦行動を行った実績が無い事。また、彗星を搭載した事が四航戦編入の原因であり、四航戦に所属したことが、囮としての出撃、ひいては、喪失の原因となった事から、筆者としては、なにかしらの引っ掛かりを感じる。
 それでは、どんな運用をする事が有効だったのだろうか。極めて、ありきたりな意見では有るが、高速輸送艦としての運用が最も有効な運用法と思われる。水上機の搭載数を最小限にとどめて、物資を積めば、相当な量の物資を一回の航海で輸送できる。当時の日本にとって一番必要な艦が、この様な高速輸送艦であった。しかし、高価な輸送艦という見方も出来るだろう。

作 者 の コ メ ン ト

 架空機の館にお越しの皆さん、はじめまして、ZEROと申します。
 第3回競作の頃から、参加したいなと思いながら、うまく構想をまとめる事が出来ず、投稿するに至らなかったのですが、今回、ようやく形にする事が出来ました。
 さて、今回の競作艦を製作するに当たってのコンセプトは、日本海軍が、純粋な艦隊型水上機母艦を作ったら、どのような艦になっていたのだろうか?という事と、その様な艦を作ったなら、どんな運命をたどるのだろうか?という、2点でした。

 当初は、実在の日本艦隊型水母が、全て甲標的母艦への改造を前提とした艦である為、それに伴う無駄や欠点を洗い直せば、理想的な艦隊型水母が出来るだろうと、考えていたのですが・・・
調べていくと、この甲標的母艦の予備艦達は艦隊型水母としても完成度が高く、手を入れる事が出来る箇所が少なかった為、結局、日進の準同型艦になってしまいました。

 あと、戦歴については、この艦が、どのような運命をたどるのか?という事の検証の為に書いてみました。 (エンガノ岬沖海戦の項では、無理矢理、この海戦での全戦没艦の艦名を入れてみました。囮の役割を果たして散っていった日本最後の機動部隊への、私なりの鎮魂歌です。しかし、今回戦記を書く為に艦隊編成を調べて、初めて、直衛の31戦隊の対空能力が、非常に高い事に気がつきました。)
 私の考えでは、八洲は不幸な最後をとげる事になってしまったのですが、「こんな、使い方もあったのでは?」という御意見があれば、教えて戴けると嬉しいです。

 ところで、画像をR部隊参加時としたのは、丁度、日本海軍機の塗装が変更になった時期なので、色々な塗装の機体を載せて楽しめる為なのです。

 また、艦名に付いては、最後の最後まで頭を痛めました。今回、投稿される皆様が、どのような艦名を付けられているのか、ある意味、今回の競作での最も楽しみな点です。

 最後に私のわがまま放題の要求を、快く画像化して戴きました天城氏に、心から御礼を申し上げます。雲形迷彩の94&95水偵は、それらしい感じが良く出ていて、私のお気に入りなのです。