<アメリカ陸軍航空隊試作迎撃機 ゼネラル・エレクトリックXP-59 「エアラクラックス」 >

『エアラクラックス』

(計画開始まで)
 1941年3月、ウィリアム・デュランドを委員長とする陸軍/NACAの「ジェット推進に関する特別委員会」が発足し、彼の教え子でゼネラル・エレクトリック社(以下GE)排気タービン開発チームのリーダー、サンフォード・モスの許にも反動推進の実現可能性に関する情報がもたらされた。また、同チームのロイ・ショルツが英国からターボジェットエンジンの開発状況に関する資料を持ちかえり、GEは、陸軍の命の下、ターボジェットエンジンの開発にとりかかることとなった。
 しかし、その開発計画の実態は「英国製ホイットルW.1をコピーせよ」というものであり、また、当時の技術水準ではターボジェットエンジンの燃料消費率はその強力な推進力に免じて許すには大きすぎるとも思われた。そこでGE社の技術者の一部は、後者の理由を足がかりに、前者で傷つけられたGE社員としての、そしてアメリカ人としてのプライドを賭けて新しい推進システムを提案した。すなわち、親エンジンを過給するだけでは余ってしまう排気タービン過給器からの圧縮空気を、燃焼室(「ブースター」と称した。)に連続供給し、この中へ燃料を噴射・着火することで発生する燃焼ガスの奔流を高速飛行時の推進力としようというのである。巡航・低速時にはブースターを停止して親エンジンの回すプロペラだけで飛行すればよく、燃料消費率はレシプロ機のそれにとどまる。つまりはジェット推進はおいしいところだけ利用しようというのである。これは後世から見れば過渡期的な構想だったが、イギリス製品のコピーを潔しとしないGE経営陣とターボジェットという「怪しげな」技術に疑念を抱く陸軍上層部の一部にあっけなく受け入れられてしまった。
 そして同年10月3日(XP-59A「エアラコメット」と同時!)、上記「BR」推進システム及びこれを装備した技術デモンストレータ機が陸軍航空隊の発注を獲得した。この発注はすぐにターボジェットに懐疑的な陸軍上層部の一派によって、折から進行中の迎撃機計画R40Cへの応募に切替えられ、機体製作がご近所のベル社に委託されたこともあって、没になった同社の戦闘機計画XP-59の番号を引き継ぐとともに、ライヴァルであるXP-59Aとはお互いをカモフラージュするという関係(「ジェット派」との妥協による偶然の産物だが)になった。なお、「エアラコメット」が翼下装備品の装着に支障があるほどの短い脚を付けているのは、本機の2mを越す長い脚への嫌味だともいわれている。

(機体の構成)
 動力系統を収めるナセルは、簡単に言えばP-39の胴体前半を前後逆にし、コックピットと機関砲の代わりに排気タービンとBRシステム用の可変容量過給器・切替バルブ等を収め、スピナ―中心からは37mm砲の代わりにブースター用の圧縮空気・燃料供給筒兼指示架が突き出し、その先端にブースター燃焼室が付いたものである。1号機ではブースターには簡単な冷却用導風シュラウドが付くだけであったが、スピナ―後方の乱流の影響で十分に冷却せず、燃焼室の焼損が発生したため、2号機からはスピナ―と連続した形状のものに改められた。ナセル前端には冷却液及び潤滑油の冷却器が付き、カウリングが前後することで冷却空気量を調整する。
 過給器空気取入口はナセル下面外側に設けられ、ブースター使用時には後端をヒンジとして面積が約2倍に開き、過給器の容量を増大させる(このとき、流体継手を介してタービンの負荷が増えるため、排気炎が目に見えて小さくなる。)。また、排気タービンからの排気管は当初後上方に向いていたが、パイロットの視界を眩ませるため、ほどなく外向きに曲げられることとなった。ブースター向けの圧縮空気はそのまま燃焼室に送られるが、親エンジン向けの分は、内翼前縁のインタークーラーで冷却される。
 主脚はBRシステムのためにナセル内に収容できず、内翼下面に収容されるが、これによって奪われた燃料タンク収容スペースを埋め合わせるため、外翼にまで燃料タンクを詰込んだ。ただし、外翼前半部のタンクは非防弾のインテグラルタンクであり、補助燃料タンクとして扱われた。高揚力装置としては内翼全幅と外翼内側のファウラー式フラップがあるが、着陸モード作動時には補助翼が連動して15°まで下がる。また、急降下からの引起しを容易にするため、内翼フラップ下げ・補助翼上げ・昇降舵上げオフセットが連動するシステムも採用している。なお、内翼部内側の主輪収納部直前に150ガロン入りまでの増槽を1個ずつ懸架できる。尾翼はプロペラ後流とブースターの熱排気を避け、かつ空気抵抗を減らすためV尾翼とされた。
 機首には左側に20mmイスパノ機関砲2門(各120発)と右側に37mmオールズモビル機関砲1門(45発)が装備されるが、左右対称の武装とすることも可能である。コックピットは、胴体中央部を燃料タンクに占領されたため、プロペラ回転面よりさらに後方に置かた。キャノピーはP-39初期案やXP-77でも試みられた後方回転収納式で、空中では十分な視界を有していたが、弦長の大きな内翼のために着陸時の視界は最悪であった。操縦室内は狭く、「ブロイラーのごとく詰込まれた」計器盤はパイロットの不評を買った。尾部には地上で大きな迎え角を取ったときにプロペラをこすらないようにするための引込式の橇がある。

(飛行と実績)
 1号機は1942年10月27日に初飛行したが、12月21日の高高度ブースター連続運転試験中に左側ブースターの焼損から空中火災を発生、地上付近まで降下することはできたものの、V尾翼ゆえの方向制御の反応性の悪さから片発時の推力不均衡を補正しきれずに着陸時に転覆・焼失した。この事故により、製作中の2号機に前述のブースターシュラウドの改修と尾翼の増積・作動角変更を含む設計変更を施すために作業を中断、2号機の初飛行は翌1943年5月2日までずれ込み、他のR40C候補機と大差なくなってしまった。
 しかし、本機はその驚異的な上昇性能と速度性能(ベル社の計測では519mph/35000ft(835kph/10668m))によって俄然注目され、ブースターを使用しなければ航続性能も要求値をクリアできた。しかし、ブースター使用時の燃料消費率の大きさ(「迎撃目標としてB-29を想定した場合、戦闘行動半径は増槽なしで160miles(257km)程度、150ガロン増槽2個装備で290miles(467km)程度にとどまる」;陸軍報告書)と運動性能の悪さ、地上での視界の悪さ(前輪式降着装置でありながら地平線がかろうじて見える程度!)、そして居住性の悪さを始めとする取扱いにくさは大きな足かせとなった。
 本機の短所はもとより、日独とも本機の投入に値する高高度作戦機を用意できないと予想されたことが、開発の終焉を約束したかに思われた。しかし、「エアラコメット」の性能が戦闘機としての用をなさないものであったことと、本格的ジェット戦闘機として開発されていたロッキードP-80が速度はともかく航続性能において本機を下回ると予想されたことにより、あくまでも保険として(そしてGE技術陣と陸軍「反ジェット派」のガス抜きのため)、1944年8月10日に追加試作機20機の発注が行われた。ただし、当時ベル社で生産中のB-29の製造を妨げないという条件が附されたため、同年中に完成したのは11機に過ぎなかった。
 完成機は第5航空軍配下の各P-38飛行隊から選抜・編成されたパイロット及び整備兵からなる59EFS実験飛行隊に配備され、1944年12月中旬からミューロック基地で訓練に入る予定とされた。しかし、折からのフィリピン沖航空戦のために各飛行隊は人員を手放すことができず、結局、訓練開始は翌1945年3月下旬までずれ込んだ。さりとてドイツ空軍は虫の息、日本軍「ごとき」に本機をつかうのはもったいないとあっては、この訓練は無為の日々も同然であった。
 しかし、機会は意外なところからやってきた。1945年6月、日本への原爆使用が決定され、原爆のテニアン搬入作業が動き出すと、「もしこいつが日本軍の偶発的な爆撃によって破壊され、飛び散った核燃料が基地を汚染したら、日本空爆を続行できなくなる」という心配が起こった。しかもこの頃、キ74によるマリアナ諸島への偵察行動が散見され、同機が爆装も可能であることが分かっていたから、安全を期すためには高度1万m超を飛行する敵機を確実に迎撃できる装備が必要とされたのである。59EFSは、急遽第20航空軍に編入され、7月26日にテニアンに到着した(配備の目的が目的なだけに、本機の型式名から"X"が外されることはなく、あくまで「試作機の熱帯地域運用テスト」と称された。)。しかし、予想された日本機のテニアン爆撃はなく、59EFSの実戦発進はわずかに1回、単機で偵察に来たキ74に20mm砲を一連射しただけ(命中弾なし)であった。

(その後)
 戦後、ジェット機の実用化によって本機は完全に用済みとなったが、ベル社側スタッフのうちロバート・ウッズは本機の開発で得た高速機のノウハウをX-1実験機に活かし、名を残すこととなった。また、GEはBRシステムの開発から得た技術でジェットエンジンメーカーとしての地位を築くことになる。
 59EFSから返納された機体のうち4機は、「ドイツ超兵器を知恵と勇気で打倒する勇敢なアメリカ航空兵」の映画に(無論敵役で)出演するということでハリウッドに売られていったが、映画自体が企画倒れに終わったため、分解状態で倉庫に眠ることとなった。そのうち1機が外翼と尾部ユニットを失った状態で20世紀フォックス社の大道具倉庫で発見され、某シリーズもの映画の監督の目にとまるのは、1997年も半ばのことであった。