日本海軍局地戦闘機「雷電」一一型 J2M1

「雷電」一一型

 諸元
 全長…9.60m 全幅…10.85m
 自重…2,650kg 全備重量…3,870kg
 発動機…三菱重工業「彗星」二一型液冷V型12気筒1,250hp(一一型)
 最大速力…635km/h 航続距離…1,200q(標準)・2,150km(過荷重)
 上昇速度…5`45``/6000m 実用上昇限度…12,000m
 武装…20o機銃×2(機首),13o機銃×4(主翼),爆弾25番×2

 ≪解説≫

 昭和十五年四月,海軍は敵爆撃機の高速化に伴う邀撃戦闘の困難化に対応した,基地
防空用の局地戦闘機の開発を命じた。その要目は,前年の九月に海軍が各社に提示した
概案と殆ど同じものであった。

 これに対し,三菱は真っ向からこの要求に応じた。丁度十二艦戦も実用化の目処がつ
き,余裕が出来たからである。三菱の主務技師は当然の如く堀越技師であった。

 だが,発動機選定の時点でいきなり引っ掛かる事となる。この要目は当然高速戦闘機
を欲した物である。しかし,高速戦闘機には大出力発動機が欠かせない。だが,その大
出力発動機というものがこの要求が出された当時には存在しなかったのである。

 要求の発動機の項目には,「昭和十七年九月末までに審査を完了している物」との記
述があった。この当時,三菱は独逸のダイムラーベンツ社からDB601発動機のライ
センス権を獲得しようとしていた。DB601はメッサーシュミットBf109Eに搭
載され,高性能を実証していた。そのため,三菱は技術導入を兼ねてライセンス権を得
ようとしていたのである。そして,その交渉はほぼまとまりつつあった。

 という事で,必然というか偶然というか,新型戦闘機の心臓部には液冷発動機が搭載
される事となった。液冷発動機だと従来の空冷発動機に比べ全面投影面積が少なくて済
み,空力的に有利であるという事も採用につながった。

 発動機選定が決まると機体の設計は思いの他順調に進み,昭和十六年の十二月八日に
初飛行を向かえた。出来上がった機体は,実に洗練されたデザインの機体となっていた。
機首は液冷独特の形状をしており,見るからに抵抗の少なそうなデザインであった。そ
してその後ろになだらかに整形されたコックピットが配置され,最後部の尖った部分ま
で実に流麗なラインで構成されていた。機体下面に配置されたラヂエターはオイルクー
ラーとまとめて配置され,スペースの節約を果たしていた。因みに,開口部は機体下面
から数cm離されているが,これは設計途中の風洞実験でたまたま得られた実験結果によ
る物である。つまりはアメリカのP−51と同じ考え方をしていたのである。

 試験飛行の結果,性能は実に優れているとされた。最大速力は要求値を完全に超えて
おり,その空力設計の優秀さが実証された。上昇力も要求値にはやや届かなかったが,
それでも従来の機体に比べ完全に勝り,新型機としての面目を保った。格闘性能は低空
低速域での格闘性は零式艦戦とは勝負にならなかった。だが,それも中高度辺りには完
全に逆になり,全くの優位で闘う事が出来た。操縦性は基本的に素直で,なによりも高
速域まで安定した操縦性が得られている事が評価された。その点において,零式艦戦は
全くと言ってもいいほど劣っていたからである。航続距離は侵攻戦闘機としては不充分
であったが,あくまで防空用の機体である為大した問題とはされなかった。

 制式採用は昭和十七年九月,名称は初めて漢字の愛称が用いられ,局地戦闘機「雷電」
と命名された。その名に恥じず,雷電一一型は高速邀撃機として活躍する事となる。


 ≪製作者後書き≫

 ども、海野土左衛門です。

 って事で,液冷雷電です。個人的には,本当は「雷電」というヒコーキはあの火星を
積んだ紡錘形もたくましいあの姿しかないと思っております(笑)。堀越技師自身も自分
が中でも最高の飛行機だったと仰ってますしね。

 でも,その堀越技師はまた,雷電の時にマーリンがあればもっといい機体を作ってい
たとも仰っています。はてさて,その堀越技師が液冷で雷電を作ったらどうなるか!?
それを私個人として結論付けたのがこの液冷雷電です。

 えぇ,分かっております。設定的には無理ありますよね。でも,どうしても作ってみ
たかったんです,はい。なんか飛燕みてぇに見えない事も無いですが,気にしないでく
ださい。日本機でDB601積むと,どーしてもこうなるのです。まぁ,三菱臭さとい
うか堀越風というか,その感じは幾分でも出せたのではないかと思っております。

 って事で,堀越さん,こんなん,如何っすか?

 でわ!!(^^ゞ

                 風邪で喉が痛く,歌ががなれない海野土左衛門