ソヴィエト陸軍中戦車『DP』制式採用、その後


○ DP中戦車とバリエーション

 T-34、KV-1と比較すると、DP-1は日陰者のイメージが強い。しかし、ソ連がもっとも苦しい時に、戦線を支える助けとなったのも確かである。

 DP中戦車の原型となった”オビーエクト13G”は、1941年4月、工業都市スクスクの第13トラクター工場において、主任設計技師パーヴェル・バカトフの率いるチームによって製造された。
 T-34の後継候補として開発された本車は、備砲を42口径76ミリ砲のF-34とする点をはじめ、T-34(1942年型)とほぼ同等の性能を持っていた。但し、砲塔内に車長・砲手・装填手が搭乗する「3人用砲塔」は、本車がT-34に先駆けて採用している。

 順調に開発が進めば、本車がT-34に代わって主力戦車の座を占める可能性もあったが、同年6月に侵攻を開始したドイツ軍によってスクスクの工場が蹂躙され、開発中の車両も生産設備と共に破壊されてしまった。ただ幸運にも、完成状態にあった数両は技師と工員によって操縦され、ドイツ軍先遣部隊と交戦したのち西方へ撤退している。余談になるが、このうちバカトフの搭乗した車両は、撤退中にソ連空軍機の誤爆によって擱坐し、これに怒ったバカトフが上空へ機銃を乱射したため、後続機が穴だらけにされて不時着する、という事件が発生している。開戦後の混乱を象徴するエピソードと言えよう。

 混乱はあったものの、装甲車両局はDPの本採用を決定し、開発チームに速やかな量産着手を指示した。チェリヤビンスクの一角に生産設備を確保したバカトフは、「ともかく戦争が始まった以上、最も優先されるのは数である」と考え、DPの設計簡略化に着手する。これは火力・防御力の改善をも後回しにして行われ、生産性が向上した結果1941年の冬には相当数のDPが完成し、T-34の代わりに戦線へ投入された。
 戦場でのDPは「KVより軽く、T-60より強く、T-34より乗りやすい」と高く評価されたものの、その特徴である「5人乗り」である点が逆に足を引っ張ることになる。開戦初期に多数の戦車兵を失い、新規の戦車兵養成もなかなか戦車生産に追いつかないため、戦車隊は定数より少ない人数で編成される傾向にあった。装填手や機銃手を欠いたDPは、折角の長所を生かせないどころか、4人乗りのT-34にも劣ってしまった。

 1943年になると、状況はやや好転した。しかし、この頃には改良を施されたT-34の量産体制が確立され、DPの地位は相対的に低下し始めた。それでもDPはハリコフ・クルスクでドイツ軍と対峙しつづけたが、新たに85mm砲と3人用砲塔を備えたT-34/85が登場すると、DPの劣位は決定的になった。
 1944年の夏には、DPの生産はほぼ終了した。

 T-34やJS-2と同様、DPの車体を利用した派生型も多く試作されている。
 まず、T-34/85の砲塔をそのまま搭載した火力強化型が製作された。これはDP-85として採用された。(このため、従来のDPはDP-1と呼ばれることになった。)85mm砲の装備で重心がやや前方に移動したが、運用上支障はなかったようだ。
 ほかにも、100mm・122mm砲を搭載した自走砲型、12.7mm機銃を搭載した対空戦車型などが試作されたが、残念ながらいずれも採用には至っていない。

 DPを装備した部隊による評価は先に挙げたとおりであるが、適切に運用されたDPは新型のT-34に劣らぬ働きを見せている。
 1943年10月、イェーニ・タンスヨキン中尉はニコチン近郊で4号戦車8両を撃破している。
 また、1945年2月には、オマエノ・カーチン・デベソフ少佐が、チャリノサドルフの市街においてパンターを含むドイツ戦車14輌を撃破した。「3号、4号戦車を怖いと思ったことはない。新型戦車はこれよりは危険だが、状況を利用すれば倒すのは難しくない」とは、デベソフ少佐の証言である。

 DPはさほど劣った存在ではなかったが、様々な要因によってT-34に栄冠を譲ってしまった。
 「当時、父は収容所暮らしで、最新の情報に接する機会もありませんでした。また、戦争後半には資源の多くがT-34やJS-2の生産に費やされ、ずいぶん苦労をしたようです」
 「『まあ、最後はT-34にしろ戦争には勝ったんだから、良しってもんだな』とも、言っていましたが…」と、バカトフ技師のご子息で、現在『バカトフ・ミニチュア・トイズ』の経営者であるオレーグ・バカトフ氏は語っている。
DP-85

ソヴィエト陸軍中戦車 DP-85


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 参考文献:先に挙げたものに加えて
    ◇月刊グランドパワー'01/9〜10「ソ連軍軽戦車(1)〜(2)」(デルタ出版)

2002年12月 酒匂135