アメリカ合衆国 P-39 改造水上レーサー「Day Dreamer」(プライベート・エントリー)

側面図(20.4K)

ジョセフ・T・マコーミックの述懐:
「最初にその話が出たのは、あれは確か戦争が終わって間も無い 45 年の暮れだったな。"T.J"の奴から連絡があったんだ、是非見て欲しいものがあるからって。飛行場に案内されてたまげたね、ハンガーの中に半分バラバラになった P-39 が置いてあるんだ。てっきりクリーヴランド(トンプソン杯ナショナルレース)にでも出るつもりかと思ったが、奴の言うことを聞いてまたビックリさ。P-39 を水上機に改造して 47 年秋のシュナイダー杯に出るって言うんだ。そん時ゃ正直言って、T.J の奴とうとう頭がイカレたかと思ったよ。」

 「Day Dreamer」はアメリカのプライベートチームによる 1947 年シュナイダー杯出場機である。見ての通り放出品の P-39 を水上機に改造したもので、技術的に革新的なところは何もないと言ってよい。シュナイダー杯にこんな機体で挑むのは無謀とも思えるが、何故そこまでして出場したのかには理由がある。この機体を送り出した「Day Dreamers」はアメリカの黒人チームだったのだ。

トーマス・L・ジョーンズの述懐:
「俺の生まれ故郷に来てみなよ。町の何処にだって「白」と「色付き」の看板が出ているぜ。映画館も列車も、レストランもトイレもだ。前の戦争じゃ、俺達はこの国の為に戦った。そしてこの国も、少しは俺達のことを認めてくれたかと思った。だが戦争が終わって軍服を脱いでみれば、何一つ前と変わっちゃいない。俺達が戦ったヨーロッパじゃそんな事は無かった。イギリス人もフランス人も、敵だったドイツ人さえ肌の色で人間を区別したりしなかった。味方の筈のアメリカだけが、俺達を特別扱いしたんだ。
 戦争中俺の親父が死んで、国に帰ったら俺は遺産を相続して金持ちになっていた。だが親父の金は白人にゴマを擦って同胞から絞り上げた汚い金だ。この金を使って何ができるか、俺は考えたね。そしてある日、新聞でシュナイダーの話を読んでピンと来たんだ。俺達に何ができるかアメリカに、そして世界中に知らせるチャンスだと思ってね。そんで 332nd の仲間に声をかけ始めたって訳さ。」

 第 332 戦闘飛行団は第二次大戦中、唯一実戦に参加した黒人飛行隊である。北アフリカ・イタリア・ドイツ本土へと転戦しつつ対地攻撃と爆撃援護に従事し、援護した爆撃機には一機の未帰還機も出さなかったという輝かしい記録を誇る。

ジョセフ・T・マコーミックの述懐:
「戦争中、表向きは俺達黒人部隊も白人と同等の待遇を受けている事になっていた。だが実際は、何処へ行っても俺達は「特別」扱いだった。宿舎も別、食い物も別、ご丁寧に滑走路まで白人とは別のが指定される事もあった。それに白人には許される失敗でも、俺達には許されなかった。白人なら個人の過ちで済まされる事でも、俺達の失敗は黒人の人種的欠陥として宣伝されるからだ。そんな中でみんなよく頑張ったよ、それにみんな優秀だった。アメリカ広しと言えども、あれほど粒よりで個性的な顔ぶれが揃った飛行隊は他に無かったろうな。大学院を出た奴もいればアクロバットパイロットもいたし、生え抜きの軍人もいれば芸術家もいた(笑)。白人の奴等が目茶目茶に厳しい入隊テストを課したから、とびきり優秀な奴等だけが集まったんだ。皮肉だね。」

 「ジョー」ことジョセフ・T・マコーミックはアラバマ州タスキギー(Tuskegee)の黒人飛行兵養成学校を 1942 年度に卒業し、北アフリカからドイツ本土への侵攻作戦までに参加した歴戦戦闘機パイロットである。T.J ことトーマス・L・ジョーンズは彼と共に転戦した戦友で、 332 飛行隊の兵装員だった。

トーマス・L・ジョーンズの述懐:
「物心ついた時から飛行機が好きで好きでたまらなくってね。でも目が悪くって、飛行機乗りにはなれなかった。なんとか飛行機に触われる仕事に就きたくてあちこちの飛行場を回ったけど、答えはいつも『黒んぼに用はない』だった。親父は工場を継がせたかったみたいだけど、黒人を安月給でこき使う阿漕な商売だと知ってたからね。黒人の面汚しになるのは真っ平御免だった。だから、黒人航空整備兵の募集を知ったときは嬉しかったね。国の為に働いて、好きな飛行機に触われるって思ったんだ。二次選考で兵装員に回されたけど、銃のことならちょっとばかし知識があったんで苦にはならなかったね。」

 T.J は「Day Dreamers」の発起人であり、相続した遺産のほとんどを割いてこのプロジェクトに当てた。「親戚や友人から散々ご忠告を受けたけど、聞く耳は持たなかったね。『サイは投げられた』んだよ」。彼は戦友会の名簿を通じて参加者を募ったが、真っ先に声をかけた一人に「マイク」ことマイケル・M・バーンズがいる。彼は 332nd でチーフエンジニアを務め「整備の神様」と呼ばれた人物だ。

マイケル・M・バーンズの述懐:
「…という訳でまぁ T.J に乗せられて機体を担当する事になったんだが、今時 P-39 ってのは恐れ入ったよ。教習時代にゃ散々いじくった飛行機だけど、戦争中には既に時代遅れになってた代物だ。何で P-51 にしなかったんだって?俺も T.J に同じことを聞いたよ、そしたら答えが『水上機に改造するからだ』。P-51 はラジエターが、P-47 は吸気ダクトが腹の下に張り出してるんでフロートを付けにくいって訳だ。あとは安いって理由だな、P-51 一機の値段で P-39 なら三機買える。水上機改造には金がかかるし、レース用のエンジンチューンも物入りだし、機材とスタッフを揃えて遠路イギリスまで行くのも冗談じゃねぇくらい金がかかる。T.J の奴『無駄な出費はできる限り控えて、浮いた金は全てエンジンチューンに回すんだ。出るからにゃ勝たなきゃならねぇからな』と抜かしやがった。こりゃ本気だと思ったよ。」

 改造箇所を極力控えるのには、予算以外にも時間を節約するという大きな理由があった。なにせ、47 年秋のシュナイダー杯まで時間は1年半ちょっとしかない。その限られた時間のなかで陸上機から水上機への大改造だけでなく、上位入賞を狙えるだけのレーシングチューンを施そうというのだ。しかもプライベートチームの悲しさ、スタッフは本職の仕事も抱えておりフルタイムで作業できる訳ではない。ある意味、時間は予算よりも貴重な資源なのだった。

 限られた時間を有効に使うため、作業は三段階にわたって計画された。まず放出品の P-39 をリストアし、不要な機材を全て取り払って軽量化すること。次に最大の難関である水上機化。最後にレース用のチューニング。当時は各種の軍用機パーツが比較的安価に放出されていたため、使えるパーツは徹底して流用品または改造品で済ませることにした。

 チームによって幸いなことに、1946 年 9 月のトンプソン杯でベル社ワークスチューンの P-39 改造機「Cobra II」が 601.7Km/h の平均速度で優勝を果たし、P-39 も扱い次第では優秀なレーサーたり得ることが実証された。Cobra II のデザインは Day Dreamer の各所に影響を与えている。


P-39 との比較(47K)

〓 主な改造点 〓
  • 主翼両端は 2.5 フィート(75cm)づつ切断され、水平尾翼も 1 フィート(30cm) 先端を切った矩形翼とした。切断面は当時のレース機に流行していた「削ぎ上げ翼端(Hoerner Wingtip)」という形状に整形され、翼端誘導抵抗を減らす試みがなされている。

  • コクピット回りは完全に改造されており、自動車型のドアは外板によって置き換えられた。機体上面には小型キャノピーを備えた搭乗ハッチが設けられたが、この部分は本機の数少ないスクラッチビルトパーツである。武装・装甲・防弾タンク・軍用無線機など不要な装備はすべて取り外してあり、前脚・主脚は駆動部ごと取り外され脚収納部は再整形されている。

  • 燃料タンクは原形 P-39 と同じ外部主翼内。P-39Q 標準装備の防弾タンク(87gal)を取り去り、スクラップから回収した P-39C の非防弾タンク(120gal)に取り替えてある。

  • 主フロートはヴォート OS2U キングフィッシャーからの流用だが、中央部を1ブロック延長してある。翼端フロートも OS2U の部品を使っているが、こちらは原形をとどめないほど改造されており新造品に近い。

  • 主フロートは前方I字・後方V字の二点支持で、前支柱には開口がありオイルクーラーが内蔵されている。もともと主翼付け根にあったオイルクーラーを前支柱内に移すことで主翼インテイクを全てラジエター用に充てることができ、オーバーヒートしがちな P-39 の冷却効率を改善している。また、重量物を前方に動かすことで重心を前方に移し、機関砲・前脚取り外しによる重心後退を少しでも補正する役割も狙っている。

  • 空気抵抗を考えると翼端フロートは単支柱にしたかったが、必要な強度データを検証している時間がなくやむを得ず前後二本支柱となった。なお、翼端フロートの取り付け基部は P-39Q の翼下 12.7mm 機銃ポッドのハードポイントが流用されている。

  • 胴体背部上面のキャブレターインテイクは P-39 と同位置だが、形状は縦長に変更されている。キャブインテイクから垂直安定板まで伸びる背鰭はインテイク後方の乱流を押さえ、またテイルボリュームを増やすことで主フロートと支柱による空力中心点前進を補正する狙いもある。

  • エンジンは P-63 用アリソン V-1710-117 の初段過給器を取り外し、P-39 のエアフレームに収まるよう改造した特殊品。連続運転 1500hp、離昇出力 1800hp、水噴射を併用したオーバーブースト時の最高出力は推定 2000hp 以上に達するが、スペアエンジンを持てないプライベートチームゆえ「壊れない程度」の運転に制限している。なお、プロペラも P-63 用の先端を切った特殊品。

  • 機体は外板をピカピカに磨き上げた上に透明ドープ仕上げで、赤い舵面と機体番号以外にほとんど塗装らしき塗装がない。これも費用・工数・重量軽減の一環である。

緒元 Normal P-39QNo.203 Day Dreamer
エンジン アリソン V-1710-85
離昇出力 1450hp
アリソン V-1710-117 改
緊急出力 2000hp(推定)
最高速度 605Km/h(4572m) 未計測
翼幅10.9m9.2m
全長9.0m10.36m
全高3.6m4.5m
乾燥重量2561Kg1859Kg
全備重量3943Kg2404Kg
燃料容量87gal(329 リッター)120gal(454 リッター)
三面図(28K)
[三面図 クリックすると拡大(860x740 79Kbyte)]

(添付スケールは 1m 単位)


ジョセフ・T・マコーミックの述懐:
「T.J の金だけじゃ足りないんで、戦友会や黒人コミュニティを通じて募金を募った。反響が大きいのには驚いたよ。ほんの8歳の男の子が、新聞配達して溜めた 25 ドルをカンパしてくれた時にゃ涙が出そうになった。俺達の肩に同胞の期待がかかってると思うと嬉しかったけど、その一方でプレッシャーもきつかった。
 反対の声が無かったわけじゃない。なんでレース出場なんかに大金を使うんだという声もよく耳にしたよ、他に有効なお金の使い道は幾らでもあるだろうって。俺も T.J やマイクと何度も話し合ったさ、俺達は果たして正しいことをしてるのだろうかと。でも聖書にもあるだろう、『人はパンのみにて生きるにあらず』だ。俺達黒人には、とりわけ未来を担う子供たちには夢と希望が必要なんだ。」

 1946 年の秋までに P-39 の水上機化は完了し、タスキギーから 50 マイルほど北のマーチン湖にワークショップを移して作業を続行した。1947 年 2 月には待望の滞空証明が下りて初飛行を行い、刻々と迫るレース期限を横目に調整とチューンアップに明け暮れる多忙な日々が続いた。

マイケル・M・バーンズの述懐:
「まぁ、トラブルは色々あったよ。もちろん技術的な事だけじゃない。KKKを名乗る脅迫状が投げ込まれた事も何度かあるし、一度なんぞは飛行機を置いてるハンガーでボヤ騒ぎが起きた事もあった。本当にKKKの放火だったのか、事件は迷宮入りさ。FAA(航空管理局)もNARST(北米シュナイダーレース実行委員会)も俺達には冷たかったな。滞空証明が下りるまで2ヶ月も余分に待たされたし、真っ先にエントリーした筈なのに俺達のレースナンバーは「203」だった。白人の奴等、ナンバー・ワンは意地でも黒人には渡さないつもりらしい。なーに、誰が本当のナンバーワンかはレースが証明するだろうさ。」

トーマス・L・ジョーンズの述懐:
「黒人でも仕事に成功して金持ちになった者もいる。大学を出て博士号まで取った者もいる。『黒人だって分さえ守れば幸せに暮らせるのさ、一体何が不足なんだ?』白人にはそんな風に言う奴もいる。俺達は別に大したことは望んじゃいない、肌の色は違っても同じ人間だって認めてもらいたいだけなんだ。」

ジョセフ・T・マコーミックの述懐:
「黒人の中にも、白人と黒人は永久に公平になれないと信じてる人達がいる。確かに今のアメリカを見る限り、差別の根は深くて簡単には消えそうにない。だが俺達の子供の世代や、もしかしたら孫か孫のそのまた孫くらいの世代になったら、きっと世の中も変わっている。…仮に俺達がシュナイダーで優勝しても、それでアメリカが変わることなんてあり得ない。でも、きっと歴史を動かす無数の小さな力の一つにはなれるんじゃないかな。馬鹿げた夢みたいな話だって言われることもあるし、俺も時々そう思う。でもいいじゃないか、一日くらい素敵な夢を見るのも悪くないだろ?チームと飛行機の名前はそんな理由で決まったんだ。」

 1947 年 7 月、慌ただしい最終調整を終えた飛行機は分解されて船に積み込まれ、ジョー・T.J・マイク等総勢 15 名の「夢見る男達」と共にイギリス・ポーツマスへ向けて出港した。

平面図(23.3K)


作者からのコメント
 黒人のみで構成された戦闘飛行隊、"Tuskegee Airmen" こと 99 独立飛行中隊および 332 戦闘飛行団の活躍はアメリカでは半ば伝説的に語り継がれていますが、日本ではあまり知られていません。私も前大戦中の米軍に黒人の戦闘機パイロットがいたとは知りませんでした。彼らについて知るきっかけになったのは、はからずも Warbirds の「あなたはどっち」で示された小さな疑問です。「シュナイダー 1947」の話を聞いたとき、真っ先にに閃いたのが彼ら Tuskegee Airmen の出場でした。
 しかし言うは易く行うは難く、飛行機を描くより資料調べのほうに時間を費やすことになってしまいました(笑)。しかも当初は小説風に仕上げるつもりだったのですが、アメリカ近代黒人史について生半可な知識では歯が立たないことを思い知り、このような紹介の形になりました。

 「シュナイダー 1947」の趣旨からは少々変則的なアプローチとなりましたが、日本の皆さんが 99th, 332nd について知って頂ける機会になれば幸いです。

文・画とも Copyright by Y.Sasaki 2000 12/09