[_薫風]
_機体番号500番

全長9.22m(フロート除く) 発動機R2800-34W
全幅11.95m 出力/基数2400ps/1基
全高5.15m 速力不詳(650km/h?)
フロート長8.8m 航続力未測定
自重2800kg
乗員1名 (C)Amagi
第2次世界大戦も終焉を迎えて2年。 唐突にイギリスのエース、ジョニー・シュナイダー大尉によりシュナイダー・トロフィーの再開が宣言された。 その際、参加国別に機体番号が振られたが、日本の500番台は占領軍アメリカの航空禁止令により参加は事実上不可能だった。 ところが、レース運営委員会の会合の中である時
「日本は数多くの水上機を配備し、いくつかの戦果を上げた」
との話題が挙がってきた。 何でも水上戦闘機・水上攻撃機・水上偵察機・水上輸送機と一通りの機体を揃えていただけでなく、 長駆太平洋を渡ってのハワイ爆撃、米本土爆撃。 水上戦闘機による米戦闘機の撃墜等、数多くのエピソードを持っていることが委員各々の聞きかじった情報から明らかになった。
「水上機をそうやって見事に運用しえる国が参加できないなんてバカな事があるか!」
シュナイダー大尉は、すぐさま米国に航空禁止令の解除を打診する。 ところが、アメリカからの返答は"No"だった。 《神風》をしでかすような国に再び航空機を持たせるなど狂気の沙汰と言うのだ。 それでもシュナイダー大尉は諦めない。 本国がダメならばと今度はGHQに対し直接日本を参加させられないかと交渉にかかる。

丁度、GHQでは荒廃しきった日本をどうするかで意見の別れていた。 中でも一番の悩みは、国民の沈滞した意識の処置だった。 様々な意見が出されたが抜本的な解決策も無く、戦争終結したと言うのに生存競争の中で当たり前のように死体が転がっている有様。 そこへ、シュダイナー大尉の提案が舞い込んだのである。
「かつて《カミカゼ》なる単発機が都市間飛行で記録を作り国威発揚に大いに貢献したことが有る。 雇用創出や日本式の生産管理調査も含めて検討してみてはどうだろうか」
他に有効な策が無い以上、検討するもほぼシュナイダー大尉の思惑通り事は運ぶこととなる。

GHQは当初、有り余りに余りすぎてゴミのように溜まっているF8Fにフロートを付けるのみで出場させようとした。 それに対し、航空産業関係者の雇用管理を担当する航空管財事業団から競速機設計開発主任に任官された原部技師は
「日本には大型の火星エンジンを搭載した《強風》と言う水上戦闘機が有る。 これにF8Fからパーツを移植し、改修する形で出場したい」
とGHQに訴える。 本来、敗戦国からのこんな提案は一蹴されそうな所だが、競速機担当の士官M・ポール氏は独断でこれを了承する。 と言うのも彼は無類の航空マニアで、特に水上機の分野を専攻していたのだ。 何しろ、鹵獲した零式観測機等を軍から買い上げて自家用機として米国での形式を取得しているくらいなのだ。 もっとも、後にこの件で彼は減給処分を受けることになる。

徐々に機体が形を成してくる。 原部技師は「改修」と言ったが、機体は5式戦だか疾風だかよく解らないが、日本製であることだけがはっきり解る輪郭を成していた。 結局F8Fから流用したパーツはエンジンとプロペラ、及び風防と各種艤装品。 強風に至っては計器盤のみが流用され、他は全て製造となった。

機体の製造に関しては大して問題は発生せず、予定通り滞り無く初飛行が行われた。 ところが、いざ飛ばす段になって問題は発生した。 懸念されていたカウンタートルクの問題である。 これは大馬力のエンジンの宿命で、二重反転プロペラを用いる等せねば解決できるものではなかった。 結局、ポール氏の助言の通り片側の主翼に燃料タンクを増設し、離水時の安定を稼ぐ事とした。

こうして完成した水上機は《薫風》と名づけられ、真っ白で飾り気の無かった尾翼には春を告げる紅梅が描かれた。 また、この製作課程は新聞にも取り上げられ、《薫風》は戦後の国民が最初に抱いた希望となった。 予断だが、ポール氏の独断がGHQの知るところとなったのは新聞に掲載された《薫風》のF8Fに似ても似つかぬ写真だった。 最後に《薫風》にとって不運だったのは、戦後日本復興の証との称号を翌年登場した国鉄C62機関車と彼女が牽引する超特急「つばめ」に奪われてしまったことである。

_ [index / comment] _