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2003.01.01
竹家食堂 日本で最初のラーメン
日本で最初にラーメンを「ラーメン」として売り出した店

その事情は右に掲示した竹家食堂のラーメンの説明書きに以下の様に解説されています。
大正11年春、現在の北海道大学前に「竹家食堂」という中華料理の店が開店しました。何台もの自転車で出前を行い、宴会場もあり、料理は中国人の料理長「王文彩」が腕をふるっておりました。
 「王文彩」が作った「肉絲麺」(ヨウスーミェン)は人気のメニューでしたが、日本人客の多くは「支那そば」「チャンそば」などと中国人を蔑視するような呼び方をしておりました。
 「竹家食堂」店主の妻「大久タツ」はその料理の呼び名にいつも心を痛めておりました。なぜなら、お店に訪れて来る留学生には中国から来たものが多く、実直な彼らをとても大切に思っていたからです。
 そこで「大久タツ」は、多くの人を魅了するこの料理を日中友好の掛け橋にしたいという気持ちを込めて「王文彩がよく使った言葉の「好了(ハオラー)」=「出来ました」で響きがいつも耳に残っていた「ラー」と「王文彩」が麺を引っ張って作る時の動作の意味である「拉(ラー)」という漢字をあて、「拉麺」とメニュー書きし、その後すぐに、もっと日本人が親しめるようにとカタカナで「ラーメン」と書き直して張り出しました。
 こうして「ラーメン」は人々の間で、親しみやすく誰でも読める呼び名になっていきました。さらに、その後の料理長を引き継いだ「李絵堂」と「李宏業」の努力で「ラーメン」は日本人になじめる味の工夫も加わり、現代につながる「ラーメン」となっていったのです。
そして「竹家」名は、創業者「大久昌治・タツ」夫妻から、その歴史を重ね、現在は四代目に引き継がれ「竹家ラーメン」として神戸市で生き続けています。
(「竹家ラーメン」神戸市灘区下河原通り三ノ一ノ十)