爆撃をうけなかった


米軍が戦後処理のことまでも考えていたとしか 考えられないのですが 九州飛行機や隣接する九州兵器の工場や敷地など爆撃を 受けませんでした。

そのため 多くの工員、徴用工、動員生徒などが働いていましたが無事でした

働いていた人数は不明ですが 「総員で3万人」とするのと「九州兵器に2万人」「九州飛行機に3万人」の二つがあり 資料等が焼失したのでいまではわかっていません。

米軍が知らなかったのではく B-29から盛んに偵察された写真が公開されています。 蓆田飛行場(現在の福岡空港)や太刀洗飛行場などが壊滅的な爆撃を受けたのと対照的です。 これは 戦後 賠償として接収することを考えにいれたことだと言われています。

昭和20年11月10日の進駐記録
宿営場所部隊人数
香椎 九州飛行機第127歩兵連隊3000
第1409工作隊
香椎 九飛青年学校第1902工作隊
昭和20年12月8日の進駐記録
宿営場所部隊人数
香椎 九州飛行機第1409工作大隊700
香椎 九飛青年学校第127連隊本部第2大隊1000
九州飛行機第58飛行整備隊1500
九州兵器第1777工作大隊600

昭和20年12月 九州飛行機、九州兵器の両社とも賠償指定工場となり進駐軍により兵器製造機械の 破壊を命じられ、他の機械は常時手入れを行い、いつ搬出されても使用可能な状態を維持するよう 保全・管理を命じられました。

朝鮮戦争勃発のためアメリカの対日政策が変更になり 昭和25年に賠償解除になりました。

そのため 旧会社は束縛を解かれて 清算は急速に進展して 昭和29年旧会社は解散しました。

この資料はすべてではなく 確認されただけであることを お断りしておきます



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