北のさいはて日記

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トルエンを作る NO.3

2012.02.06 (Mon) 

 休日の数時間を此処の更新にあてている。仕事や家庭生活に影響が出ないよう、セーブしながら、人様の取り上げない話を捜し書き写している。
 「火藥協會誌」のバックナンバーも某所で閲覧し、お好みの所だけコピーしてきた。今回は石油からのトルエン(トルオール)の分離及びTNTの製造について書き写す。

 優秀爆薬TNTの原料たるトルオールの重要性に就いては今更此処に論ずる必要がない。トルオールは通常石炭乾溜工業の副産物としてコールタール若しくは石炭瓦斯中から比較的廉価に得られる。併し乍ら戦争遂行と云う様な場合になると石炭乾溜工業から得られるトルオールだけでは到底所要数量を満たすことが出来ない。従ってトルオールの値段が多少高くなっても後述する様な各種のトルオール製造方法が工業化せらるる訳である。
 世界的にトルオール含有量の最も多い原油はボルネオ産の石蝋を含まない比重の高いものである。この原油中にはベンゾール、トルオール並びに其の同族体ナフタリン誘導体及其の他の環状炭化水素が含まれている。 
 ボルネオ石油のトルオール溜分は前大戦中英国のみならず仏、和及独国に於いても用いられ、当時英国に輸入せられたボルネオ原油は比重0.78で100℃迄にその20%を溜出し、溜出液中にはベンゾール6% トルオール14% キシロール15%及高級芳香族炭化水素4%を含んでいたそうである。
 イラン及びルーマニアの原油も相当芳香族炭化水素を含むが、米油には1%を超ゆるものは殆どない。
 石油からトルオールを回収する方法は原油を蒸留してトルオール含有分の多いものだけを採り、更にそれを精溜してトルオール含有分を高め、トルオール純度を60%附近、成し得ればこれ以上とし、これを硝硫酸を以て硝化し反応性の強いトルオールだけを低硝化物とし、更にトルオールの低硝化物を分離し、第二次硝化に依ってTNTを化成するのである。(石油からトルオールを回収するに分別蒸溜に依って純トルオールを取得することは困難である。)
   引用 
 「火藥協會誌 第4巻 第2號
  石油よりトルオールの回収と合成 飯田 孝作」 昭和17年

 世界大戦中には原油よりトルエンを分離することは非常に重要な問題であった。当時オーストリア当局では沸点85〜125℃にて4.5%のガソリンを含んだガリシア産排油を処理した。之は大体6%のトルエンを含んでいた。ルーマニア産原油中には一例としてArbanesti産のものをあげれば30〜35%の芳香族炭化水素を有する。之等原油より芳香族化合物を抽出するには−10℃以下の液体SO2を用ふるEdeleann法による。即ち芳香族炭化水素の熱分解により原油中に多量に含まれる其他不飽和炭化水素、少量のナフテン類及び飽和脂肪族化合物は此の液体SO2に溶かされるが大部分の飽和脂肪族化合物と芳香族炭化水素は遊離原子価の作用により抽出効果をあらわす液体SO2とは作用しないのである。
 ガリシアに於ける此の中間抽出物の精製に於いては−20℃の液体SO2と作用させる。未変化の飽和炭化水素は分離されSO2は抽出物及び飽和炭化水素より蒸発させる。ベンゼン、トルエン、ザイレン及び之に少量の飽和脂肪族及びヒドロ芳香族炭化水素即ち所謂B抽出物は18.5%のガソリンを含みその比重は0.810である。
 此の中間抽出物は軽油より種々の芳香族炭化水素を分溜するに用ふる蒸溜塔により精密に分溜される。
 此のトルエン溜出分は平均60%のトルエンと40%の飽和脂肪族炭化水素及びヒドロ芳香族炭化水素を含み、之れは普通の分溜法では分離出来ないのである。故に之れは連続式turlo装置によりモノニトロ化される。此所に於いてトルエンは溜出温度222〜238°のモノニトロトルエンとなる。飽和脂肪族及び飽和ヒドロ芳香族炭化水素は之れにより変化を受けない。かくて生成したものは水で洗われる。ガソリンは100oの圧で80℃で蒸溜される。生じたモノニトロトルエンは更に硝化されて沸点79℃の粗TNTとなる。
   Erust Berl News Edition
      (American Chemical Soc) June 1941.636
 引用 
 「火藥協會誌 第3巻 第2號
  原油より抽出によるトルエン及びT.N.Tの製造」 昭和15年

 第1次世界大戦中にボルネオの原油からトルエンを抽出しTNTを作ったのは知っていたが、オーストリアの原油からも作っていた事には驚いた。ところで、Edeleann法、南方の日本占領下の製油所でも用いられ、「明石報告」に依ればプラジュー製油所の所で次のように書かれている。

 揮発油エデレアヌ装置は、液状亜硫酸の炭化水素に対する選択的溶解性を利用して、芳香族炭化水素に富める特殊の航空揮発油調合油を抽出精製するを目的としている。本装置により、原油よりの原油よりの航空揮発油取得率を著しく高め得るものであって、その一回処理による製品は直溜軽揮発油と調合して、九〇至九一オクタン揮発油の製造が可能である。また二回処理による製品は一〇〇オクタン揮発油調合用となすことが出来る。
 直溜重揮発油(沸点範囲摂氏一〇五度至一七五度)はオクタン価は低いがその成分中芳香族炭化水素のみを抽出すれば高オクタン価航空揮発油調合成分となし得るから、重揮発油よりエデレアヌ装置により、芳香族成分を抽出する。この溜分はベンゼツクス(Benzex)と称し、芳香族炭化水素含有量七五及八〇%、オクタン価は八五及至八八であって、蒸気圧低く重航空揮発油成分に供せられる。オクタン価の如き高級品を製造するためには、この溜分を更に再抽出操作に付しスーパーベンゼツクス(Super Benzex)を抽出する。このものは芳香族炭化水素含有量九三%以上、オクタン価九八以上であって一〇〇オクタン価航空揮発油調合用に用いられる。
 当製油所に於いては戦前九〇オクタン並びに一〇〇オクタン航空揮発油のみを製造しをるたるものであって、その完成揮発油製造のための中間製品の混合割合は中間製品の品質により異なるが、その一例を示せば

Basic F・四〇〇(一〇〇オクタン用)
 軽揮発油    34.7%
 残ブタン     3.4%
 アルキレート  44.9%
 軽ベンゼツクス 17.0%

Basic F・三六〇(九〇オクタン用)
 軽揮発油    64.3%
 イソオクタン  10.0%
 ベンゼツクス  14.6%
 軽ベンゼツクス 11.2%
(当然これらにはエチル鉛が添加されます。)

 エデレアヌ装置、日本占領下、パレンバンの二製油所とバリックパパンの製油所でも運用されている。しかし、日本本土での運用の熱意はなかったようで、実際のところ日本国内には存在しなかった。(なお、昭和12年日華事変勃発後、ボルネオからもシェル社バリックパパン製油所制の航空揮発油(Bennzexと称する芳香族系のもの)を昭和12年10〜12月まで42,000kl購入、加鉛0.1%92オクタンとして使用した記録がある。同一の物なのだろうか。)ところが次の本を読み訳が分からなくなった。

「航空燃料及潤滑油」山口 文之助
   昭和19年9月20日 三版発行 産業図書株式会社

 ベンゾルは100以上のオクタン価をもち、またトルオール、キシロールおよびエチル・ベンゾルもほぼ同程度の高オクタン価をもつため、これらの芳香族炭化水素はガソリンに混合して、それらのアンチノック性を高めるに使用される場合がある。特にベンゾルは従来広くかかる目的に使用されたが、この物質の発熱量が同程度の沸点のパラフィン炭化水素に比べて10%以上小なること、四エチル鉛効果の低いこと、凝固点の高いこと、および更に重大なる欠点として発熱量小なるにかかわらず、ガソリン機関に使用する場合機関の温度を上昇に導く度合の比較的大なること、ならびにその温度の上昇によって自身のオクタン価が著しく低下する性質をもつこと等のため、航空燃料としては次第に嫌厭されてきた傾向にある。

 たしかに米軍の航空燃料の組成を見ても芳香族の添加を見ないし、「ベンゼックス」っていったい何なんだろう考えてしまう。モーターベンゾールは航空燃料には向かないってことなんだろうか?そうすると、ドイツで行われた2工場のハイドロフォーミングは、TNT製造用のトルエンが目的だったのか、それとも航空燃料用だったのか、実に奥が深い。



イタリアの石油 No.1

2012.02.03 (Fri) 

 落ち穂拾いの如く、ドイツ支配下ヨーロッパ諸国の石油資源について「燃料協會誌」より書き写す。本日はイタリア支配下アルバニアである。

 アルバニアに於いて最も重要な油田はDevoil地帯で1940年初頭の報告に依れば、本油田は最新の方法を採用し日産4,500バーレルである。原油はパイプラインに依り、Valona港に送られ、油槽船でアドリア海を通ってBariへ運ばれる。平時に於ては其の産油量は殆ど無視できるが、斯様な状勢の下にアルバニア産原油の重大性が増し、従来其の製油を行ったBari,Leghorn両製油所は水添装置を装備したが、其の報告に依れば、80%のガソリンを得ると云う。従って年産1.9万トン、即ち126,768バーレルのアルバニア原油から425万ガロンのガソリンが得られる。更に東海岸のBari製油所は重合及び水添の2法を結合を採用し、イタリーに於いて最初の航空用ガソリンを生産していると言われている。
(Oil Gas J,39,1940,〔30〕,15)

 上記、2か所の製油所の製油能力は「ルーマニア石油と東部戦線」の「おまけ」を見ていただきたい。



ルーマニアの石油 No.1

2012.01.30 (Mon) 

 ルーマニアの戦時中の製油能力など分かればいいのだけれど(おそらくPBレポートの中にはあるのだろう。それを調べる暇も能力も金も無い。)それを類推する手掛かりとして「燃料協會誌」から戦前の製油能力を書き写す。

 ルーマニアの製油能力 1936年頃(昭和11年頃)

1 会社名  Astra Romana S.A.(Shell)
  製油所所在地  Ploesti
  原油容量(バーレル/日) 40,000
  クラッキング装置 
   容量(バーレル/日) 1,400
   様式        Dubbs

2 会社名 Astra Romana‐Xedia
  製油所所在地 Ploesti−Nord
  原油容量(バーレル/日) 6,000

3 会社名 “Caramen Petrol” S.A. Romana Pentru
Mine si Petrol
  製油所所在地 Targoviste
  原油容量(バーレル/日) 4,500

4 会社名  Colombia Soc .Franco−Rumanine de Petrol
  製油所所在地  Ploesti
  原油容量(バーレル/日) 5,000
  クラッキング装置 
   容量(バーレル/日) 1,600
   様式        Dubbs

5 会社名 “Cometa ” S.A. R. Pentru Industria si
Oomertue Petrolului
  製油所所在地 Ploesti
  原油容量(バーレル/日) 2,000

6 会社名 Concordia Soc.Anonyme Rumaine pour
I’Industrie due Petrole
  製油所所在地 Ploesti−Nord
  原油容量(バーレル/日) 30,000

7 会社名 Creditul Mineiere S.A, Rumaine pour le
Developpment,de I’Industrie Miniere
  製油所所在地 Brazi−Prahova
  原油容量(バーレル/日) 12,000
  クラッキング装置 
   容量(バーレル/日) 3,500
   様式        Dubbs

8 会社名 Creditul Mineiere S.A, Rumaine pour le
Developpment,de I’Industrie Miniere
  製油所所在地 Aurona−Baicoi
  原油容量(バーレル/日) 6,500

9 会社名 Daica Romano Petroleum Synd,Ltd
  製油所所在地 Ploesti
  原油容量(バーレル/日) 6,500

10 会社名 Fratia
   製油所所在地 Ploesti−Sud
   原油容量(バーレル/日) 3,200

12 会社名 I.Grigorescue S.A.
   製油所所在地 Targoviste
   原油容量(バーレル/日) 1,500

13 会社名 Industrille de Petrole Orssova−Tileagd S.A.
   製油所所在地 Orsova
   原油容量(バーレル/日) 1,000

14 会社名 Noris
   製油所所在地 Ploesti−Sud
   原油容量(バーレル/日) 1,350

15 会社名 “Petrol Block ”Societe Anonima Romana
   製油所所在地  Ploesti
   原油容量(バーレル/日) 12,000
   クラッキング装置 
    容量(バーレル/日) 3,450
    様式        Dubbs

15 会社名 “Petrol Block ”Societe Anonima Romana
   製油所所在地  Bucarest
   原油容量(バーレル/日) 2,500

16 会社名 Petrol Latina S.A. Romana
   製油所所在地 Plopeni−Prokova
   原油容量(バーレル/日) 1,000

17 会社名 Petrolmina Soc.Rom.de Mine si Petrol
   製油所所在地 Ploesti
   原油容量(バーレル/日) 3,000

18 会社名 “Petrolul Bucaresti ” S.A.Romana
   製油所所在地  Bucarest
   原油容量(バーレル/日) 7,000
   クラッキング装置 
   容量(バーレル/日) 3,750

19 会社名 “Redeventza” S.A. Comerture Produselor Subslui
   製油所所在地 Ploesti
   原油容量(バーレル/日) 3,500

21 会社名  Romano−Americana S.A.
   製油所所在地  Teleajen
   原油容量(バーレル/日) 20,000
   クラッキング装置 
    容量(バーレル/日) 8,000
    様式        Tube & Tank

22 会社名 “Romano−Belgiana Deptrol” S.A.
   製油所所在地 Ramnicul−Sarat
   原油容量(バーレル/日) 1,000

23 会社名 Spies Petroleum Co.Ltd
   製油所所在地 Ploesti
   原油容量(バーレル/日) 5,000

24 会社名 Steaua Rumana S.A Pour I’Industriedu    Petro’e
   製油所所在地 Campina
   原油容量(バーレル/日) 35,000
   クラッキング装置 
    容量(バーレル/日) 8,000
    様式        Dubbs

25 会社名 Steaua Rumana
   製油所所在地 Moinesti
   原油容量(バーレル/日) 2,000

26 会社名 “Unirea ”Soc.Anonima Roma.Petrole
   製油所所在地  Ploesti (2工場)
   原油容量(バーレル/日) 23,000
   クラッキング装置 
    容量(バーレル/日) 3,500

27 会社名 Rumanian Consolidated Oilfields,Ltd.
   製油所所在地 Targoriste
   原油容量(バーレル/日) 2,000

原油容量総計(バーレル/日)         238,300
クラッキング装置 容量総計(バーレル/日)   45,800

(Oil Gas J,38,1936,[33],136)

 ルーマニアの石油工業 1939年(昭和14年)

 1939年度に於いて全産油量の93.54%、即ち583.7万トンが国内製油工場で処理された。残りは原油として輸出された。

  製品内訳 
   軽質及び中級ガソリン     133万トン
   重質ガソリン          24万トン
   ホワイト−スピリッツ      23万トン
   燈油              74万トン
   ガス油             77万トン
   燃料油            195万トン
   其の他             15万トン
   計              541万トン
   製油工業の損失         28万トン
   損失              15万トン
   総計             584万トン

(Mineralol−Ber,34,1940,272〜3)

 ルーマニアの石油分解工業 1939年(昭和14年)

  原料油内訳 
   燈油      32,215トン
   ガス油     83,555トン
   燃料油  1,278,270トン
   計    1,394,040トン

  製品内訳
   揮発油    387,224トン
   ガス油     95,475トン
   燃料油    755,534トン
   石油コークス  92,998トン
   ガス      39,916トン
   損失      22,898トン

(Ber.Petroleumind,34,1940,[11],85)

   

 戦前の精製能力なので、時期的なものや、地理上の関係(容易にドイツ支配下に成り得る)があるので、最先端の製油技術(接触分解、アルキレーション、重合等)の導入はされていないか、導入されていても限定されていたものだと想像される。その辺が、パレンバンの製油所との違いだと思われる。(バトル・ブリテンでスピットファイヤが用いた100オクタン航空揮発油はアメリカから供給された物と共に、パレンバンからも送られていたのである。)
 石油分解工業とは熱分解の事である。この製法により製造された揮発油は航空揮発油基油としては用いられない。(自動車には使用可能)航空揮発油基油として用いるにはさらに水素添加が必要である。しかし、これから得られるガスから重合(イソオクタン等合成)を行うことが出来る。
 ルーマニアが枢軸国に加わり、ドイツからどのような航空揮発油並びに航空揮発油配合用燃料の製造技術が導入されたのか、非常に興味深い物がある。
(ルーマニアの言葉を知りませんので、ローマ字表記には間違いがあります。)





ハンガリーの石油

2012.01.27 (Fri) 

 三輪宗弘氏の論文にハンガリーの石油は航空燃料を作りやすく、ドイツでもその航空燃料を使っていたと書いてあると、それはどんなもんだったんだろうと興味が湧いてくる。そこで例のごとく「燃料協會誌」のバックナンバーを開き調べて見る。

@ハンガリー石油製品消費量  1939年
 ガソリン  83.2万トン
 燈油    81.7万トン
 ガス油   46.1万トン
 燃料油   52.1万トン
 機械油   16.9万トン
 其の他    3.8万トン
 合計    283.8万トン
  (Kraftstoff,16,1941,251)
  (と書いてあったが量的に多すぎる気がする。産出量とも合わない。単位の記入間違い?)

Aハンガリー東南部Lispe油田よりブタペストに至る油送管の建設工事が計量されている。その容量は1日3,700バーレルであって、Lispe油田の北方11哩のLovaezyで新しい油田に連絡される。此処にはHungary−American石油会社の掘鑿した日産185バーレルの油井がある。同会社Lispeの油田は日産5,950バーレルで約70の有している。
(Oil Gas J,39,1941,〔37〕,27)

Bハンガリーの石油産額は最近の油田の発見と鑿井の増加により、1936年の100万バーレルから昨年(1940)は172.5万バーレルに増加した。現在の産額は年産200万バーレルであり、国内の需要を満たすに十分であり、ドイツはハンガリー産石油の一部の供給を受けることが可能である
ハンガリー石油増産の源泉は以前よりLispe油田として知られている地方で、約40の油井があり、3,960〜4,950ftの深所よりAPI比重41の原油を昨年度に於いて日産5,200バーレル出した。この油田の産額が増加したので、ここより首都ブダペストへパイプラインが建設されることになり、現在全長の2/3が建設されたが、これが完成の暁には1日7,000バーレルの出油能力がある。
ハンガリーの最も新しい油田はLovasziに在り、既に4油井が4,950〜5,380ftの深所よりAPI比重39の原油を日産800〜900バーレル出している。
ブダペストの東北Bukkszekにも60の油井があるが、日産僅かに40バーレルばかりで且つ段々衰えつつある。
(World Petroleum,1941,〔3〕,52)

 「オスプレイ軍用機シリーズ40 ハンガリー空軍のBf109エース」のP46に1944年4月3日に米軍により「ブタペストのチェペル島の石油精製施設」がP50に1944年6月14日「ブダペスト付近の石油精製施設」P59に1944年7月30日「リシュペの油田」が爆撃を受けているのだから、ハンガリーの原油はハンガリー国内で製油され航空燃料にはなっていたようだ。その他に、残念ながら戦時中のハンガリーの石油生産、精製の記録には出会った事がない。
(ハンガリーの言葉を知りませんのでローマ字表記には間違いがあります。)

参考文献
 「燃料協會史」

 「オスプレイ軍用機シリーズ40
    ハンガリー空軍のBf109エース」ジョルジョ・ブンカ
      2003年12月10日発行 株式会社大日本絵画



東部戦線とルーマニア石油

2012.01.18 (Wed) 

 前回の話の続きをしようと思う。残念な事にこれを裏付ける資料にまったく出会った事がないので、全てが憶測でしかないことが悲しい。前回、冒頭に上げた三輪宗弘氏の論文を読むとドイツの人造石油特に航空燃料生産の素晴らしさが際立つ。ところが、それに対してルーマニアの石油に関する点が余りにもぼやけているのが気にかかる。実際の所、ドイツ支配下地域で最大の石油生産をあげていたのはルーマニアであると共に、ドイツ支配下地域の必要量の石油(実は石炭も)はドイツ支配下地域の生産では充足出来なかった事を念頭において欲しい。(ドイツを含めドイツ支配下地域では兵器等を除けば、全ての物が縮小再生産の道を歩むしかなかったはずだ。)必要量には満たないとしても、本来であれば、イタリア、フランスを含めドイツ支配下地域に、ある程度の量のルーマニア石油が供給できれば良いのだけれど、輸送手段、輸送方法が限られているため、イタリアなど地図上ではあんなに近いのに艦船の行動を大きく制約するほどの石油しか入手できないのである。戦前は、ルーマニアの石油生産は年産500万トンを超え、自国消費を除けば輸出量の80%以上がコンスタンツァ港を経由し黒海を通り輸出されていたのである。大戦勃発後、陸路(鉄道)、水路(ダニューブ河=ドナウ河)での輸送は限度があった。ドイツ国内に持ち込まれるルーマニアの石油はそのほとんどがダニューブ河を通り、一部は鉄道も使われていた。その他周辺諸国に輸出される石油の多くが鉄道を利用し、その輸送量は限定されたものだったと想像される。ドイツが東部戦線でソ連と戦っていた事を考えて、地図を眺めて見るとルーマニアと東部戦線の地理上の近さが気にかかる。ルーマニアからハンガリー、ドイツ等経由することなく、ルーマニアからポーランドあるいはソ連領に直接、石油製品を運んだほうが合理的である。(一部はコンスタンツァ港から黒海を北上しソ連領の港に荷揚げされた?)
 航空燃料だけを考えても500万トン以上に石油生産があり、ほぼ全量をルーマニア国内で製油し、戦前、製油所の多くが連合国側の資本により運営され、それなりの製油技術は導入されていただろうから、B4航空燃料などたやすく大量に出来たであろうし、C3航空燃料に必要な配合用のイソオクタンやアルキレートもドイツ国内よりは、これまたたやすく大量に生産できたはずだ。それらが、ルーマニアから直接、東部戦線に運ばれたと考えてしまうのだが、いかがなものであろうか。

参考文献

「燃料協會史 第216号」昭和15年9月号
  欧州交戦国に於ける石油補給の途 
       日本石油株式會社 神原 泰

「燃料協會史 第217号」昭和15年10月号
  石油供給より見た欧州交戦国と中立国との関係 
   帝国燃料株式會社理事 工学博士 大島 善C

       おまけ

「燃料協會史 第211号」昭和15年4月号
       燃料事情  より   

 戦前のヨーロッパの於ける接触分解、水素添加設備

フランス
 会社名 Compagnie des Produits Chimiques et Raffineries                     de Berre
 工場所在地 Berre
 クラッキング装置
  容量 4,500〜6,500バーレル/日
  様式 Houdry

イタリア
 会社名 Raffineira di Napoli S.A.I.(Sosony-Vacuum)
 工場所在地 Naples
 クラッキング装置
  容量 4,000バーレル/日
  様式 Houdry-Dubbus

 会社名 Azienda Nazionale Idrogenazione Combustibili
 工場所在地 Bari
 クラッキング装置
  容量 2,000バーレル/日
  様式 Hydrogenation

 会社名 Azienda Nazionale Idrogenazione Combustibili
 工場所在地 Leghorn
 クラッキング装置
  容量 2,000バーレル/日
  様式 Hydrogenation

 接触分解、水素添加により良質の航空揮発油基油がとれる。良質であれば、加鉛することにより、配合用のイソオクタン、アルキレートを加えることなく、オクタン価90程度の航空揮発油が製造できる。接触分解によって生成するガス(ブチレン、ブタン等)はアルキレート製造に必要ものであり、100オクタン航空揮発油大量製造のポイントは接触分解とアルキレーションにある。(パレンバン第一製油所のアルキレート設備ではイソブタンを原油・天然ガスから抽出しており、接触分解設備はなかった。パレンバン第二製油所には戦前、ブタンをイソブタンにする異性化装置が備わっていた)



「本邦人造石油事業史概要」

2012.01.09 (Mon) 

 昼休みにアイフォンのネット上で見られる戦中の航空燃料がらみの論文に、非常に興味深いものがある。

特定領域研究「日本の技術革新−経験蓄積と知識基盤化−」
    第3回国際シンポジウム研究発表会 論文集
      2007年12月14日・15日
「戦前期の航空機用揮発油の技術開発」
         三輪 宗弘

特定領域研究「日本の技術革新−経験蓄積と知識基盤化−」
    第5回国際シンポジウム研究発表会 論文集
      2009年12月16日・17日
「海軍の技術選択の失敗―航空機用ガソリンと石炭液化」
         三輪 宗弘

「ドイツの石炭液化成功物語と海軍の技術選択の失敗
     ―航空機用ガソリンを巡って―」
         三輪 宗弘

 を読んでみてください。
 石炭の低温乾溜をメインに、それから得られる液化油やタールに水素添加をすれば、航空燃料もたくさん作れただろうという主旨ではないかと受け取った。

「本邦人造石油事業史概要」 −非売品−
 昭和37年11月25日発行 本邦人造石油事業史編纂刊行会

のP227に「人造石油製品の品質」という章がある。

 一部軍需を除いて、国内民需に供給された人造石油製品は、日本人造石油三池、滝川両工場の石油合成製品と、日産液体燃料若松、帝国燃料興業宇部、内幌、内淵、日鉄輪西等の低温乾溜製品であった。其の品質、使用状況は概ね次の通りであったが、何れも精製設備未完備の下で生産されたものであることと更に質より量の戦争下の要請に応えての製品であることから使用上の支障は少なくなかった。(以下石油共販株式会社増田五郎氏の報告を主として使用した。)

1.1 揮発油

(1) 合成揮発油
 無色透明で外観は優良であるが、パラフィン系炭化水素を主体とするため対爆性低く、オクタン価は40以下のものが多かった。普通の運転には支障はないが坂路ではノッキングを起こすので天然揮発油かモーターベンゾールを適当量混合使用するを可とした。

(2) 低乾揮発油
低乾油特有の強い臭気があり、外観は淡黄色及淡褐色で透明ではあるが、時間がたつにつれ、色相が濃くなり、甚だしい時は黒褐色と化し、同時にゴム質を分離沈殿した。これには多量に不飽和炭化水素及び石炭酸等の酸性油を含むからであった。また硫黄分がおおいためにプラーグ及びピストン等に堆積物が附着し、しばしば機関を停止しなければならなかった。硫黄分の多いのは日産、宇部油化、宇部興産で0.5〜1.5%に達した。又未燃焼物が潤滑油をうすめるのでこれを取りかえる必要を生じ、車の手入れ修理に時間を空費することが多い状況であった。

1.2 灯油

(1) 合成灯油
 パラフィン系で硫黄分皆無の上、安定性、発煙状況良好なので理想的な灯油であり天然石油より良質であったが市販されなかった。

(2) 低乾灯油
 不飽和分、芳香族炭化水素が多いため発煙甚だしく灯油としては不向きでもっぱら軽油、重油に混合して石油発動機用燃料として使用した。

1.3 軽油

(1) 合成軽油
 戦時は規格乙1号、2号、3号として戦車の高速度ヂーゼル機関用として、専ら軍需用となり一般に販売されなかったが、高セタン価を有し優秀なものであった。

 (2) 低乾軽油
 規格甲1号、2号として市販されたが、酸性油分多く貯蔵中に重合又は縮合を起す欠点あり、殊に戦争末期には精製用の苛性ソーダの入手不能のため充分な精製が出来ず、次第に機関をいためることが多くなり、焼玉機関の外使用出来ない状態であった。日本油化工業が一時生産した高温タール分溜軽油は、プラグの汚損甚だしく天然軽油と混合して辛うじて使用された。又一時切削油として使用されたが、含有の酸性油が手先を荒し、皮膚に炎症を起すなど保健に問題が生じた。

1.4 重油

(1) 合成重油
 規格1号及び2号は市販されなかった。

(2) 低乾1号重油
 酸性油及び凝固点で種々の障害があった。酸性油含有限度の規格は、25%以下であったが、一般に20%前後のものが多く出荷された。天然発火温度は酸性油の含有量に比例して上昇する性質を有した。天然一号重油と低乾製品とを比較してみると次の通りであった。
 一般にセタン価低く、焼玉及びヂーゼル機関にも不良であった。燃焼性も酸性油5%を超える場合は悪く、焼玉機関の停止することがあるので、始動後直ちに荷重をかけることは困難で、始動にも天然重油の約倍の時間約(10分位)を要した。圧縮比を高め噴射時期を死点前5〜7度位に調節すれば良い結果を得たが、消費量は9500〜9700カロリーで「アフター・バーニング」等のため10〜30%多かった。機関の汚損はタール質を含有するため、天然石油に」比し多かった。タール酸による腐食性は予想より少なく、燃料ポンプのバルブが腐食する程度であった。鉄製バルブは酸性油に腐食されないので沈殿生成物が沈積するが、砲金製のものは腐食されるので、表目には沈積せず絶えず新しい表面を表していた。
 人造石油重油の沈殿生成物は主として遊離炭素とタール酸の重合により生成した樹脂質の沈殿で貯蔵中にも発生した。又天然石油重油と混合した場合、分子量の小さいタール酸は沈殿物を生成せず、分子量増加に従い、重油中に溶解しなくなり沈殿物となった。これを加熱すると凝集及び沈殿を早めた。そのため使用中は機関を停止し、パイプ、ノズル、ピストン類、リング等を天然石油で清浄にして、始動に支障のないようにした。凝固点は15℃以下に規定されているが、石蝋分を多量に含むので冬期及び寒冷地では加熱しないと使用出来なかった。それで機関の始動には灯軽油で行い、重油タンクは廃気管を通して温め流動性となってから重油に切換えて使用した。粘度は低いので蠟分さえ溶解すれば流動性は充分であった。水分は分離悪く一般に多いが燃焼不良となる場合が多いので実用上出来るだけ分離する必要があった。硫黄分、残留炭素は天然石油に比較して少量であった。

(3) 低乾2号重油
 酸性油分は50〜60%で、凝固点は規格になかった。従って常温では蠟分のため固化し、運転使用上種々不便が多かった。天然石油との混合は沈殿等を生じて失敗多く、加熱用に使用される場合にも熱源を要した。

1.6 低乾ピッチ

人石1号重油を製造する時生産されたが、原料のタール中には炭塵を多量に含むので、これより作られた「ピッチコークス」は電極には使用出来なかったが他の用途として天然石油よりのアスファルト、ピッチの逼迫下に代用として大いに使用された。

 ここまで言われれば、低温乾溜から得られた液化油は水素添加しなければ到底使い物にならないことは誰でも分かる。其の当時でも当然理解していた。水素添加に必要とする高圧反応塔は、国内では日本製鋼所室蘭工場と呉工廠でしか生産できなかったし、開戦までは、素材を独逸や米国からも輸入していたのである。その他付帯設備も含め、水素添加を大々的に進めることは、日本の国力、技術力では到底無理なことだったのである。



アテブリン錠

2009.07.18 (Sat) 

 戦中、伊八号潜水艦がドイツから持ち帰った物の中に、
 「アテブリン錠  3,490,000錠」
がある。これは、マラリアの予防・治療薬で、昔日記にも書いたのだが日本でも作られていたが、絶対量が不足していた為、送ってもらった。
 蘭印を占領する事により、キニーネを大量に供給出来る様になったが、キニーネの効かないマラリヤや、予防効果の差によりアテブリン錠も絶対に必要だったのである。
 昔書いた以外にもアテブリンの国内生産について書いた物があったので書き写す。

 医薬品では、マラリア特効薬のアテブリンの新規企業化を行なっている。これは太平洋戦争の勃発により南方での軍事作戦上マラリア特効薬が不可欠となってきたためである。それまでドイツから輸入していたが独ソ開戦により輸入が途絶していたため、陸軍の要請により原料ジエチルアミノエタノールおよびアテブリン年産2トン製造のため設備転用工事に着手、昭和18年からこれを原体とする“アクリナミン錠”の生産を開始した。続いて19年には陸軍から5トン、海軍から2トンの増産要請を受けて原料のジエチルアミノエタノールの増産工事を含めて工事に着手したが、資材不足のため工事半ばで終戦を迎えた。

「三井東圧化学社史」三井東圧化学株式会社
  平成6年3月29日発行
「伊号潜水艦訪欧記」
  2006年3月15日発行 光人社



柳船と燃料噴射ポンプ

2009.07.17 (Fri) 

 ヂーゼル機器株式会社はドイツのロバート・ボッシュ社のヂーゼル用燃料噴射ポンプをライセンス生産するために作られた。東京自動車工業鰍ニ三菱重工業鰍フ合弁の元、昭和14年7月設立された。計画は
 第1期計画/制作権支払い、資材費、土地、建物、付帯設備、国産機器(計41台)および輸入機器(計12台)
 第2期計画/建物、付帯設備、国産機器(計91台)および輸入機器(計57台)
 起工および竣工
  第1期計画 昭和14年7月起工、15年3月竣工
  第2期計画 昭和15年2月機械・設備完了、同年6月作業開始 
 だった。
 工場は埼玉県比企郡松山町に立地され、建物は昭和15年10月にはほぼ完成した。しかし計画は遅れていた。とりわけ影響の大きかったのは、ドイツから輸入を予定した工作機械が届かなかったことであった。この輸入機械は、燃料噴射ポンプの生産には不可欠だったからである。たとえば、ノズルの噴孔をあけるドリルや、ノズル・プランジャをラッピングするラッピングマシン等はどうしても必要なものだった。もちろん、わが国でもこれらの工作機械を全く調達できないわけではなかったが、ロバート・ボッシュ社の製品と同じものをつくるには輸入機械が必要であった。さらには、製品をテストするロバート・ボッシュ社製のテスターも必要であった。
 昭和16年6月22日ドイツ軍がソビエトに進入し、シベリア経由での工作機械の輸入は絶望視されるに至った。ここにおいて同社は輸入工作機械中心の生産を断念し、断固国産機械をもって生産するとの決定を下した。
 そして、国産機械を持って昭和17年1月に燃料噴射ポンプを20台生産、相模造兵廠に納入した。昭和17年になり、ドイツから輸入機械がぼつぼつと入りはじめた。シベリア経由での輸送が断たれた状況では海路に頼むほかなかった。その海路も輸送船では危険が多いため、潜水艦で送ってもらったものである。それでも、輸入機械の数は、17年4月現在で20台余りにすぎなかった。シューラー社製の特殊旋盤、カール・ユング社製の研磨盤などで、そのほかにはロバート・ボッシュ社製のノズル用試験装置も含まれていた。また、18年夏にはドイツから潜水艦でホマーグ精密中刳盤が、その他の研磨盤などとともに到着した。
 なお、当初、ロバート・ボッシュ社の指示は2回にわたって行われ、第1回指示では72台、第2回指示では49台の計121台が輸入工作機械で、これに国産工作機械190台を加えた311台が、ボッシュ社指示による工作機械の購入予定台数であった。
 生産量は
昭和17.5〜17.10
 燃料噴射ポンプ 427
昭和17.11〜18.4
 燃料噴射ポンプ 1,536
昭和18.5〜18.10
 燃料噴射ポンプ 1,951 ノズル 11,315
昭和18.11〜19.4
 燃料噴射ポンプ 2,324 ノズル 6,187
昭和19.5〜19.10
 燃料噴射ポンプ 2,655 ノズル 4,893
昭和19.11〜20.4
 燃料噴射ポンプ 2,491 ノズル 5,742
昭和20.5〜20.10
 燃料噴射ポンプ 1,373 ノズル 4,451

引用文献
「ヂーゼル機器40年史」 ヂーゼル機器株式会社
 昭和56年7月17日発行

 これらの燃料噴射ポンプは車両用の物である。輸送したのは潜水艦とあるが間違いなく「柳船」である。



柳船と人造石油

2009.07.13 (Mon) 

 柳船が実際何を運んでいたのか、特に機械類の実態はほとんど分からない。昔、工業用ミシンを運んでいた資料は見つけたのだが、兵器、素材を除けばドイツ圏内(おそらくスイスなどの中立国も含む)から運ばれた工業設備、精密機械など具体的な記録が無い。

 満州合成燃料は昭和12年8月6日、満州国政府34%、三井鉱山、三井物産、三井合名の3社合計34%、満州炭鉱、満州石油各6%の出資比率で設立された会社である。
 三井鉱山が三池でフィッシャー法人造石油の工場に着手するのをみて、満州国の要請で始まったものである。その事業計画としては、さしあたり人造石油10万klを目標とし、
第1期年産4万klの工場を錦州市で昭和13年5月起工した。主要機械装置は、合成炉を除き大部分を経験の深いドイツに発注した。ところが、昭和14年9月に第2次大戦が勃発し、ハンブルク港が英仏海軍に封鎖されたため、同港から積み出せなくなった。ドイツ側はシベリア経由に切り替えたが、昭和16年6月には独ソ間で戦端が開かれ、このルートも途絶し、約20%の機械類が積み残された。同社ではやむなく、これらを日満のメーカーに切り替え発注し、このため、工場の完成はさらに遠のくかにみえた。ところが数隻のドイツ船が英米の厳重な警戒網を突破して海路を迂回し、昭和17年11月から翌年7月にかけて日本に到着、残りの発注品ほとんどの引渡しを果たした。しかし、資材不足のため工事は大幅に遅れ、一応設備が完成した昭和19年4月にはすでにコバルト触媒が不足し、また、これを三井化学合成工場から輸送することが困難となっていた。さらに原料炭の品質が三池炭と異なることから採用したディディエ式ガス発生炉の運転が順調に進まなかったことも加わって、設備の故障、手直しが相次ぎ、結局終戦まで生産は軌道に乗らなかった。

 引用文献
 「男たちの世紀―三井鉱山の百年」
  平成二年五月発行 三井鉱山株式会社

 「三井東圧化学社史」
  平成6年3月29日発行 三井東圧化学株式会社

 限られたリソースの中で航空燃料生産には不向きなフィッシャー法を採用したことが、日本の人造石油政策失敗の一因だと思われます。また、コバルト触媒不足のため、日本ではほとんど採れないコバルト生産のため、商業レベルでは生産出来ない微量の含有量の鉱石を採掘、製錬することにより一部金属鉱山会社に多大の負担をもかけています。さらにはあまり語られることはないのですが、もうひとつ「Me163」そして「秋水」の誕生が昭和19年から20年の日本の化学工業の生産体制をズタズタにした事はよく知られていません。秋水の燃料、過酸化水素等生産のためどれだけの現用設備が転用され、新規着工したのかそれはそれは恐ろしいものがあります。それでなくても、あらゆる悪条件のなかで生産量を落としていた化学製品の生産をさらに縮小させた使えない「秋水」、日本にとって厄病神以外のなにものでもない存在でした。



愛媛県史

2009.07.12 (Sun) 

 アジア歴史資料センターの

「旅順攻城戦間 第三軍圑隊別死傷統計表」
  (自分で捜してください)
  を見ると

第一師団
戦死   准士官以上   115
     下士官以下  2656
傷者   准士官以上   321
     下士官以下  7384
生死不明 下士官以下   135
合計   准士官以上   436
     下士官以下 10175

第七師団
戦死   准士官以上    84
     下士官以下  1929
傷者   准士官以上   183
     下士官以下  4853
生死不明 下士官以下    94
合計   准士官以上   267
     下士官以下  6876

第九師団
戦死   准士官以上   148
     下士官以下  4498
傷者   准士官以上   379
     下士官以下 12293
合計   准士官以上   527
     下士官以下 16791

第十一師団
戦死   准士官以上   136
     下士官以下  3892
傷者   准士官以上   370
     下士官以下 10435
生死不明 下士官以下     2
合計   准士官以上   506
     下士官以下 14329

後備歩兵第一旅団
戦死   准士官以上    53
     下士官以下  1367
傷者   准士官以上   150
     下士官以下  5056
生死不明 下士官以下   100
合計   准士官以上   203
     下士官以下  6523

後備歩兵第四旅団
戦死   准士官以上    38
     下士官以下   752
傷者   准士官以上    68
     下士官以下  1929
合計   准士官以上   106
     下士官以下  2681

の損害を受けていて、やたら被害者意識の強い北海道民でも何も言えなくなる。
 第九師団と第十一師団はどんな戦いをしていたのかと調べようと、今日も図書館を彷徨っていたところ(今日もなぜか家に放置されていた)こんな本を見つけた。

「愛媛県史 近代上」愛媛県
  昭和六十一年三月三十一日発行

 愛媛県には第十一師団歩兵第二十二連隊が置かれ、日露戦争に出征した。上記の本より旅順攻囲戦中の損害を書き写す。

剣山付近(明治37年7月2日〜)
 戦死傷者   21
大白山付近(明治37年7月20日〜)
 戦死傷者  415
大狐山付近(明治37年8月7日〜)
 戦死傷者  178
旅順第一次攻撃(明治37年8月21日〜)
 戦死傷者 1348
 (残存兵員 将校以下667) 
旅順第二次攻撃(明治37年9月2日〜)
 戦死傷者  539
旅順第三次攻撃(明治37年11月26日〜)
 戦死傷者 1752

 北海道人は字も読めないと思っているのか、道立図書館の県史の所蔵が少ない。(おそらく都府県から寄贈を受ける)どうか、北海道人にも字が読めるので、贈ってください。



航空機用積層合板

2009.07.11 (Sat) 

 戦時中の鉱産資源について書き出せば、石炭も書きたい、鉄鉱石も書きたい、金も書きたいと止まらなくなるので、今回は航空機用の積層合板について書き写す。これは昔書いた木製合板プロペラに繋がる。なお、機体の木製化については接着剤がらみの記述は非常に少ない。

 「宇部興産創業百年史」宇部興産株式会社
   平成10年6月発行

 昭和18年8月には、宇部窒素工場が合成樹脂部を設け、陸軍航空本部の指令を受けてクレゾール樹脂の工業化に乗り出す。これは、タールからクレゾールを有効利用して高性能の接着剤を生産し、木材の積層板を計画していたところに指令が出たもので、筒中セルロイド梶i現・筒中プラスチック工業)と技術提携によって具体化させた。積層板の寸法は厚さ3o、幅1m、長さ2m、用途は練習機「赤とんぼ」材料に使うジュラルミンの補強材であった。昭和20年7月29日操業を始めたばかりのこの工場は爆撃により壊滅する。

 原料のクレゾールは宇部石炭を低温乾留して得られたものである。ところでジュラルミンの補強材ってどうゆう意味だ?



宝の山

2009.07.10 (Fri) 

 質問しても答えがでないので図書館へ行く。
 アジア歴史資料センターの

極秘 明治三十七八海戦史
 第五部 施設
  第二編 海軍艦政本部
   第二章 石炭及ビ燃料

を読むとカーヂフ炭の凄さがよく分かるのだが、練炭の良さがいまいち分からない。図書館で見た

 「全國煉炭工業大鑑」
  昭和11年8月10日発行 日本煉炭新聞社
にも、印度支那と朝鮮の無煙炭については書いてあるが、欧米の無煙炭については何も書いていないので想像のしようがない。

 さて、最近誰も読んではいないようだが、南方の鉱産資源について書いている。大体の企業資料には目を通しているのだが、三井系列の動きがよく分からなかった。三井系列の個々の鉱山史は沢山出版されているのだが、全体像が見えていなかった。

 「三井事業史 本編第三巻 中 下」三井文庫
 1994年3月15日発行(中)2001年3月31日発行(下)

がある事を知り、眺める。ふ、ふ、ふ、宝の山だった。

 戦前より世界有数の鉛、亜鉛鉱山(銅、銀、ニッケル、コバルトも採れる)だったビルマのボードウィン鉱山、日本占領後は三菱鉱業、日本鉱業、三井鉱山の3社で取り合いになったが三井鉱山(一部日本鉱業)が受託した。開発は順調に進んだが制空権も制海権も無かったのでなんら戦力化しえなかった。

1943年4月 発電所復旧、選鉱所運転
  翌々日爆撃操業停止
1943年5月 操業開始、爆撃
1943年7月、9月 選鉱所、機械工場、機関車庫爆撃
     11月 離山
     12月 操業試行
1944年11月 放棄
 1943、4〜1944、11 選鉱処理十数万d 鉛、亜鉛精鉱1万数千トン
との記録がある。一部の鉱石が日本に還送されたという輸送船の記録をどこかで見た様な気がする。



失業者の戯言

2009.07.06 (Mon) 

「日本戦争経済の崩壊」アメリカ合衆国戦略爆撃調査団 正木千冬訳
  日本評論社

 日本の戦時経済を語るにあたってバイブル的存在である上記の書、実はそこに書かれた数字に姫は絶対的信頼を置いていない。戦後書かれた企業社史などを読み重ねると、その数字の違いに気づく。戦後の混乱期に例え絶対的権力を持っていた占領軍といえども正確な数字を拾うのには無理があったのだと思う。
 姫が戦時中の資源問題を考えるときには企業社史と共に、戦時中の資源の解説書に目を通す。ただ、戦時中のそれらの本を鵜呑みにしてしまうと、それらの本には「バラ色の夢」が埋まっており、それを信じでもしたなら、日本が戦争に勝ってしまうのである。

 東印度諸島(旧蘭印)
 東印度諸島には殆んど鉄鉱の分布が行き渡って居り、一般に西部は接触鉱床、東部は残留鉱床である。重要な鉄鉱はスマトラ南部のランポン州の諸鉱山(2000万d)、北ボルネオのスルヴァンジ(2000万d)、セレベスの中央湖水地方(33,000万d)セブリ島3億d、ジャバの南海岸(3500万d)ラウト島附近のセブリ島(17,000万d)それにセレベス中部のマリリ附近(200万d)であるが、品位は一般に低く、総埋蔵量16億dと称されるうちに約8割内外が製鉄技術に困難な残留鉱床の鉄鉱であり、フイリピンスリガオのラテライトと同様な蛇紋岩から導かれたラテライトがある。従来蘭印の主要な鉄鉱は第一次世界大戦後屡英、米、蘭の資本により開発されようとしながら今日まで放置されて来たものである。
 「支那の鐡・石炭と東亜」手塚正夫
 昭和18年2月20日発行 朱雀書林  より

 日本占領下の蘭印からの日本への鉄鉱石移入の数字を見たことがない。現実的には諸般の事情によりその開発する必要性すら認められない。
 さあ、ハローワークに行こう。



大日本帝国とタングステンNo.4

2009.07.04 (Sat) 

 なんとなく日を過ごしているうちに就職先が無い事に気づき愕然としている今日この頃です。妻子にも見放され、今日二人はショッピングに出かけました。さて、昔「大日本帝国とタングステン」などを書き散らしながら、挫折したのですが、今日は野放し状態なので続きを写経いたします。

 認められる事は少ないが、その資源で日本の戦時体制に大きく寄与した旧植民地朝鮮、タングステンは日本本土より多く産出した。その産出鉱山の全容はよく分からないが、重要な鉱山の概要は下記の通りである。

@箕州(きしゅう)鉱山 朝鮮黄海道谷山郡伊寧面
 この鉱山は金、銀、重石を産出したが重石を主体とし、戦前日本支配下では最大のタングステン鉱山だった。昭和9年頃から日本鉱業が採掘を始め、昭和9年上期から20年上期の採掘鉱量は9,556トン、品位WO₃69.1%で最大生産時たる昭和18年には年間1931トンの生産を見た。

A大楡洞(たいゆどう)鉱山 朝鮮平安北道昌城郡東倉面
この鉱山は金、銀、銅、鉛、重石、水鉛、黒鉛を産出したが主体は金、銀だった。昭和
11年より日本鉱業が買収、稼行を始めた。昭和20年6月までの採掘量は品位WO₃62.4%587トンだった。

B雲山(うんざん)鉱山 朝鮮平安北道雲山郡北鎮邑
 この鉱山は金、銀を主体としたものだったが蛍石、黒鉛、硫化鉄まども産出する。昭和14年日本鉱業が買収、稼行を始めた。昭和20年6月までの採掘量は品位WO₃54.5%73トンだった。

C鎮南浦(ちんなんぽ)製錬所 朝鮮平安南道鎮南浦府大頭里
 この製錬所は大正4年5月朝鮮における社有各山の生産鉱石並びに社外買鉱収集鉱石をあわせて精錬するために、作られたものである。なお、昭和10年11月より佐賀関製錬所ではフェロタングステンが生産されていた。鎮南浦では箕州鉱石により昭和19年3月から終戦までフェロタングステンを累計452トン生産した。

引用文献
「日本鉱業株式会社 五十年史」
  昭和32年10月31日発行



ボーキサイト

2009.07.03 (Fri) 

 太平洋戦争中の資源問題(特に鉱物)なんて興味を持つと恐ろしい迷路に入り込む。幸いな事に、身近のミリタリーマニアにはこうゆう趣味を持った方がおらず、実に喜ばしい限りである。(そもそもそうゆう人間をミリタリーマニアとは呼ばないか)
 さて下記の本に触発されて戦中のボーキサイト還送の記録など書き写す。日本でボーキサイトが取れないことはよく知られているが、蘭印ビンタン島以外の数字を書いてある資料にはあまりお目に掛った事がない。

(1)ビンタン
ビンタン島では古河リオ島ボーキサイト鉱業所を開設、昭和17年5月にボーキサイトの手掘を開始、同7月から正式操業を開始した。
 採鉱量は
昭和17年  単位トン
 採鉱量 377,620
 還送量 374,092
 配船数      76
昭和18年
 採鉱量 731,428
 還送量 648,840
 配船数     113
昭和19年
 採鉱量 311,126
 還送量 648,840
 配船数      44
昭和17年5月押収品14,000トンは別に還送

(2)マラッカ(マレー)
戦前、英領マラッカ(マラッカ州マラッカ市を経てジョンホールに通じる街道を海岸沿いに7マイル、ブケ・スプランから北方約5マイル)で石原産業はボーキサイトの存在を確認(鉄鋼石採掘を大々的に行っていた)していたが、英国の介入を恐れ、試掘の申請を断念していた。
占領後開発を始め昭和17年末には第一期計画が完成した。昭和 18年3月積取第一船楽洋丸を迎えた。
 還送量 124,000トン
 積取船       9

(3)パセル(マレー)
 ジョンホール州バトパ市郊外2マイルにあり、戦前より、石原産業の手で採掘がおこなわれ、昭和11年12月より17年7月までの間に166,000トンの鉱石を日本に送った。
 昭和18年より還送開始
 還送量 約40,000トン
 積取船 勝鬨丸(2回)生和丸、福寿丸。阿波丸

(4)南岸(マレー)
 マレー最南端タンジョンプンカイ付近で昭和11年石原産業が発見し、試掘を願い出たが許可されなかった。
 占領後開発、採鉱を行なったが充分活用出来なかった。
 積出は昭和19年7月、冬川丸の3,488トンで終わった。

(5)パラオ島
 南洋アルミニウム鉱業株式会社(三井鉱山と南洋拓殖が設立)が昭和13年から開発した。他にヤップ島、トラック島にもボーキサイトの存在を確認している。戦前、戦中のパラオ島のボーキサイト採掘、還送は実際に行われ、断片的な数字もよく目にするのだが、信憑性のある数字には出会っていない。年産3万トンの計画であった。
昭和13年  単位トン
 還送量   3,365
昭和14年  
 還送量  13,987
昭和15年  
 還送量  22,495
昭和16年  
 還送量  59,297
昭和17年  
 還送量 103,907
昭和18年  
 還送量  84,940
昭和19年  
 還送量   4,488

(6)仏印
 〇中国広西省及び仏印との国境地帯のランソン部落
 〇海防より上流50`余クアナム川とクアカム川とに連結する運河の北方3`余に位置するローソン部落。採鉱業者は中日海運会社
 〇諒山付近、老檛付近。1937年に7,000トンが日本曹達に送られている。
 仏印のボーキサイトは耐火れんがに使用されたとの記述があるが確認は取れていない。

昭和16年  単位トン
 還送量   3,215
昭和17年  
 還送量  15,937
昭和18年  
 還送量   2,450

引用文献
「創業100年史」古河鉱業株式会社
  昭和51年3月31日発行
「創業三十五年を回顧して」石原産業株式会社
  昭和31年10月1日発行
「パラオ共和国―過去と現在そして21世紀へ―」
  平成15年4月30日発行 全国政経連合会
「日本戦争経済の崩壊」アメリカ合衆国戦略爆撃調査団 正木千冬訳
  日本評論社
「南方産業技術総覧」
  昭和19年6月20日発行 山海堂
「佛領印度支那」
  昭和18年10月25日発行 精興社





第一歩、そしてトルエンをつくるNo.2

2009.06.29 (Mon) 

 今、市中で話題の本を妻に買っていただく

『歴史群像シリーズ 太平洋戦争B「南方資源」と蘭印作戦』

最近日露戦役と求職活動にのめり込んでいるので、こんな趣味を忘れていた。内容はアレダ。雑誌に資源問題を書くことに意義があるのであり、これらの検証は、やっと第1歩を踏み出したと理解するべきだろう。考えてみれば、姫も重箱の隅を突くような事をここに書き散らしており、世間様に認知されることも一切なかったわけだが、これからは、少しは皆さんに相手にしていただけるのではと期待する。(細かいことだけど、蘭印の鉄鉱石は、大戦中の日本の資源問題にはなんら関係しません。)
 ところで、上記の本を読み終わったら、第二次世界大戦の航空燃料(米独日)に関する最良の参考書

 「ガソリンの時代」熊崎 照
  2001年8月16日発行 潟Iイル・リポート社

を思い出し、読みなおす。・・・あった・・・
 「トルエンをつくる」で幾ら巨大な製鉄量を誇っていても、アメリカはどうやって必要量のトルエンを入手していたんだろうと悩んでいた答えが。

ハイドロフォーミング
 ハイドロフォーミングの主な反応は、触媒の存在下、脱水素反応による芳香族炭化水素の合成である。通常触媒は酸化モリブテン・アルミナである。トルエンに適した原料は1939年になって初めて発見された。トルエンと航空ガソリンの混合材のためには主として狭いカットの原料(なるべくC・7またはC・7−8の沸点溜分)で運転する必要があった。
 第二次世界大戦前と戦中、8基のハイドロフォーミング装置が硝化級トルエンと航空ガソリン混合材をつくるため建設された。これらの装置の一つは軍のTNTに行くトルエンの半分以上を単独で製造した。トルエンの国内生産は1939年石炭からの9万4,633klであったが、1944年には78万7,355klを生産し、そのうち81%以上の63万9,721klは石油から製造された。(P344.345.346より抜粋)




寄せ集めの第七師団 NO.5

2009.06.28 (Sun) 

「忠魂録」より第七師団傘下並びに関連部隊の日露戦役の曹長以下の死者数を都道府県別で調べてみたのでここに書いておく。(なお「忠魂録」によれば第七師団の日露戦役による死者は将校同相当官147名下士官兵以下4191名合計4338名である。)

第七師団司令部
北海道   1
奏任待遇  1(福岡)
将校    2名
合計    4名

戦死者数  2名
戦病死者数 2名
合計    4名

歩兵第十三旅団司令部
熊本(馬卒)1

戦病死者数 1

第七師団衛生隊
北海道   5
新潟    2
神奈川   2
福島    1
茨城    1
群馬    1
長野    1
合計   15名
将校    1名
総合計  16名

戦死者数   4名
戦傷死者数  1名
戦病死者数 11名
合計    16名

第七師団第一野戦病院
北海道   4

戦傷死者数  1名
戦病死者数  3名
合計     4名

第七師団第二野戦病院
北海道   4
福島    1
新潟    1
長野    1
神奈川   1
合計    8

戦死者数   4名
戦病死者数  4名
合計     8名

第七師団第三野戦病院
北海道    2
秋田     1
岩手     1

戦病死者数  4名
合計     4名

第七師団第四野戦病院
北海道    3

戦病死者数  3名
合計     3名

第七師団野戦電信隊
北海道    3
東京     2

戦病死者数  5名
合計     5名

第七師団第四兵站司令部
北海道    1

戦病死者数  1名
合計     1名

第七師団野戦兵器廠
北海道    1

変死者数   1名
合計     1名

第七師団第一輜重監視隊
北海道    1

戦病死者数  1名
合計     1名

第七師団第二輜重監視隊
北海道    1

戦病死者数  1名
合計     1名

第七師団衛生予備員
北海道    2
新潟     1
福岡     1

戦病死者数  4名
合計     4名

第七師団衛生予備廠
新潟     1

戦病死者数  1名
合計     1名

後備歩兵第二十五連隊第一大隊
北海道   17
新潟     1
群馬     1
埼玉     1
福岡     1
合計    21名

戦死者数   7名
戦傷死者数  4名
戦病死者数  9名
変死者数   1名
合計    21名

後備歩兵第二十五連隊第二大隊
北海道    6
群馬     3
茨城     1
千葉     1
東京     1
神奈川    1
合計    13名

戦傷死者数  1名
戦病死者数 12名
合計    13名

後備歩兵第二十五連隊第三大隊
北海道   12
将校     1名
総合計   13名

戦死者数   1名
戦病死者数 12名
合計    13名

後備歩兵第二十八連隊第一大隊
北海道   18
長野     7
千葉     7
栃木     6
茨城     2
神奈川    2
山梨     2
山形     1
福島     1
埼玉     1
合計    47名

戦病死者数 47名
合計    47名

第二十五連隊補充隊
北海道    2
長野     2
宮城     2
栃木     1
群馬     1
山梨     1
合計     9名
将校     1名
総合計   10名

戦病死者数  9名
事故死者数  1名
合計    10名

第二十六連隊補充隊
北海道    3
千葉     2
埼玉     1
東京     1
合計     7名

戦病死者数  7名

第二十七連隊補充隊
埼玉     2
北海道    1
宮城     1
栃木     1
千葉     1
合計     6名

戦病死者数  6名

第二十八連隊補充隊
北海道    2
東京     2
栃木     2
茨城     2
合計     8名

戦病死者数  8名

騎兵第七連隊補充隊
長野     1

戦病死者数  1名

工兵第七大隊補充隊
山形     1
栃木     1
合計     2名

戦病死者数  2名

輜重兵第七大隊補充隊
北海道    2
新潟     1
合計     3名

戦病死者数  3名

清国山海關駐屯歩兵隊
岩手     1

戦病死者数  1名

第十五師団馬廠
北海道    1

戦病死者数  1名




歩兵第十五聯隊 No.2

2009.06.26 (Fri) 

 去年、軽井沢に出稼ぎに行った時、小諸の古本屋で買い求めた本を思い出し、開いてみる。

 「日露戦役 御旗之光 第一師団管健兒部隊實戰記」
  明治40年9月2日発行 大日本奉公會編輯部

 これに歩兵第十五連隊の記述もあったので旅順攻囲戦までの損害を書き写す。

金州南山(5月26日・27日)
 戦死   将校       1
      下士卒     37
 戦傷   将校       4
      下士卒    250
 戦死傷合計       292

双臺溝(5月28日) 
 戦死   下士卒      1
 戦傷   将校       3
      下士卒     44
 戦死傷合計        48

高崎山(8月13日・14日・15日)
 戦死   将校       5
      下士卒    177
 戦傷   将校・准士官  16
      下士卒    375
 戦死傷合計       561?(563)

第二回総攻撃 二〇三高地
 戦死   将校      15
      下士卒    114
 戦傷   将校      23
      下士卒    628
 行方不明 将校       1
      下士卒    124
(戦死傷行方不明合計)  885
(残存戦闘可能兵員 将校5下士卒86)

第三回総攻撃 白襷隊・二〇三高地・赤坂山
 戦死   将校       4
      下士卒     65
 戦傷   将校      17
      下士卒    335
 行方不明 下士卒    132
 戦死傷行方不明合計   553

歩兵第一連隊の記述に脚気に関する興味深い記述があったので書き写す。
これは旅順攻撃前の待機期間中の事である。

 7月30日泥河子占領後、我が連隊は各部署を定め防御工事を施し敵と対峙すること約半ヵ月、此地方飲料水は不足なかりしが燃料少き為生木を伐採し、或は民家を買収するの困難に遭遇し、又脚気下痢症患者の発生せる事夥しく、日々新患者各大隊に二十名内外旧患者五六十名を生じ、敵以外に大恐惶を来せり 

 第三軍が炊爨の為の燃料に不足していたことは、当時の写真を見れば想像がつく。それにより、やっと配給された生の肉、魚、野菜の調理を妨げ、さらに栄養を偏らせたのである。第三軍傘下の緒部隊が同じ状況に置かれているのであるから、その問題の大きさと共に書かざるを得なかった気持ちが理解できる。なお、自分が所有している本が第六版であり、当時としても多くの読者に脚気惨害の状況が日露戦争終了直後にも知らされていたのである。



    



歩兵第十五聯隊

2009.06.22 (Mon) 

 日露戦役に興味(特に陸軍)を持ち始め、あ〜あ、自分も落ちるとこまで落ちていくのかという気持ちが強くなっている。ただ、今だその興味も旅順攻囲戦までで、実にコンパクトなものである。日露戦役で最も悪戦を重ねたと思われる、第一師団、第七師団と対比する為にも、歩兵第十五連隊の旅順攻囲戦終了後までの戦場別戦死傷者を書き写す。

金州南山
 戦死  43
 戦傷 210
 計  253

旅順前進陣地
 戦死   3
 戦傷  69
 計   72

高崎山
 戦死 155
 戦傷 388
 計  543

第一回総攻撃 寺児溝西北帯(一〇八高地)
 戦死  15
 戦傷  33
 計   48

第二回総攻撃 二〇三高地
 戦死傷 747

第二回総攻撃 松樹山堡塁
 戦死傷  12

第三回総攻撃
 戦死  268
 戦傷  404

 以後も降伏まで日時があるので戦死傷者もまだいるのではないかと思う。また、戦病についてはなにも記載がない。


日露戦役における出征以来における連隊の戦傷病死者は
 戦死  将校    40
     下士卒 1043
     計   1083

 戦病死 将校     1
     下士卒  134
     計    135

     総合計 1218

 「歩兵第十五聯隊史」
  昭和60年8月31日発行




振り上げた拳

2009.06.17 (Wed) 

 今日の読売新聞の中に次のような記述があった。

 精米によるビタミンB₁不足が最大の原因ですが、原因究明の過程における陸海軍の脚気論争は有名です。
 海軍は高木兼寛軍医総監が「食事の欠陥で起こる」とし、食事の改善で早期の制圧に成功しました。陸軍はこれを俗説として排除。時の陸軍軍医総監の森鷗外は「すべての病気は細菌によって起こる」とのドイツの見方をよりどころに東大医学部と一緒になって、細菌説に固執しました。
  12面 「時代の証言者 医の心 井形 昭弘」

 この内容には明らかな間違いがある。陸軍の脚気対策の失敗の元凶は森鷗外の2代前の軍医総監石黒忠悳であり、森鷗外(以後森林太郎とする)が軍医総監となったのは、日露戦役後の事であり、その時には「食事の欠陥で起こる」という事が認知されていたのである。(ただし、森林太郎はその事を公式には一切認めなかったが)陸軍の脚気対策の失敗についてことさら森林太郎に言及する事が多いが、本来は軍医総監石黒忠悳個人と東大医学部を綿密に調べる必要があるのだと思う。ただ、森林太郎の間接的にせよ受動的にせよ大きな責任があった事を否定する事は出来ない。



寄せ集めの第七師団 NO.4

2009.06.14 (Sun) 

 「忠魂録」より第七師団第二十七連隊の日露戦役の曹長以下の死者数を都道府県別で調べてみたのでここに書いておく。(なお「忠魂録」によれば第七師団の日露戦役による死者は将校同相当官147名下士官兵以下4191名合計4338名である。)

第二十七連隊
北海道 224
新潟  105
埼玉  104
神奈川 100
山梨   71
群馬   69
宮城   60
東京   57
千葉   49
福島   33
山形   19
長野   16
茨城    7
栃木    3
青森    1
岩手    1
静岡    1
三重    1
大阪    1
岡山    1
広島    1
合計  924名
将校   35名
特務曹長  7名
総合計 966名

戦死者数  806名
戦傷死者数 119名
戦病死者数  38名
変死      1名
不明      2名
合計    966名


寄せ集めの第七師団 NO.3

2009.06.13 (Sat) 

 「忠魂録」より第七師団第二十六連隊の日露戦役の曹長以下の死者数を都道府県別で調べてみたのでここに書いておく。(なお「忠魂録」によれば第七師団の日露戦役による死者は将校同相当官147名下士官兵以下4191名合計4338名である。)

第二十六連隊
北海道 288
千葉  171
東京  120
群馬  117
埼玉  104
長野   65
新潟   50
茨城   48
神奈川  25
山梨   19
栃木   12
福島   10
青森    7
宮城    3
岩手    2
山口    2
秋田    1
石川    1
兵庫    1
不明    1
合計 1047名
将校   34名
特務曹長  6名
総合計1087名

戦死者数  930名
戦傷死者数 114名
戦病死者数  43名
合計   1087名




近衛師団と脚気

2009.06.12 (Fri) 

 妻子から生きる上でどれほど無駄な趣味かと、痛罵される地獄のような日々を過ごしながらも、ちゃっかりハローワークの帰りに図書館に立ち寄ったりする。

 「近衛歩兵第一聯隊歴史」
  昭和六十一年十二月十日発行
そしてこんな本がしっかり書棚にあったりする。その中に「近衛歩兵第一聯隊歴史」という、連隊副官のもとで歴代の連隊旗手が連隊長の校閲を経て毛筆で書き綴ったものが復刻されていたものがあった。その中に日清戦争以前の脚気に関する記述があるのでここに書き写す。

一 十七年八月八日近衛諸隊ノ脚気患者ヲ合シ集成中隊ヲ編成シ転地療養ヲ兼ネ野営演習トシテ習志野原ヘ出張セシメラレ爾後快癒ノ者ハ漸次新患者ト交代セシム
一 十八年七月二十日ヨリ九月七日迄近衛諸隊ノ脚気患者ヲ合シ集成中隊ヲ編成シ転地療養ヲ兼ネ野営演習トシテ習志野原ヘ出張セシメラレ爾後快癒ノ者ハ漸次新患者ト交代セシム
一 十八年十一月ヨリ一ヶ年間脚気病予防トシテ兵食ヲ麦飯米七分麦三分ニ改ム
一 十九年五月二十九日当隊患者ノ状況等視察ノ為メ思召ヲ以テ侍従歩兵少佐岡田善長侍従試補騎兵中尉廣幡忠朝ヲ差遣ハサル
一 二十一年三月一日ヨリ脚気病予防ノ為メ兵食ヲ改メテ朝食並昼食ヲ麦飯米七分麦三分夕食ヲ麺包六十匁トス
一 二十一年十月二日ヨリ兵食ヲ改テ米食ニ復ス
一 二十二年四月一日ヨリ脚気病予防ノ為メ兵食ヲ麦飯米七分麦三分ニ改ム

明治  八年  患者2587 内脚気388
        死亡  28 内脚気 21  
明治  九年  患者 941 内脚気153
        死亡  10 内脚気  5  脚気除役  12
明治 十一年  患者2676 内脚気363
        死亡  24 内脚気 11    
明治 十二年  患者2496 内脚気256
        死亡  12 内脚気  3  脚気除役   8 
明治 十三年  患者2177 内脚気167
        死亡  11 内脚気  3
明治 十四年  患者2501 内脚気209
        死亡  13 内脚気  6
明治 十五年  患者2748 内脚気656
        死亡  45 内脚気 22  脚気除役   4 
明治 十六年  患者2410 内脚気816
        死亡  41 内脚気 33  脚気除役  12
明治 十七年  患者2214 内脚気751
        死亡  33 内脚気 25  脚気除役  15
明治 十八年  患者2052 内脚気345
        死亡  20 内脚気  9  脚気除役  22
明治 十九年  患者1194 内脚気  9
        死亡   9 内脚気  0  脚気除役   7
明治 二十年  患者1301 内脚気  3
        死亡   2 内脚気  0
明治二十一年  患者1301 内脚気  3
        死亡   0 内脚気  0
明治二十二年  患者1599 内脚気  1
        死亡   5 内脚気  0
明治二十三年  患者2138 内脚気  3
        死亡   4 内脚気  0
 以後脚気の記述が無くなる。

これは、日本の脚気の歴史研究の第一人者である山下政三氏の著作
「明治期における脚気の歴史」「鷗外森林太郎と脚気紛争」
にも引用されていないもので、麺包(パン)を試用した事などこれにより初めて知ったほどである。「鷗外森林太郎と脚気紛争」において陸軍の脚気対策の全容を掴んでいるかのような記述が見られるが、実際に部隊でどのような脚気対策を用い、それに対し部隊ではどのような感触を持っていたのか、それを垣間見る資料に著者は十分当たっているとは思えない。
日清戦役前、日清戦役中、日清戦役と日露戦役間、日露戦役中の部隊における脚気対策は、師団歴史や聯隊歴史等の陸軍の一次資料(防研の一次資料も)、さらには全国に散見される将兵の日記等(おそらく膨大な数があると思う)を精査しなければ、具体的な動きや考え方が浮かび上がってはこないのではなかろうか。これらを積み上げた後初めて、陸軍の脚気対策の失敗の全容も見えてくるのだと思う。



選り抜きの近衛師団

2009.06.11 (Thr) 

 偶々、図書館に行ったら下記の本が並んでいた。
「近衛歩兵第三聯隊史」近歩三史刊行委員会
  昭和63年3月23日発行
 何気なく開くと、日露戦争中の記述と共に、戦没者名簿が載っていた。この名簿には戦死者の名前と共に、階級、戦死場所、戦死日、本籍が記入されている。第七師団と違い、全国から選抜編成されたという近衛師団、どういう出身地構成を持っていたのか興味を生じ調べてみた。ただし、残念な事に死因が書かれていないので第七師団と完全に対比する事ができなかった。なお「日露戦争と群馬県民」(前澤哲也著)によれば、近衛師団第三連隊の群馬県出身戦死者は11名とあるので、この資料が完全であるとは、おそらく言えない。戦場での死がそこに存在する兵に平等に降りかかる事からも、近衛師団第三連隊を構成する将兵の出身地と戦死者の出身地も比例すると思いこれを調べる。
近衛師団第三連隊の日露戦役の曹長以下の死者における都道府県別出身構成は以下のとうりである。

栃木  251
長野  170
茨城   78
滋賀   33
愛知   17
島根   16
東京   11
新潟   10
静岡   10
埼玉    9
岐阜    8
兵庫    8
秋田    6
福岡    4
大阪    3
三重    3
岡山    3
宮崎    3
千葉    2
広島    2
佐賀    2
北海道   1
福島    1
群馬    1
山梨    1
石川     1
福井    1
京都    1
愛媛    1
熊本    1
合計  658名

将校   22名
特務曹長 10名
総合計 690名




未完 本邦航空潤滑油資料

2009.05.30 (Sat) 

 これは、かつて巣鴨プリンスに書き写したものである。いつしかそれも虚空の彼方に消えていったのであるが、今回、昨年の十一月京大の前の古本屋で入手した本の一文を付け加えて掲載したしだいである。これにより戦時中の航空潤滑油生産の大きな流れが掴まえられるのではなかろうか。

  花王石鹸70年史 昭和35年11月9日発行 より
  出典は工業化学会編「最近一〇年における本邦化学工業の概観(続)」

      戦時中の潤滑油合成状況
(実施機関名)航空研究所
(方法概要)重合脂肪酸接触分解法
(品質)航空潤滑油規格甲合格
(実施状況概要)製品約50t製造、日本油脂尼ヶ崎工場へ移転

(実施機関名)日本油脂
(方法概要)重合脂肪酸接触分解法
(品質)航空潤滑油規格甲合格
(実施状況概要)尼ヶ崎工場完成、少量の製品を出した程度

(実施機関名)ミヨシ化学・日本発動機油
(方法概要)ヒマシ油イソブチルエステル
(品質)耐寒航空潤滑油
(実施状況概要)昭和16年、200t、漸次増加 昭和19年、1,000t生産

(実施機関名)ミヨシ化学
(方法概要)抹香アルコールナフタリン縮合法
(品質)航空潤滑油規格甲合格
(実施状況概要)江戸川工場完成、約500t製造

(実施機関名)ミヨシ化学
(方法概要)炭酸カリによる脂肪酸接触分解重合法
(品質)航空潤滑油規格甲合格
(実施状況概要)江戸川工場完成、約150t製造 岩国工場建設完了

(実施機関名)大日本油脂
(方法概要)飽和脂肪酸水添脱水−接触重合法
(品質)航空潤滑油規格甲合格
(実施状況概要)東京工場完成、約200t製造、和歌山工場完成、試運転完了、陸燃鉄西工場建設中

(実施機関名)三洋油脂
(方法概要)塩素化脂肪酸脱水素重合法
(品質)
(実施状況概要)パイロットプラントにて中止

(実施機関名)三洋油脂
(方法概要)石鹸熱分解重合法
(品質)航空潤滑油規格乙合格
(実施状況概要)愛知工場建設中

(実施機関名)陸軍燃料廠・豊年製油
(方法概要)重合大豆油接触水添法
(品質)航空潤滑油規格甲合格
(実施状況概要)豊年坂出工場完成、陸燃岩国工場試運転中、空襲被害甚大にて中止

(実施機関名)三菱化成(ライオン油脂)
(方法概要)合成高級飽和アルコール、ナフタリン接触縮合法
(品質)航空潤滑油規格甲合格
(実施状況概要)ライオン油脂平井工場、三菱化成黒崎工場建設中

(実施機関名)帝国潤滑油
(方法概要)ヒマシ油電気重合法
(品質)耐寒航潤増粘油、過熱気筒油
(実施状況概要)工場建設完成試運転中

(実施機関名)陸軍燃料廠
(方法概要)ヒマシ油電気重合法
(品質)耐寒航潤増粘油、過熱気筒油
(実施状況概要)パイロットプラントにて成功

(実施機関名)海軍燃料廠
(方法概要)脂肪酸カルシウム塩熱分解重合法
(品質)航空潤滑油規格甲合格
(実施状況概要)台湾高雄第五海軍燃料廠にて建設中

(実施機関名)油化学工業
(方法概要)スクアレン接触重合法
(品質)航潤乙合格 精密機械油
(実施状況概要)原料不足のため羽田工場建設中止

(実施機関名)第一海軍燃料廠
(方法概要)ラウリルアルコール接触脱水重合法
(品質)耐寒精密機械油
(実施状況概要)年産約1,000g、第一工業製薬および大日本油脂も実施準備中

(実施機関名)日本発動機油
(方法概要)ヒマシ油イソブチルエステル+ブタノール
(品質)耐寒精密機械油
(実施状況概要)年産約1,000g

(実施機関名)小林化学
(方法概要)不飽和脂肪酸ケトン化、接触脱カーボニル
(品質)戦車モビル油
(実施状況概要)パイロットプラント成功、工場建設中

「陸軍燃料廠史」の中に
「合成潤滑油に関する研究の一齣 中森一義」技術編・満州編P111
 という一文がある。著者は陸軍燃料廠研究本部(後に陸軍燃料技術研究所)の第二課(基礎研究)の潤滑油班において合成潤滑油の製法の総括を行った期間があった。そしてそこに大筋の説明を書いている。これを全部書き写してもいいのだが、実は内容がサッパリ理解出来ないのである。

 合成潤滑油の製法は大きくわけるとモノマーを作り、重合する方法と、先に重合してそれを接触的に分解する方法があった。ここではオレフィンの製造、その重合法、重合油の分解法と合成潤滑油の安定剤の順で述べる。
1、 オレフィンの製造
 重合原料としてのオレフィンまたはアルコールの製造を大別すると、資源的に見て油脂とその他の炭化水素類となる、油脂は主として魚油、鯨油と蝋および植物油としての大豆、ナタネ、ヤシ、米油それにパーム油が追加された。油脂からオレフィンをとる方法は水素化法、分解法と分別法に区別される。
 水素化法によるオレフィンは高級アルコール合成がすでに行われていて、ライオン油脂、三菱化成、日本油脂が知られていた。油脂またはそのエステルをCu系の触媒で高圧水素分解してそれぞれ原料に応じたC数をもったC10−C20の高級アルコールとする。このアルコールは第一アルコールで、C数からいって潤滑油の長鎖性を付加する材料として好適であり、脱水してオレフィンとするかそのまま脱水縮合の材料とすることができる。脱水反応にはアルミナが使われる。
 水素化と脱水をエステルから一段で行う方法は花王石鹸で開発され、すでにパイロットの段階をすませ工業化が進行中であった。
 油脂の誘導隊を非水素化で分解すると、二重結合をもったたままカルボキシル基のところから脱CO2、脱H2Oを伴って分解して、二重結合のいくらか多いオレフィンをとることができる。ミヨシ化学では工業スケールでヤシ油脂脂肪酸を分解していた。
 油脂の不鹸化物を原料とするアルコールは貴重な重合原料であった。抹香蝋の鹸化蒸留で得られるオレイルアルコールを主とした成分はアルコール基と二重結合の位置がはなれており、環とくにナフタレン環との縮合アルキル化で高級な潤滑油にする効果的なプロセスがあり、ミヨシ化学で工業化された。サメ油中の不鹸化物にはスクワレンがある。これを分溜して還元したスクワランはC30程度の炭化水素で、これを重合する高級潤滑油の製法は工業化の企画が完了していた。
 油脂以外の原料で重合原料になったのはオレフィンでパラフィン熱分解、フィッシャー法合成石油と頁岩油があり、塩素化パラフィンがこれに加わる。生ゴム分解は3、の重合油の水素化分解と類似した工程になる。
2、 オレフィンの重縮合
 オレフィンの重合は大きくわけてルイス酸と固体酸重合にわけられる。ルイス酸として塩化アルミ主である。
 ルイス酸重合に対して固体酸重合についてもかなりの成果を上げた。固体酸といっても当時手に入るものは酸性または活性白土で、石油の灯軽油の固定床接触分解で突込んだ研究がなされていた。白土によって高級アルコールを環と脱水縮合して品質のよい潤滑油が得られることは実用化の段階になっていた。
3、 重合油の分解
 オレフィンにして精製し重合する方式と逆の方法として、不飽和物を重合してそれを分解精製する方法はかなりはやい時点で工業化の段階に入っていた。それは航研法といわれていた。鯨油からの不飽和脂肪酸を分別してそれを熱重合し、その重合物を反覆して活性白土で分解精製する方法である。潤滑油はほぼ満足なものが得られたが、設備器材の脂肪酸腐食が大きな欠点であった。
 大豆油中のジエンとトリエンは熱重合によって共役化し、モノエンを含めてディールアルダー反応で重合し、その重合油はひまし油と配合されて耐寒潤滑油として利用されていた。豊年製油では重合にさいし。活性白土またはSO2を使用して接触重合し、それをNi触媒で2段階の水素化を行うことで工業化に入っていた。陸燃では無触媒重合して、水素化分解にNi−Cu−白土の二元系を使う方式を完成し、これも工業化に入って岩国で運転中に終戦をむかえた。
4、 潤滑油の安定剤
 合成潤滑油、殊に水素化を経て合成されたものは天然系の潤滑油にくらべ外見上はむしろ清澄で遊色はなっかたが、酸化安定性に難があった。ことに酸化後の粘度上昇が大きかった。天然系の潤滑油の抽出成分は有効な防止剤として働くし、また油田の差はあるが、当時入手出来る原油とかタール系のものもその重質成分に安定剤の効果を示すものが多くあることが略わかっていた。また、種々の試みの結果チアゾール化合物に大豆リポイドを加えることで一応の成果を得たが、実用試験に入ったかどうか不明である。
    (以上抜粋)

@ 「日本海軍燃料史」より

 航空潤滑油には溶剤精製法と合成法の2種類の製造法がある
(1) 溶剤精製法
 昭和10年頃より米国において急速に発達せるものにして、パラフィン基又は混合基の天然石油を原料とし、之よりパラフィン系炭化水素より優良潤滑油を溶剤を用いて物理的に抽出分離するものである。
(2) 合成法
 溶剤精製法は天然石油の保有する天与の性状及収量以上を期待し得ず。我国の如き航空鉱油を取得し得る天然資源の乏しき国土においては恵質のものを改良し、又収量を多くするため、合成法に依らなければならない。元来合成法は天然資源に乏しい独逸にて、フィッシャー法に依る合成潤滑油を製造せしより始まり、各国にても夫々種々試みられて来た。

1、 徳山工場溶剤抽出法(第三海軍燃料廠)
 第1抽出工場 試運転終了 昭和15年10月
 液体プロパンを用い脱瀝青(アスファルト分を除く事)及脱蝋し液体プロパン及石炭酸クレゾールを用い抽出の上真空蒸留、白土処理を行うもの
 第2抽出工場 試運転終了 昭和17年6月
 第1抽出工場と同力量、同形式であるが、脱蝋方式をプロパン脱蝋に代わりバリゾール式脱蝋方式を採用し、作業工程は脱瀝青、抽出脱蝋の順序とす。
 真空精製装置 試運転終了 昭和15年3月
 (他に廃航空鉱油、廃混合航空鉱油及廃カストル油処理装置の作業系統もある)

 運転成績
(1) 国内始めての120番航空鉱油の生産に成功した。
(2) 昭和16年春頃より製品の出荷を開始し、緒戦の要望に応えた。
(3) 終戦迄の製品総生産量は約10,000竏に達し、大東亜戦争における海軍鉱油の推定消費量の凡そ60%を賄った。
(4) 本装置で生産の航空鉱油には添加剤を使用しなかった。

2、 四日市工場溶剤抽出法(第二海軍燃料廠)
 第1装置(グーブロ式真空蒸留装置)
 第2装置(脱瀝青、抽出)徳山工場参照
 第3装置(脱蝋)
 第4装置(白土精製)

 運転成績
(1)昭和18年10月完成した。
(3) 年原油80,000竏処理し、2,000竏の航空潤滑油を生産(実数は不明)。
(4) 廃航空潤滑油も再生。

3、 四日市工場合成潤滑油製造(第二海軍燃料廠)
 本法は精汗蝋又は粗蝋を気相熱分解してモノオレフィンを作り、これを塩化アルミニウム触媒の存在下において接触重合することにより航空潤滑油を合成するもので、バリックパパン第百二燃料廠の装置に改良を加え設計し、昭和18年5月起工、19年4月完成した。 
 年粗蝋20,000竏処理し、航空潤滑油4,000竏を生産(実数は不明)。

4、 新高施設合成潤滑油製造(第六海軍燃料廠)
 南方より還送されるコプラの搾油をソーダ石鹸とし、之を分解して不飽和炭化水素化し、重合生成する。年産10,000竏を予定したが原料コプラの還送至難となり、1,000竏に縮小。
さらに原料コプラの還送が期待できなくなったので、重合装置の一部を利用して廃潤滑油の再生装置に利用した。

5、 高雄施設合成潤滑油製造(第六海軍燃料廠)
 蝋を分解して不飽和炭化水素化し之を重合精製して航空潤滑油を生産するものであったが、この装置を一部流用し、昭和19年7月に製品日産5竏の廃鉱油再生装置の建設に着手し、これを1ヶ月で完成した。これまで廃航空鉱油はすべて内地に送り、再生していたが、台湾島内の廃航空鉱油は全部再生処理出来るようになった。

6、 バリックパパン製油所(第百二燃料廠)
 航空潤滑油合成装置
 粗蝋より年5,000トンの優良潤滑油を合成する装置があったが、粘度指数が優れ航空潤滑油に匹敵するので、タラカン原油(ヤパノール)より製造したブライトストックを5%混合し、安定度を改善し、航空潤滑油として南方地区に供給した。
       生産量    (単位1,000竏)
昭和17年    2
昭和18年   6
昭和19年   2.5 

 潤滑油添加剤
 航空発動機の馬力の増大に伴い潤滑油は次第に高温高圧を受ける様になり、これらの苛酷条件の下に粘度、粘度指数、安定度、炭化分、凝固点等の各性質に対する要求を一種類の油を以て同時に充たすことは困難であるから単に要求する性質を向上する添加剤が必要となった。昭和15年より航空潤滑油の酸化防止剤と油性向上剤の研究が行われ、酸化防止剤としてはトリクレジルホスファイトとトリクレジルホスフェートの混合物は天然鉱油に対し実用された。
 



A「ミヨシ油脂株式会社史」
  昭和41年4月発行  より

 ミヨシ石鹸工業末期には、耐寒潤滑油、航空潤滑油の製造を、海軍だけでなく陸軍からも発注されるようになる。ミヨシで生産したのは動植物性潤滑油だが、原料はおもにヒマシ油抹香鯨油であった。ヒマシ油による潤滑油は、ヒマシ油脂肪酸をメチルアルコールでエステル化し重合したのち、大豆油を配合して粘度を調整したものである。また抹香アルコールによる潤滑油は、アルコールを脱水してオレフィンとし白土重合分解したものである。
 昭和一七年頃には、さらにヤシ油、パーム油を原料とする潤滑油の生産が始まる。後に述べるが、この潤滑油はまず油をウムエステルし、蒸留分別して高級アルコールとし、これをオレフィンにして白土重合分解したものである。当時(一七年頃)ミヨシでは川村修二が塩化アルミを触媒とするオレフィンの重合に成功し、これによる航空潤滑油の製法も完成していた。川村はこの研究によって学位を得(一九年)、陸軍技術有功賞を授与されている。
 ミヨシ化学興業は岩国工場で年間三万トンの航空潤滑油を生産する計画を立てた。潤滑油製造にともない副産するものとして、コプラ粕六万五〇〇〇トン、石鹸一万六〇〇〇トン、切削油八〇〇〇トン、グリセリン一万五〇〇〇トン、モービル油および人造ガソリン六万トンであった。これだけの生産がスムーズにいけば原料コプラは年間二五万トン処理されるはずであった。
 岩国工場における航空潤滑油は、江戸川工場の潤滑油がヒマシ油と抹香鯨油を原料としていたのにたいし、ヤシ油、パーム油を原料とするものであり、ヤシ油については工場の建設と併行してパイロットプラントによる研究をすすめた。ヤシ油を高級アルコールに還元してから潤滑油にするのであれば、抹香アルコールの工程と同じに考えて差し支えないが、ミヨシ化学興業では、還元には高圧技術と設備が必要なので、なるべく高圧を使わず、ほかの方法を探究することに努力した。ミヨシ独自の方法は、アルカリ塩を触媒としてヤシ油脂肪酸からオレフィンをつくり、ついで塩化アルミで重合し、脱塩後、軽質分を蒸留分別しようというもので、これはたしかに野心的なプランであった。
 だがこのような大規模のプランは、日本の強大な軍事力を背景として、南方の資源が永続的に確保されることを前提としたものである。ところがその軍事力も、一九年の前半には破綻の決定的な段階を迎えていた。そのため設備と大量のヤシ油を準備したまま、岩国工場はついにその機能を停止しなければならなかった。岩国工場にかけられた期待は実を結ばなかったのである。
昭和6年頃、館山、追浜、霞ヶ浦などの海軍基地には、膨大な廃ヒマシ油が手をつけられないまま貯蔵されていた。「ミヨシ石鹸工業」の研究室ではその再生が研究された。廃ヒマシ油を硫酸処理して静置すると、汚物が沈殿して、表面にかなり透明なヒマシ油が浮いてくるのであるが、この処理でできた再生ヒマシ油では、摂氏二三五度まで温度を上げるとすぐに引火してしまうのである。海軍の納入規格は発火点二四五度以上であった。石油工業におけるトッピング(常圧蒸留)装置のようなものがあれば、引火点のひくい分解生成物を除去することは容易であったが、そうした設備をととのえてこれにとりかかることは、資金面での負担が大きすぎた。既存の設備によって完全な潤滑油の再生が試みられた。昭和8年硫酸処理ののち静置し、分離したヒマシ油部分に蒸気を吹き込んで微量のガソリンを放出し、その上でフィルターをかける方法をつきとめた。
 ミヨシ化学興業では江戸川工場において動植物性(ヒマシ油、抹香鯨油)油脂を原料とする耐寒潤滑油、航空潤滑油の製造も行った。

B 「ライオン油脂の60年史」
 昭和54年12月20日発行 より

 航空潤滑油の開発の要望は開戦と同時に陸軍からよせられた。鉱油系潤滑油に代わる潤滑油の開発を、南方油脂資源である椰子油あるいはパーム油を利用して行なえ、という命令であった。当社はすでにそれ以前から抹香鯨油から高級アルコールを抽出して航空潤滑油を製造しようと企てていたが、成功にいたらなかった。そこであらためて椰子油の利用化をはかるため、東京大学桑田教授の指導と協力を仰いだ。
 昭和17年、パーム油を高圧還元して得られる高級アルコールとナフタレンを、活性白土を触媒として、縮合反応させたのち分溜した。この方法で得られた潤滑油が、もっとも酸化安定性がすぐれており、その他の諸性能もおおむね良好で、しかし収率がかなり高いという特性を示した。
 この研究が比較的短時日のうちに完成した裏には、昭和15年に資本提携した日本化成工業の技術陣の参画があった。とくに高圧処理には多大の技術的貢献を果たした。これは提携の実を示した一つであった。
 この航空潤滑油は昭和17年末、陸軍および海軍の航空潤滑油規格に合格した。当時油脂加工工場の多くがやはり軍の要請で航空潤滑油の開発製造に動員されていたが、当社のものは試験の結果、そのどれよりも安定性においてすぐれていた。また戦前の世界の航空潤滑油の標準であったテキサコエアプレーン#120航空潤滑油にも、十分匹敵する性能を有することが示された。
 ここに当社の開発した合成航空潤滑油は軍に採用されることが決定、海軍より平井工場(東京)に生産設備を建設するよう、建設前渡金として400万円が支給された。(陸軍からも生産の要請があった。)なお、研究開始以来航空潤滑油に要した総費用は約40万円であった。
 18年になって海軍は当社に対し、平井工場あげて機械油生産工場にするよう命令、翌19年同工場は海軍の管理工場、皇国第2828工場に指定された。
 海軍は、航空潤滑油製造用の高圧反応塔や余熱塔および高圧・減圧・分離塔に日本製鋼所室蘭工場で製造され、不用となった戦艦用の砲身(径36cm)を提供した。砲身は室蘭より運搬され、大谷重工業で手を加えたうえ、、平井工場に設置されたが、運転開始を待たず20年3月20日の空襲で焼失した。その他の工事は資材不足や空襲による頻繁な中断などの悪条件と戦いながら突貫工事で進められ、縮合反応塔およびトッピング装置までは完成したが、結局、未完成で終戦を迎えた。
 このように性能的にはきわめてすぐれ、期待された航空潤滑油ではあったが、不運にも実用に供されることなく終った。

C 「日本油脂三十年史」
  昭和四十二年六月一日発行 より

 当社の航空機用潤滑油生産の端緒は、昭和12年ごろまでさかのぼる。当時、東京帝国大学航空研究所において、動植物から航空機用潤滑油を製造する研究で永井雄三郎博士の手で完成し、その工業化について当社に相談があった。当社では、早速相当な金額を同研究所に寄付して試験工場をつくり、その製品を陸海軍に試験してもらったところ、非常に優秀な製品であることが証明された。
 日本には米国のように上質の石油資源がなく、ここにまったく日本独特の動植物からの潤滑油の生産がもくろまれたのである。
 この製造方法の概略は、まず動植物油脂(主として使われたのは鯨油)から硬化油をつくり、これをリスリンと脂肪酸に分解したのち、この脂肪酸のうち潤滑油に適するものだけを蒸留作用によって採取し、これに活性白土を分解剤として応用してクラッキングを行ない、まず潤滑油原料を得る。この粗製潤滑油を溶剤抽出法で活性白土と分離し、これに高圧水素添加を行なうと、航空機用潤滑油ができるのである。
 製法にみても分かるとおり、この新製品の製造は油脂工業の総合的な技術を必要とし、当社の長年の経験と技術がここに生かされることになった。試験段階におけるパイロットプラントは航空研究所につくられてあったが、これに協力すべく兵庫工場内に原料に関するパイロットプラントをつくり、その原料を航空研究所に運んで分解にかけるという形で、昭和13年〜14年ころに試作研究が行なわれた。ここでつくられた製品は陸海軍の品質テストを受け、その結果、当時輸入品の最高級といわれたテキサコ120番と遜色のない優良品という折紙がつけられ、これは当然軍関係の注目を浴びることになった。
 航空機用潤滑油事業の将来性に着目した当社では、昭和14年7月、この事業を担当する部門として、油化部を新たに設け、積極的な体制をととのえたのであった。
 こうして昭和16年3月、当局との間に油化工場新設の計画がまとまり、用地は尼崎工場の敷地をあてることに決定して、同工場内に臨時建設部が設けられたのであった。第一期工事の計画は、海軍工場と陸軍工場とを同規模でつくり、合計して年間3万トンの原料消化能力を持つ工場とし、第三期工事完成の暁には、年間原料消化能力10万トンの工場になるはずであった。昭和16年5月、地鎮祭が行われて第一期工事は着手され、昭和17年末までの完成を目ざして急ピッチの建設が始まったのであった。
 当初昭和17年中に完了を予定した第一期工事は、突貫工事につぐ突貫工事のあげく、ようやく昭和18年半ばに試運転開始の段階にこぎつけたのであった。その遅延が半年間であり、着工から約2年間で竣工の段階を迎えたことは、当時の事情と新工場の規模とを考え合わせるならば、むしろ驚くべき速さであったということがいえよう。
 潤滑油の生産状況は、昭和18年末にはそろそろ試作品が出るようになり、19年6月初めて完成品の出荷が行なわれたのであった。しかし、戦況の悪化は工場を空襲下にさらすことになり、ようやく本格的生産の段階を迎えながら、20年春の出荷を最後に、以後はほとんど生産らしい生産を行なえない状態におかれたのであった。

D 「北海道人造石油株式会社留萌研究所における
  石炭液化の技術開発
    −北海道人造石油株式会社小史U−」
    村田武雄 1985

「北海道人造石油留萌研究所の軌跡 高橋明雄」
 留萌市海のふるさと館 紀要第6号 1995 3  より

 留萌工業所は天塩炭田の石炭を主資源として滝川よりは一歩進んだ方法で石油を合成する。即ち計画としては1年に36万トンの石炭を購入し、これを直接耐圧ガス化炉に投入し、12気圧の酸素を送入して不完全燃焼を行はしめ、低温タールを回収しその他の有機物はすべてガス化し、灰分は溶融状態でガス発生炉の底部から排出させる方式のものであった。これはドイツのルルギ法で生産粗油予定約60,000竏/年。
・ 揮発油分は滝川と同じで直ちに市販とする。
・ 揮発油より軽いガゾール部分は、滝川の分を合わせて分解や異性化を行なって、重合、水素添加を行ない高オクタン航空揮発油を仕上げる。
・ 滝川で商品化されなかった重質の油や、ガス化炉から出る低温タールや、商品に不適の蝋分や、合成油の特定部分等は適宜分解蒸留にかけ、適当部分は水素添加して良質の揮発油とする。
・ 特定溜分の分解蒸留により得られる不飽和炭化水素は重合精製して優良なる航空潤滑油を製造する。
・ その他の関連石油化学品を製造する。
予定であった。
 昭和13年8月31日商工省人造石油課長、海軍省軍需局職員が工場設置の条件調査を行ない、翌14年4月4日留萌液化工場地鎮祭を行なっている。また同年6月7日研究所の起工式を行なった。15年10月9日には北海道人造石油留萌研究所の開所式を行ない、16年1月同年度工事計画を発表した。研究所以外の工事に関しては、資材不足のことからのびのびになっていたが、同年度は雪どけから約1ヵ年の予定をもって本格的工事に入った。(中型試験の合成工場は作られたが工場は遂に建設されなかった)
 当初の計画では合成一貫工場をめざしていたが、方針の変更で航空潤滑油生産に主目的を置いた。航空潤滑油を作るD3工場、オクタン価向上材の製造をめざすD4工場などがあり、これらは共に中間試験工場と呼ばれていた。D3工場ではルアー・ヘミー社の技術に、種々の改善を加えていった。原料油を滝川工場より運び込み、加圧合成油を稀硫酸洗浄し、塩化アルミニウムを触媒として重合、その後に脱塩素工程を加え真空蒸留すれば潤滑油になる。
 研究所第二課においては粘度指数113位の航空潤滑油を製造した。昭和18年4月30日陸軍納めドラム缶2本を初出荷、12月にはドラム缶5本、19年4月には2竏を出荷した。
 中間実験室においては粘度115秒/210F指数113のものが試製され実用に供された。


E 「日本石油百年史」より

下松製油所航空潤滑油製造装置の建設
 航空潤滑油は使用条件が巌しく、従来の精製法では生産不可能であったことから当社は昭和13年9月26日、下松製油所にBK脱ろう装置(溶剤としてベンゼンとアセトンを使用)とフルフラール溶剤抽出装置ならびに白土コンタクトリラン(濾過)装置を組み合わせた航空潤滑油製造装置の建設を決定(BK脱ろう装置はわが国最初であり、フルフラール溶剤抽出装置は朝鮮石油に次ぎわが国2番目である。)14年度に着工した。同装置は建設資材確保難から予定より1年以上遅れて16年2月竣工をみた。完成時の能力は、BK脱ろう装置が40kl/日、フルフラール溶剤抽出装置が50kl/日、白土コンタクトリラン装置が30kl/日であった。

F 「昭和石油三十年史」
   昭和49年8月20日発行より

早山石油
 川崎製油所
 パリゾール式溶剤脱蝋装置  1基 能力 2万6,709kl/年
 コンタクトリラン装置    1基 能力 2万9,700kl/年
 デュオゾール式溶剤精製装置 1基 能力 4万9,608kl/年
(新津石油は新潟県の小製油所を統合したうえ旭石油、早山石油と合同して昭和17年8月に昭和石油を発足させた。)


G 「宇部興産創業百年史」平成10年6月発行より

 宇部油化工業は、昭和18年になってタール蒸留設備、油洗浄設備と自家発電所、それに当局から新たに指示を受けた潤滑油設備とルルギ式乾留炉1基を完成させた。
 終戦の日までに航空機用ガソリンは皆無、自動車用ガソリン7,000kl、高級潤滑油1万ドラム、副生硫安6,000トンを生産したにすぎなかったとみられる。
(高級潤滑油が航空潤滑油に該当するのかは今のところ私には分かりません。)

H 「五十年史」 日本鉱業株式会社
 昭和32年10月31日発行より

 船川製油所は、減圧蒸留装置のほか、石油2次製品たる潤滑油製造装置をも併有しなければ完全な形態とはいえないので、船川においても同装置設置の研究を進めていた。
 当時、潤滑油は、航空機の急速な進歩に伴い、航空燃料とならんでますます高性能を要求されるに至ったので、当社は、これに応えるべく大船第1海軍燃料廠に技術者を派遣し、合成潤滑油製造の研究に当らせた。これとともに、昭和18年4月、日産化学工業株式会社の吸収合併により当社の一翼となった化学部門の参加を得て、旧日産化学王子研究所において、雄物川原油からの航空潤滑油製造について研究を行った。しかし、同装置の実現は、戦局の苛烈化のため、終戦後のこととなった。

I 「陸軍燃料廠史」から、

1、 岩国溶剤抽出装置(陸軍燃料廠第一製造所)
甲九号の一 バッジャー式真空蒸留装置  能力480kl/d
甲九号の二 デュオソール式溶剤抽出装置 能力320kl/d
甲九号の三 バリゾール式脱蝋装置    能力240kl/d
甲九号の四 コンタクト再蒸留装置    能力160kl/d
(甲三号 水素添加分解装置も利用可能)
昭和19年7月の処理概要を見ると、ロデッサ原油(重質)8,000klから航空潤滑油360klが取得できるとある。

2、 岩国合成潤滑油製造装置(陸軍燃料廠第一製造所)
  甲五十三号の一 パラフィン熱分解装置  能力150kl/d
  甲五十三号の二 オレフィン重合装置   能力100kl/d
  甲五十三号の三 コンタクト再蒸留装置  能力 64kl/d 未完成

 全ての装置が完成し、材料等が満たされれば1年間に抜頭原油(軽質分を除いた原油)120,000klとパラフィンワックス30,000tから航空潤滑油15,000kl取得可能。

3、 錦西合成潤滑油製造装置(四平陸軍燃料廠錦西製造所)
大豆油硬化油の水素添加によるα‐モノオレフィン製造。α‐モノオレフィンの塩化アルミニウム重合及びコンタクトリランによる航空潤滑油製造。
丙151号 高圧水添工場、硬化油の溶融工場、高圧縮空気工場と計器室
丙152号 粗蒸留工場、減圧白土接触再蒸留装置
丙153号 重合工場、成品タンク群とポンプ室
終戦時90%完成


J 東亜燃料工業の社史
 「東燃三十年史〈上巻〉」
  昭和46年6月30日発行 より

 清水工場溶剤抽出装置
 清水工場では高級潤滑油、航空潤滑油の製造を行うことになったので、その事業計画を昭和16年7月に商工大臣に提出し、同年10月石油業法により許可を得た。
 真空蒸留装置       320kl/d 昭和19.11運転開始 
 デュオソール溶剤精製装置 160kl/d 未着工 
 アセトン・ベンゾール溶剤脱蝋装置 80kl/d 終戦前未稼動
 コンタクト・リラン装置 80kl/d 昭和18.12本運転開始
 年間予定生産量は5,000 klだった。
 また、和歌山工場から得られるパラフィンを原料とするパラフィン分解重合装置(120kl/d 昭和18.5建設許可)、第2真空蒸留装置(400kl/d 昭和19.1建設許可)、第2コンタクト・リラン装置(160kl/d 昭和19.1建設許可)の建設が計画されたが、いずれも未着工に終わった。さらに昭和19年、和歌山工場で完成間近に迫った96式水添諸装置を利用してゴム水添を行い、航空揮発油、航空潤滑油を製造する計画が生まれた。揮発油も、潤滑油も、軽油に生ゴム20%を溶解したゴム溶解油を96式水添の反応筒の送り、ニッケル触媒を加えて、水素水添することによって製造する計画であった。潤滑油の場合は水添油を重合釜の張り込み、塩酸アルミニウム触媒を加えて重合させ、さらにろ過した後、真空蒸留装置にかけて重質、軽質の潤滑油に分溜することになっていた。しかし、水添装置の不備から生産はならなかった。計画では航空潤滑油を年間6,000kl生産することになっていた。

K 丸善石油の社史
 「35年のあゆみ」
  昭和44年11月発行 より
 
 下津製油所溶剤抽出装置
 デュオソール溶剤精製装置 1,000バーレル/d 昭和16.9完成
 バリゾール式溶剤脱蝋装置 300バーレル/d 昭和15.9完成 
 白土接触再蒸留装置    500バーレル/d 昭和15.10完成 
 デュオソール溶剤精製装置はわが国初の建設であり、特許および装置の主要部分は米国から輸入し、資材については、当局からの特別配給を受けたので、工事は順調に進捗した。かくして、当社は、航空潤滑油や艦船用タービン油の生産に全力を集中した。

 「油屋物語 松村石油五十年史」
  昭和三三年三月二〇日発行 松村石油株式会社より
 昭和一五年九月、タルサ(米国オクラホマ州)世界石油会議が開かれた。先ず入手したいと考えたのはデュオソール装置であった。これはいわゆるデュオソール法即ち特定の溶剤を用いて潤滑油を精製する装置であって、これによって精製すると、粘土指数のよい潤滑油が作られる。普通は、アスファルト成分、芳香族成分、及びナフテン成分の溶剤として、フェノールとクレゾールの混合物が用いられ、パラフィン系成分の溶剤としてプロパンが用いられる。この装置を購入したのは、危機一髪という所であった。やっと最後の便船に積み込んで日本へ送り、一六年の九月下津製油所に備え付けた。
 それから次に入手したいと考えたのは、航空潤滑油として効率のよいコットン・ヴァレー原油であった。これはポッター商会から購入することができた。思い切って一〇万klの購入契約をした。実際どれほど日本に渡るかわからないと思ったからである。これは予想した如く、全部は来なかったけれども、戦争直前に多量に入荷し、これを用いて航空潤滑油を作った。終戦後まで原油タンクにはたくさん残っていたほどであった。
 昭和一四年から一五年にかけて新設された生産設備の主なものろして廃油再生の鶴見油脂があった。航空潤滑油は、原油から作ると二%ほどしかとれない。それも原油が豊富に入手できる時には、この原油から少しずつでも沢山作ることができる。しかし、石油事情が悪化して来た今となっては、既に原油だけに頼っているわけには行かなくなってしまった。何とかして非常手段を考え出さねばならぬ。そこで思いついたのが、一度航空機に使って廃油となった潤滑油から再生することであった。これは大成功であった。原油からだと二%しかとれない航空潤滑油が、この廃油から再生すると五〇%もとれるのである。

L「味の素」の社史
 「味をたがやす−味の素八十年史−」
  平成2年7月14日発行 より

 軍需産業に関連するものに、いま一つ日本特殊油製造株式会社がある。これは電解工場(川崎、食塩を電気分解する。元々は大豆を塩酸で分解し味の素を製造する。)の副産物の塩素を利用して航空機用の潤滑油を生産する計画で昭和17年9月に設立されたものである。当時、すでに航空機の潤滑油の輸入は途絶していた。そこで、日本石油との共同出資で資本金500万円の同社を設立したわけである。日本石油から供給されるパラフィンに塩素を作用させて高級潤滑油を製造、軍に納めるという計画である。工場は電解工場に隣接して建てられ19年8月から操業が開始された。しかし、これも資材や原料不足で少量が生産されたにとどまった。


M「三菱化成社史」三菱化成工業株式会社
  昭和56年6月1日発行  より

 昭和19年、当社は陸軍から植物油を原料とする航空機用潤滑油製造の要請を受けた。植物油に水素およびナフタリンを添加することによって潤滑油の生産は可能であるが、航空機に使用される高級潤滑油の製造にはさらに高度な技術が要求されるため、かねてからライオンと共同研究を進めていたもので、翌年4月完成を目標に19年夏から建設工事を開始した.しかし、工事中途で終戦を迎えたため、潤滑油計画は打ち切られた。

補足・潤滑油添加剤マイクロンについて
 近時航空発動機の急速なる進歩に伴い、之に使用せらるる潤滑油は、高温高圧の状況に於いて強靭なる油膜を有することが要求され、従来の一般的潤滑油では之に応ずることが出来なくなった。之が為め米国に於ける多くの石油会社は此處数年間此の目的を達成するため、研究の結果、潤滑油への添加剤(Addition Agent)を発明した。此の添加剤を極少量混合すると其の鉱油本来の性状を失うことなく更に次記の如き利点を生ずる。
(@)油膜の強さを約3−4倍増大する。
(A)摩擦係数の減少により滑動部分の磨耗が減少し得られる(或る機械では測定した結果摩擦係数が30%減少した)。
(B)運転中の滑油温度が低下する。
(C)高温度に於て高圧に耐え得る。
(D)スラッジを溶解する性質を有するから発動機内にスラッジが溜まらない。
 以上の如き添加剤を混入せる潤滑油をライト航空機会社では,サイクロンG型発動機の指定潤滑油として選定せられ、Texaco Airplane Oil 120 F, Gargoyle Aero Mobile I.A.A
.-71.等は此の類に属する。
 「航空発動機の整備と運転法」畠山義三郎 加藤健次
  昭和15年11月20日発行 工業図書株式会社 より





イソオクタンをつくる、その4

2009.05.29 (Fri) 

 最近、世間では相も変わらず零戦の色があ〜だこ〜だと議論されているようだが、失業者にとってはどうでもいいことだ。(そういえば昔、戦前の色見本付きの塗料の参考書を私から無期限で取り上げた方は栄転なされたと風の噂で聞きました。)今日より就職サイトを見るとの事でPCの使用許可が出る。実に喜ばしい限りである。まあ、ここに書くような受けない話なら探せば何かしら出てくる。
 昔、航空燃料に命を賭けていた頃「イソオクタンをつくる」などと書き連ねてきたが、今日の話は「イソオクタンをつくらなかった」という話である。

 日本独自(というより欧米がどうだったのかは全く知りません)と言われる発酵ブタノールからのイソオクタン製造、量的は大したものではなかったが実に貴重なものだった。
実際に製造されたのは合同酒精の北海道旭川工場だけだったが、日本だけではなく台湾を主に多くの製造計画が立てられた。中でも国内最大のプラントがここであった。

 北海道では原料面、気象条件などいずれをみても大量の航空燃料を生産するには条件が悪すぎるため、新しい立地を探す必要が生じた。そのころ東洋紡績からの防府(山口県)をソルベントとイソオクタンの生産工場に転換したい旨相談を受けた。昭和18年3月31日、東洋紡績は工場を合同酒精は技術を出し合って「東亜化学興業梶vが創立された。
 イソオクタン6万kl生産工場建設の第一次計画は、ソルベント100kl/日(年産2万kl、2系列)、400kl発酵槽(別称2,000石タンク)48基、50kl蒸煮缶16基、4kl種母槽16基、4.5kl種母用蒸煮缶4基、粉砕機14台、蒸留器一式2基の設備の新設だった。その後の第2次計画ではジャワ島における合同酒精担当のブタノールを防府工場に運び、これからイソオクタンを生産することになった。
 防府工場は完成すればわが国最大の発酵工業設備となり、その原料には南方占領地からの砂糖を使用とする雄大な計画であった。工場は18年3月東亜化学興業の設立と同時に着工された。
 原料の砂糖は台湾から門司港に入荷して、陸上輸送のほか小型船で三田尻港に続々と運ばれていた。砂糖荷役のための徴用工はすでに数百名にのぼっていた、さらに、広島高工の学徒勤労隊と防府商業、防府高女の専修科学生など男女それぞれ30名ほどが動員された。男子勤労隊は砂糖の工場内横持ち運搬などに当たり、女子挺身隊は砂糖袋の残糖を竹のササラで落とす作業や袋の整理をするなどした。
 第1回の仕込み開始は昭和19年3月であり、待望のブタノールは4月17日にようやく産出された。
 イソオクタンの合成部門の建設資材は発酵部門に比べて高品位のものが要求され、入手には困難を極めた。このため、初めてブタノールが産出された時点での工事の進行度は、5割にも達していなかった。
 昭和19年の半ばになると戦局は一挙に悪化し、南方からの原料砂糖の入荷もおぼつかなくなっていた。
 昭和19年8月23日、東亜化学興業に防府工場の生産計画を中止し、無水アルコールの生産に変更するよう軍からの通告があり、9月1日には軍需大臣から正式に無水アルコール製造委託指令があった。このため11月1日イソオクタンの合成設備の火入れ式が挙行されたものの、肝心のイソオクタンの産出には至らなかった。
 無水アルコール製造へ転用されるまでの東亜化学興業防府工場のソルベント生産量は、ブタノール225kl、アセトン61klであり、これらはすべて軍需用として納入された。その後設備は無水アルコール製造へ転用された。
 終戦時における工場の砂糖在庫は7,965トンである。

 引用文献
「それからそれへ−協和発酵50年の軌跡と新世紀への礎」協和発酵株式会社
  平成12年9月発行




トルエンを作る

2009.05.13 (Wed) 

 SUDO様から指摘されて気がついたのだが、本当は旧軍の火薬についてな〜んの知識もなかった。失業中の身でなければ図書館に籠もり、勉強する事も可能だが、四六時中妻の監視下にある昨今、書庫の資料を読むこともママならないのである。さて、変わった性癖のある姫、火薬を調べてもついその組成、材料に注意が向いてしまい、有機化学工業や無機化学工業の教科書を読み始め、それを生産する企業史(家にある物はたかが知れていますが)をつい妻の目を盗んで読んでしまうのである。ある旧軍の資料を読んでいて、石炭の乾留以外で、トルエン(トルオール)などの芳香族を合成する方法がある事を知ってしまうと、さあ何処がやっていたんだという方向に興味が向かうわけである。

 アセチレンからの重合を最初に成功したのはフランスのベルトロー(1866)といわれている。わが国では東京工業試験所が昭和13年4月アセチレンの焦成重合に成功し、その重合油からベンゾール・トルオール・キシロールなどを得る方法を開発した。日本カーバイド鰍ヘこの実施権を取得して、昭和14年7月重合油年産400トンの工場を完成し製造を開始した。そののち第二次世界大戦中工場能力を3倍に拡張する工事に着手したが未完成のまま終戦をむかえた。
 「カーバイト工業の歩み」カーバイト工業会
  昭和43年3月31日   より

 ということで化学合成で作られたトルエンの生産量など、たかがしれたものでした。終り。

追伸.もしここを管理されている方がいらっしゃいましたらお願いがあるのですが、「北のさいはて日記」を「軍都ツキサップ日記」に変更できないでしょうか?よろしくお願いします。



トルエン

2009.03.17 (Tue) 

 石炭乾溜(高温乾溜、コークス製造、ガス、都市ガス製造)において、生成・分離されるトルエン(トルオール、爆薬原料)を取得すると、燃料(自動車、航空)であるモーターベンゾールの取得量が減るのではないかとある方から指摘いただいた。そこでさっそく資料を調べて見た。
 石炭を乾溜した場合、コールタールとガスとコークスが生成する。トルエン並びにモーターベンゾールはガス中から分離された軽油(粗製ベンゾール?)にほとんど含まれる。昭和12年、日鉄の室蘭輪西町工場(コークス工場)の生産量で見てみると
装入炭量     375,057トン
軽油生産量      5,432トン
ベンゾール類生産量  3,214トン
コールタール生産量 14,171トン
となる。
昭和12年の日鉄八幡製鉄所では
装入炭量      2,491,611トン
粗製ベンゾール生産量   30,654トン
ベンゾール類生産量    20,384トン
コールタール生産量   110,331トン
純トルオール生産量     1,583トン
モーターベンゾール生産量  7,744トン
となる。    
 さらに満州は鞍山の昭和製鋼所の生産状況をみると、昭和12年
ベンゾール生産量   9,192トン
タール生産量    45,419トン
となる。また、当所での粗タール(コールタール、無水)からの各種製品収率は
軽油       1%
中油      14%
重油(A,B共)15%
粗ナフタリン   6%
粗アントラセン  2%
ピッチ     50%
損失       3%
となり、コールタール中にはトルエンはあまり含まれないことが分る。
そして、ベンゾール製品の対軽油収率は75〜78%。ベンゾール製品中の各種製品割合は、
純ベンゾール    66〜70%
純トルオール      6〜8%
キシロール       3〜4%
ソルベントナフタ    5〜6%
モーターベンゾール 12〜20%
となり、モーターベンゾールとトルエンの生産は独立したものであることがわかる。
 また、日本、ドイツでの人造石油生産の主要な手段であった石炭の「低温乾溜」で出来る「低温タール」では、コークス製造などの「高温乾溜」と違い、生成される炭素化合物も直鎖状のものが大半を占め、トルエンなどの芳香族の炭素化合物は少ないらしい。ということで、石炭由来の燃料(自動車、航空)生産はトルエン生産を阻害しない。ただし、日本では、石炭生産そのものの絶対量が少ない為、燃料もトルエンも充分に生産出来なかったのである。



食と衣

2009.03.16 (Mon) 

「ビルマータイ鉄道建設捕虜収容所
  ―医療将校ロバート・ハーディ博士の日誌 1942〜45―」
  1993年7月25日発行 訳者河内賢隆/山口晃
    而立書房
 日本軍の捕虜虐待には触れない。そんな事を研究されている立派な方は結構いらしゃるが、実際、当時の捕虜の給養と日本軍の給養を比べてみる方は稀である。著者は泰緬鉄道の建設地最前線から一歩下がった捕虜収容所に医者としてずうっと収容されていた。建設最前線の衛生状況、食糧事情は最低(米と乾燥野菜が主、量もはなはだ少ない)なのだが、一歩下がると捕虜の食糧事情だけは、少なくとも内地の銃後の人々より、栄養のバランスがとれ、食材が多彩なのである。
 例えば1943年12月25日クリスマスの食事(あくまでも特別だけど)は
朝食
ミルク入り米のオートミール
目玉焼き
豚肉のフライ(厚め)
さつまいものフライ
ライムのマーマレード入りのタピオカ粉(どんなもんなんだ?)をまぶしたロールパン

昼食
魚のリソールrissole(魚を刻んだ物を・・わからん)2つ
野菜と肉のスープ
コールドビーフ2切れ
西洋カボチャ、きゅうりと中国大根のピクルス
ミルク入り紅茶1杯

夕食
野菜と肉のスープ
ローストビーフ、さつまいもとかぼちゃのフライ添え
生姜のプディング(卵のプリンとは違う、説明すると長くなる)ライムソース
鰯をのせた油で揚げた米のビスケット(鰯は缶詰のオイルサーディン?)
ザボン(柑橘類 デザートです)
ミルク付きコーヒー

そして1944年12月25日クリスマスには
「今回のクリスマスの食事は例年以上に素晴らしかった。あらゆる点で本当に豪華なご馳走が食べられた。」と日記に書き記している。
 内地では昭和20年には卵も肉の配給も事実上なくなっていた。

 シンガポール陥落時、捕虜となった著者が、捕虜収容所にいた間、日本側から供給された衣料品は
@ゴムとズックで出来ている安手のブーツ(履くのには小さすぎた) 地下足袋
A目の粗い灰色のキャラコのズボン
の2点だけだった。(それも捕虜個人に支払われる賃金?から費用を徴収された。)
 また、医者としての特権で町で買い求める事ができた毛布(非常に粗悪品)1枚、
合計3点が捕虜期間中に入手することができた衣料品の全てだ。
(1944年5月28日に捕虜6人に1個の割合でアメリカ赤十字の小包が渡されたのでタオル、下着、靴下を入手しているかもしれない。)
 赤十字から送られていた衣類や靴は終戦まで、日本軍が大事に倉庫にしまっていてくれた。捕虜たちが捕虜収容所に持ちこんだ衣類は、しばしば地元民との食糧との交換に用いられた。南国とて1月の夜は寒い、著者はこう書き残している。
「最近、夜はとても冷える。昨晩は、新しい毛布と古い薄い毛布では寒くてどうしようもできなかった。パジャマ、カーキ色の作業ズボン、袖なしジャンバー、防風ジャケットと靴下等を身につけ、何とか寒さから身を守ることができた。暑い天候の中で、無謀にもシャツ、パンツ、毛布を売ってしまった隊員たちはどう過ごしているのだろうか?多くの者が寒さのために寝られずに、歩き回り、また他の者は炊事場にもぐり込んだのである。」

  日本戦時経済の全貌 東洋経済出版部 昭和7年10月18日発行
の中に「経済封鎖問題座談会」というのが載っている。これは連合国側から経済封鎖を行なわれたら日本の工業、貿易、生活はどうなるなろうだろうか?というのを経済界の名士、官僚など(高橋亀吉、石橋湛山もいる)が話し合っているものだ。戦前、日本の繊維業界は繊維製品を輸出することにより、日本の外貨の大半を稼いでいた。しかし、その原料を見ると、生糸、一部パルプを除いた羊毛、綿花のほとんどを後の連合国の供給に頼っていた。この座談会の結論もいい加減なもので、日本支配下の地域からいずれ綿花も羊毛も取れるようになるだろうから、あまり心配する事が無いなどと、真剣に暢気なことを言っている。
 戦争中、衣料品が不足したのは皆さんご存知だろう。そして、日本占領下の東南アジアの人々が日本から離反したのは、必要とする衣類を供給することが出来なかったのも大きな要因であり、終戦前の冬、日本国内では小学校の児童が下着や靴下が無い為、学校を休むことが問題化していたの御存じだろうか?
  参考資料
「秘 南方繊維資源の調査に赴きて」商工省技師 岸 武八
  昭和十七年四月 全国経済調査機関連合会



柳輸送

2009.03.15 (Sun) 

 これも昔hush様に差し上げた物であります。

逆柳輸送から
「Elbe」所有者N.D.L  9,179総トン 1934年建造
  1941年4月20日大連発 1941年6月6日英空母Eagleの艦載機   により撃沈
「Regensburug」所有者N.D.L 8,068総トン 1938年建造
  1941年5月5日大連発 1941年6月27日ボルドー着
  1942年2月21日ボルドー発 1942年7月7日横浜着
  1942年10月9日シンガポール発 1942年10月12日、米潜水艦   Searaven(SS‐197) の雷撃を受け1942年10月20日バタビア着
  1943年2月6日バタビヤ発 1943年3月30日、英軽巡洋艦     Glasgowにより撃沈
「Ramses」所有者H.A.L 7,083総トン 1926建造
  1941年5月12日大連発 1941年6月26日帰還命令を受け1941年7  月30日横浜着
  1942年11月22日バタビヤ発 1942年11月28日、豪軽巡洋艦   Adelaideにより撃沈
「Anneliese Essberger」所有者John T.Essberger 5,173総トン 1935年建造
  1941年6月20日大連発 1941年9月10日ボルドー着
  1942年11月5日ボルドー発 1942年11月21日 米軽巡洋艦Milwaukee
(CL−5)により撃沈
「Odenwald」所有者H.A.L 5,098総トン 1923年建造
  1941年8月21日横浜発 1941年11月6日 米軽巡洋艦Omaha
  (CL−4)により捕獲
「Burgenland」所有者H.A.L 7,320総トン 1928年建造
  1941年9月21日神戸発 1941年12月1日ボルドー着
  1942年10月4日ボルドー発 1943年1月12日神戸着
  1943年2月8日神戸発 バタビアに向かう途中1943年2月27日
  帰還命令を受け、1943年4月2日神戸着
  1943年11月25日バタビア発 1944年1月5日、米軽巡洋艦
  Omaha(CL−4)と米駆逐艦Jouett(DD−396)により撃沈    最後の逆柳輸送
「Elsa Essberger」所有者John T.Essberger 6,100総トン 
  1938年建造
  1941年10月14日佐世保発 1942年1月11日から3月9日まで
  スペインのEl Ferrolに滞在 1942年3月10日ボルドー着
  1942年11月7日St. Nazaireにて英空軍の爆撃を受け損傷、   輸送を中止
  1944年1月18日最終的に輸送を中止
「Spreewald」所有者H.A.L 5,083総トン 1922年建造
  1941年10月21日大連発 1942年1月31日ドイツ潜水艦U−333  により撃沈
  「ドラムビート」マイケル・ギャノン
   2002年5月13日発行 光人社 のP345に「Spreewald」     撃沈の詳細が書かれている。

「Munsterland」所有者H.A.L 6,408総トン 1922年建造
  1942年2月18日神戸発 1942年5月17日ボルドー着
  1943年3月最終的に輸送は中止
「Kulmerland」所有者H.A.L 7,363総トン 1929年建造
  1942年8月26日大連発 1942年11月7日ボルドー着
  1943年1月最終的に輸送は中止

次は柳輸送から始まるもの

「Rio Grande」       6,062総トン
  1941年9月21日ボルドー発 1941年12月6日大阪着
  1942年1月13日神戸発 1942年4月10日ボルドー着
  1942年10月1日ボルドー発 1942年12月31日横浜着
  1943年2月25日バタビア発 1943年2月27日帰還命令を受け
  1943年3月5日バタビア着
  1943年10月29日バタビア発 1944年1月4日、米軽巡洋艦
  Omaha(CL−4)と米駆逐艦Jouett(DD−396)により撃沈 
「Portland」 7,132総トン
  1941年10月22日ボルドー発 1941年12月6日大阪着
  1942年2月26日横浜発 1942年5月10日ボルドー着
  1943年3月28日ボルドー発 1943年4月13日、仏軽巡洋艦
  Georges Leyguesにより撃沈
「Tannenfels」       7,840総トン
  1942年3月8日ボルドー発 1942年5月12日横浜着
  1942年8月8日横浜発 1942年11月2日ボルドー着
  1943年1月最終的に輸送は中止
「Dresden」         5,567総トン
  1942年4月16日ボルドー発 1942年6月23日横浜着
  1942年9月8日サイゴン発 1942年11月3日ボルドー着
  1943年11月2日ジロンドで触雷、輸送は中止
「Weserland」        6,528総トン
  1942年9月9日ボルドー発 1942年12月1日横浜着
  1943年2月6日バタビア発 1943年2月27日帰還命令を受け
  1943年3月23日バタビア着
  1943年11月22日バタビア発 1944年1月5日、米駆逐艦
  Somers(DD−381)により撃沈
「Irene」          4,793総トン
  1942年10月11日ボルドー発 1942年12月20日神戸着
  1943年2月18日バタビア発 1943年4月10日、英敷設巡洋艦
  Adventureにより撃沈
「Karin」         7,322総トン
  1942年11月6日ボルドー発 1942年12月22日バタビア着
  1943年2月4日シンガポール発 1943年3月10日、米駆逐艦
  Eberle(DD−430)により撃沈

 ドイツ仮装巡洋艦「Thor」が捕獲して日本に回航した2隻もやはり逆柳船に仕立て上げられた。

「Hohenfriedberg」       7,892総トン
  旧ノルウェータンカー「Herborg」
  1942年6月18日インド洋上にて捕獲
  1943年12月22日バタビア発 1943年2月26日、英重巡洋艦
  Sussexにより撃沈。昔、この船の積荷の事は日記に「椰子油とパーム油」
  の御題で書いた。
「Rossbach」 5,894総トン
  旧ノルウェータンカー「Madrno」
  1942年7月4日インド洋上にて捕獲
  1943年1月18日バタビア発 1943年2月27日帰還命令を受け
  1943年4月8日バタビア着
  1944年5月7日、室戸岬沖にて、米潜水艦Burrfish(SS−312)により
  撃沈

ドイツ仮装巡洋艦「Atlantis」が捕獲して柳船に仕立て上げられた。

「Doggerbank」 5,154総トン
  旧英貨物船「Speybank」
1940年1月31日インド洋上にて捕獲 1940年5月10日ボルドー着
1942年1月25日ボルドー発 神戸着
  1943年1月15日バタビア発 1943年3月3日、独潜水艦U−43により撃沈

 ドイツ仮装巡洋艦「Atlantis」が捕獲して日本に回航して逆柳船に仕立て上げられた。

「Benno」           8,306総トン
旧ノルウェータンカー「Ale Jacob」
  1940年11月9日インド洋で捕獲
  1940年12月4日神戸着 1941年7月19日ボルドー着
1941年8月21日ボルドー発 1941年10月神戸着
1941年10月神戸着1941年12月ボルドー着
1941年12月22日ボルドー発
  この船の事も昔、日記で「似非艦船ファン」の御題で書いた。

 イタリア船(船籍?)で柳船としてもちいられたもの。
運航計画はドイツ海軍に任されたが、船舶、乗員はイタリアのものであり、還送された物資もイタリアの物になった。

「Cortellazzo」      5,292総トン
  1941年11月15日大連発 1942年1月28日ボルドー着
  1942年11月28日ボルドー発 1942年12月1日英駆逐艦
  Redoubt(H−41)と豪駆逐艦 Quickmach(G−92)により撃沈

「Pietro Orseolo」     6,344総トン
  1941年12月2日神戸発 1942年2月22日ボルドー着
  1942年10月1日ボルドー発 1942年12月2日横浜着
  1943年2月16日バタビア発 1943年4月2日ボルドー着
  1943年12月18日Concarneauにて雷撃?により撃沈

「Fusijama」       6,244総トン
  1942年2月7日神戸発 1942年4月26日ボルドー着
  1943年1月18日最終的に輸送中止



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