タングステンと大日本帝国No.3

2001.12.07 

 日本支配下にあった南方地域は世界的に見てもタングステンの重要な産地でした。戦前ビルマ(現在のミャンマー)は世界第2位の生産地で、生産量は世界の18%、マライ(マレーシア)、スマトラ(インドネシア)、タイ、仏印(ベトナム)の生産を合わせると世界の30%にも達していました。

 前にドイツでタングステンが不足していた話を書きましたが、戦中、ドイツは日本側から限られた手段ではありますが、タングステンを持ち帰っています。第一はブレードランナー(海上封鎖突破船、柳船)、第二はUボート(イタリアの潜水艦を輸送用に改装した物も含む)、第三は日本海軍の訪独潜水艦です。前二者の実際はよく分からないのですが、訪独潜水艦は「深海の使者」吉村 昭著によって詳しく紹介されていますし、近いところではNHKスペシャル「消えた潜水艦イ52号」に関連する記述が載っています。このイ52号の記述でタングステンに関して勘違いなされていると思われる部分がありますので、本題に入る前にチョット触れます。



 「日独製造権および原料相互供給協定」昭和19年3月調印

 敗色濃くなったドイツは、日本側の原料提供と引き換えに、最高軍事機密の技術をも日本に提供することをきめたのである。生ゴムやタングステンなどの天然資源は日本でも不足していた。しかし、新技術を導入するためにやむなく、訪独潜水艦に大量の天然資源を載せてドイツに送ったのである。



 との記述があります。当時、ドイツに送られた錫、生ゴム、タングステンは世界的状況から見れば潤沢とも言えるほど日本支配下地域には存在し、実際不足したと言われる(?)のは船舶不足による輸送難(海没)が原因で、生ゴムなどは日本本土内に大量に貯蔵されていました。またこれらの物資はシンガポールで積み込みされていますので、船舶不足でシンガポールに眠っていた資源を効率よく捌いた一面があった事を理解してください。

 戦時中、南方支配地域でのタングステン生産の様子や生産量は断片的な記述しかなく、実際のところよく分かりません。しかし、戦前のタングステン生産の記述は揃っていますので、これらから戦時中の様子を類推するしかありません。


 概観

 タングステン鉱床は、南方圏においては中国の江西、広東、福建等の各省及び北部仏印を包含する地域と、タイ、ビルマ国境からマレー半島を経てスマトラの北方ビリトン島に及ぶ地域の二地域に発達している。第一の地域においてはタングステンと少量の錫モリブテンを伴っており、第二の地域においては周知の如く世界的な錫の産地と同一である。


 「仏印」(ベトナム)

 タングステンの主産地はトンキンのチンツツクおよびピア・クアック(Pia-Quac)で、錫の鉱床にウォルフラム即ちタングステン鉱石が並存している。1905年頃から生産を開始し、1918年頃までは鉱石で250トン程度に達したが、その後生産は停滞し100トン内外となったが、1935年以降再び増勢をたどっている。1938年で鉱石で555トン、金属含有量換算で327トンの生産を上げた。タングステン鉱は錫と同様マレーに輸出されていた。


 「ビルマ」(ミャンマー)

 ビルマでは錫鉱とタングステン鉱は緊密に共生する。主たる産地はマルタバン湾東側カレニ州のマウチ鉱山およびタボイ川沿岸メキル地方である。中でもマウチ鉱山の鉱床が最大で錫を伴ない、鉱量15万トン(錫38%、タングステン鉱33%)と称せられている。選鉱はほとんどすべて英本国およびその属領に向けられていた。

ビルマ、タングステン鉱産出量 (単位 トン)
選タングステン鉱 錫 ウォルフラム混合鉱 内マウチ鉱山分
1934年 1246 4190 3889
1935年 2522 4851 4813
1936年 3125 4989 4989
1937年 3348 5030 5023
1938年 3848 4704 4646
1939年 4342 5593 5564

 日本占領下の活動としては、軍の要請を受け、昭和17年3月、三菱鉱業はタボイ鉱山の操業を開始した。生産状況は、資料の喪失によって正確にすることができないが、昭和18年には労力・資材・食料の不足、輸送の隘路等によって生産は著減した。タボイのタングステン生産も月産100トン内外となった。


 「マレー」(マレーシア)

 マレーはタングステン鉱として、いづれも品位、60%程度のウォルフラム鉱と灰重石とを産出する。中国、ビルマについで、世界主産国の第三位を占めていた。ウォルフラム鉱は普通錫鉱山の副産物として漂砂鉱より採掘されるが、これを主目的として鉱脈を採掘する場合もある。重石は重石鉱山として、それを主目的として採掘さるるを常とする。ウォルフラム産地はケダー州ブキツト・カチ、トレンガヌ州ヅングン、チェンドロンである。灰重石産地はベラク州クラマ・プライ、スランゴール州スンガイ・ブンであったが、灰重石は乱掘の結果枯渇しつつあった。

マレー、タングステン鉱産出量 (単位 トン)
灰重石 ウォルフラム混合鉱
1935年 1365 269 1634
1936年 1365 275 1639
1937年 3348 5030 5023
1938年 836 263 1089
1939年 573 318 891

 採掘源鉱はほとんど全部輸出されていた。1939年における国別輸出高は次のようである。

仕向国別マレー産タングステン鉱輸出高
鉱量 百分率
イギリス 432トン 66.5%
ベルギー 6トン 0.9%
フランス 43トン 6.6%
米国 59トン 9.1%
カナダ 30トン 4.6%
日本 50トン 7.7%
その他 30トン 4.6%
650トン 100%


 「タイ」

 タイ国においてもタングステンは錫の副産物として産出され、主たる産地はプーケット、ソンクラ、パンガン島、サムイ島等である。パンガン、サムイ両島の産出が増加し、農務省がその採掘事業に当っている。

タイ、タングステン生産量 (単位 トン)
1934-35年 53.7
1935-36年 63.4
1936-37年 80.7
1937-38年 99.7
1938-39年 271.2
1939-40年 304.4



 「蘭領東印度」(インドネシア)

 錫はマレーの半分程度の採掘量があるのだが、タングステンはほとんど含有しないようである。主要鉱山はティクス鉱山であり、多少のタングステン鉱がシンゲケプ島から得らる。1936年タングステン鉱採掘、1トンの記録がある。

 最後に、北号作戦において、昭和20年2月10日シンガポールを出港した戦艦日向は47トン、戦艦伊勢は47トン、軽巡洋艦大淀は20トンのタングステンを2月20日呉に持帰った。


 引用・参考文献
「佛領印支那」 宮島綱男 土居博
東京修文館 昭和18年10月25日発行

「三菱鉱業社史」


「南方圏の資源 第一巻 マレー編」 小林 碧著
日光書院 昭和17年5月25日発行

「蘭印事情」 小笠原 長ひろ著
羽田書院 昭和15年9月18日発行

「南方産業技術要覧」 南方産業技術要覧編纂会
山海堂 昭和19年6月20日発行


 付録1

 タングステンカーバイト切削工具に関連して、砲身のボーリングの話が「回想の譜 光海軍工廠」工廠会 昭和59年10月31日発行と「陸戦兵器総覧」に書いてあります。また「名古屋陸軍造兵廠史・陸軍航空工廠史」で薬莢をつくる搾伸臼に鉄薬莢の場合、超硬質合金を使用したとあります。

 雪がしんしん降り積もる。そろそろ仕事に戻らなくては・・・・冬眠



●戻る●