蒼空の果てに

     九七式艦上攻撃機

 昭和十九年七月二十九日、陸上練習機教程を終了したわれわれは、いよいよ実用機教程 に進むことになった。筑波航空隊(戦闘機)宇佐航空隊(艦爆)姫路航空隊(艦攻)百里 原航空隊(艦攻)豊橋航空隊(陸攻)に別れて、 それぞれ谷田部航空隊を後にした。  私は希望どおり艦攻に決まり、百里原航空隊の所属となった。同僚二十七名と共に荒川 沖駅から汽車に乗って、常陸小川駅で降りた。駅には航空隊からトラックが迎えに来てい た。飛行場は思ったより遠い。谷田部航空隊もそうであったが、海軍の飛行場は辺鄙な所 が多い、ここでの外出が思いやられる。  兵舎に着くと制服を事業服に着替えて、直ちに身の周りの整理を行う。デッキ(陸上基 地でも兵員居住区をこう呼ぶ)を見回したがベッドは見当たらない。ここは釣床なのだ。 今夜からの「釣床教練」が思いやられる。  早速われわれは三個班(卓)に分けられ、それぞれのペアが決められた。一個班は九名 の練習生に三名の教員がつく。これが、第五分隊の編成である。谷田部航空隊と違って、 ここの教員は全員が上飛曹である。横山、高尾、増子、平松、加藤、桐畑、吉池の各操縦 教員と偵察教員で先任搭乗員の春原上飛曹である。 末席の吉池教員が乙飛第十六期生の出身で、他はすべて操縦練習生(飛行術練習生以前 の操縦員養成制度)出身の古参の搭乗員である。谷田部航空隊では、飛行兵長の助教が多 かったのに比較して雲泥の相違である。さすがに実用機教程では教員の質から違う。  分隊士平野中尉(海兵七十二期)、堅田飛曹長(甲飛四期)も教務飛行に同乗されるの で、教員一人の受け持ちは三名である。中練教程に比べて密度の濃い訓練が予想される。 私は吉田・川崎練習生と三名で吉池教員のペアに指定された。  海軍のデッキ(兵員居住区)は艦内生活を基準としている。狭い艦内を有効に使うため、 釣床(ハンモック)に就寝するのが原則である。デッキには、大きな木製の食卓と長椅子 が置かれている。これで食事もするし、手紙も書く。そして、夜になるとこの上に釣床を 吊って就寝する。 「釣床用意!」の号令でネッチングの収めた各自の釣床を降ろしてテーブルの上に並べる。 「釣床卸せ!」の号令で、テーブルの上にあがり、釣床の両端の環を、 ビームに固定され たフックにかけて吊るす。次に、ロープを解いて就寝できる状態にする。釣床の中は薄い 藁布団と毛布が三、四枚入っているが枕はない。一枚を縦に折って下に敷き、残りで封筒 の形に包み込んでその中に寝るのである。事業服を折りたたんで枕の代わりにしていた。 「釣床収め!」の号令で、ケンパスでできた釣床をロープで括ってフックから外し外観を 整える。「釣床卸し」が十八秒、「釣床収め」が四十五秒に達するまで猛訓練が続く。 これを「釣床教練」と呼ぶ。教員の機嫌が悪いと、毎晩のように実施される。これも一種 のしごきである。 釣床教練 巡検終わり        釣床に寝るまでか楽じゃない。  軍艦では「合戦準備」で釣床をマントレット(艦橋などの主要部分に巻いて弾除けにす る)に使う。また艦が沈没した場合には浮袋の代用にもする。そのため、堅くキッチリと 括っておかないと役に立たない。だから、秒時の短縮以上に括り方をうるさく言う。  鹿児島航空隊の予科練時代に教員から、海軍伝統の「釣床教練」の厳しさについて聞か されていた。しかし、谷田部航空隊では運よくベッドであった。ところが、ここ百里原航 空隊でついに「釣床教練」でしごかれるハメになったのである。  「航空記録」によれば、百里原航空隊での飛行訓練開始は八月二日(水)となっている。 だから、エンジン起動や試運転などの地上教育は月曜と火曜の二日間実施されたことにな る。地上指揮官は分隊長の橘大尉である。艦攻隊の指揮所は飛行場北側にテントが張られ ていた。このテントは谷田部航空隊と違い張りっ放しであった。だから、見張用の双眼鏡 や椅子などを準備するだけで指揮所の設営や撤収は谷田部航空隊に比べて簡単であった。  飛行隊長の後藤大尉や、飛行隊付きの中西中尉も、暇をみては指揮所に顔を出される。 飛行隊長は開戦劈頭の真珠湾攻撃の際、航空母艦「赤城」の飛行隊付きとして、雷撃機の 操縦員として参加された方である。中西中尉は平野中尉と海軍兵学校七十二期の同期生で ある。  飛行訓練は、九七艦攻(九七式艦上攻撃機の略、九七式とは皇紀二千五百九十七年即ち 昭和十二年に正式採用されたことを意味する)を使用する関係で谷田部航空隊とは手順も 内容も大幅に変わる。格納庫から飛行機を出して列線に並べる。ここで折りたたんだ主翼 を延ばす作業が加わる。燃料も積載量が多いので時間がかかる。          当時の海軍では工具類をはじめ、飛行機の部品なども日本語に訳さず、英語がそのまま 使用されていた。航空揺籃期の大正九年、海軍は霞ケ浦に陸上飛行場を開設した。そして、 翌十年「臨時海軍航空術研究講習部」を編成し、イギリスからセンピル大佐以下三十余名 を招聘してその指導を受けた。 センピル教導団    左から、ブラックレー少佐・オードリース少佐・シュレット中尉。  だから飛行機の部品や工具はもちろん、運用面にまでも英語がそのまま使用されていた。 エルロンやフラップ、それにラダーをはじめ、スロットルレバーにACレバー、スチック (操縦桿)、フットバー(踏み棒)タブ(修正舵)、カウリング、スピンナーなどカタカ ナでそのまま呼んでいた。チョークとは黒板に文字を書く白墨のことではなく、車輪止め のことである。  折りたたんだ主翼を延ばす際の掛け声は、「レッコー」である。燃料を積載する手順は 翼の上に乗り、横付けされた燃料車からホースの筒先を受け取って燃料タンクの注入口に 当てる。次に、燃料車の運転手に「ゴーヘー」と、指示する。運転手は燃料ポンプを駆動 させる。満タンになる直前に「スロー、スロー、ストップ!」と、叫んで燃料ポンプを止 めさせる。タイミングを失するとオーバーフローする。  エンジンを起動して試運転を行う。プロペラピッチの変更も中練にはない手順である。 これを忘れて高ピッチのままだと回転数があがらない。「搭乗割」も三座の艦攻では中練 と異なる。前部の操縦席に練習生が乗り、中央の偵察席を改造し連動の操縦装置をつけた 所に教員が座る。この連動の操縦装置を付けた機体をディアルと呼んでいた。後部の電信 席にはもう一人の練習生が乗る。そして、操縦席の練習生と教員のやり取りを聞きながら 自己研鑚を行う。  次に、操縦席の練習生と交替して操縦桿を握る。電信席には、次の順番の練習生が乗り 込む。三名のペアで二名が同乗するので、指揮所に残るのは各ペア一名である。だから、 全部で十名にも満たない。そのため、見張員などの指揮所要務や雑用などで休む暇もない。  飛行訓練は「離着陸同乗」から始めるのは九三中練と同じである。ところで、九七艦攻 は引込脚になっている。そのため、離陸と同時に脚上げの操作を行い、第二旋回が終わる と今度は脚を出す。第三旋回が終わって降下に移った所でフラップを降ろす。これに連れ てタブを巻き上げる。九三中練に比べてスピードが早いので、「誘導コース」を回る時間 は短縮される。そのうえ、脚とフラップの操作が増えるので忙しくなる。  第四旋回の高度は九三中練よりも高い。グライドパスの速度も九三中練の五十七ノット に対して、九七艦攻は六十五ノットである。そして、最後の引き起こしも、眼高七メート ルで九三中練よりも高い。それだけ機体の沈みも大きいのである。しかし、慣れれば特に 問題はない。また機体の重量も九三中練に比べればはるかに重く、脚の緩衝装置もオレオ (油圧式)のため、中練に比べあまりジャンプはしない。  離着陸の単独飛行(実際は練習生同志の互乗)が許可されると、次は編隊飛行に移る。 記録によれば、八月二十二日から既に編隊飛行を開始している。九七艦攻は九三中練に比 較して機体が重いので惰性も大きくなる。だから、その分早め早めの修正をしなければ、 キチンとした編隊が組めない。  艦攻の水平爆撃は、先頭の爆撃嚮導機に列機はガッチリと編隊を組む。爆撃の照準をす るのは嚮導機だけである。列機は嚮導機の合図で一斉に爆弾を投下する。だから、水平爆 撃の訓練は主として編隊飛行であり、編隊飛行の訓練は、即ち水平爆撃の訓練なのである。  艦攻の実用機教程で編隊飛行の訓練を特に重視するのはそのためである。霞ヶ浦での低 空編隊飛行訓練ではプロペラで水面を叩いて、墜落寸前の事故を起こした者もいる。また、 小さな編隊灯だけを頼りの夜間編隊飛行訓練も徹底的に実施された。
百里原空の九七式一号艦攻
百里原空所属の九七式一号艦攻。

仮設飛行指揮所
仮設指揮所から飛行場を望む。

旗旒信号と吹流し
離着陸方向(NE)を示す旗旒信号と吹流し。

上空から見た百里原空。

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