蒼空の果てに

     記録係と酒保係

 私は九〇三空で、記録係という配置を与えられていた。理由は、商業学校出身で算盤が できるかららしい。艦攻隊の「搭乗命令」は、飛行士(飛行隊付士官)が起案して飛行隊 長の決裁を受け、関係搭乗員に伝達していた。  この場合「搭乗割」と呼ばれる黒板が利用される。この黒板には機番号と、操縦員・偵 察員・電信員の氏名それに要務内容などが記入される。各自はこの「搭乗割」を見て自分 の任務を確認する。搭乗割の氏名欄は姓の頭文字を、士官は○准士官は△で囲む。下士官 は頭文字に山形を被せ、兵は横棒を引く。同姓の場合のみ名前の最初の文字を小さく記入 する。  記録係はこの「搭乗命令」の原簿と、担当整備員がすべての飛行機について、機体番号 ごとに飛行実績を記録している「飛行野帳」を基にして、飛行機の種類・機体番号・発着 時刻・搭乗命令に示されている要務内容などを照合整理して、それぞれの搭乗員が個人別 に所有している、 「航空記録」に記入するのが仕事である。作戦飛行や試飛行それに夜間 飛行など、危険を伴う飛行は、赤インキで記入していた。 また毎月末にこれを締め切り、機種別に飛行回数、飛行時間などを集計して、月計と累 計を記入する。そして、飛行隊長や飛行長の確認印をもらう。また、全員の作業別飛行時 間の集計表を作成して、主計科に提出していた。これを基に、航空加俸が支給される仕組 みである。  搭乗勤務のない日は、指揮所の二階にある記録係の事務室で仕事をしていた。忙しいの は月末ぐらいで、あとは遊び半分であった。相棒は「銀ちゃん」こと、 藤原銀次飛行兵長 で二人で仲良くやっていた。房総半島南端の館山でも真冬は寒い。他の者が野外で兵器の 手入れや機体の清掃など寒そうに働いているのに、暖かい事務室での勤務は天国であった。 また記録係の役得で、他人の航空記録を読むことができた。搭乗員は階級以上に飛行時 間がものを言う。五百時間を越して一人前、三百時間未満は若(じゃく)と呼ばれ食卓番な どの雑用に追われる。当時のわれわれは下士官でありながら食卓番や甲板掃除にこき使わ れていた。  また飛行時間と並行して実戦経験で箔をつける。休憩時間の雑談などでは、話題の中心 は実戦体験である。特に雷撃経験者の話は貴重である。日ごろ大言壮語していても、飛行 時間に似合わず実戦体験のない者や、飛行時間の少ない割に航空母艦勤務経験者だったり、 航空記録を見れば各自の実像が見えてくる。  特に参考事項摘録(五号様式)に記載された初陣の記録に、「訓練どおりに……」とか、 「演習と同じように……」などの言葉が見受けられ、訓練の重要さを実感した。  指揮所二階正面の部屋は、電波探信儀の整備室として使用されていた。物珍しさに暇を みては出入りしていた。丸くて一升瓶の底ほどの太さのガラス管の中央部に、青白く光る 蛍光線が、 チリチリッと小さな波形を作っている。確か「オシロスコープ」と呼んでいた。  担当の永田兵曹が機械を調節しながら、 「これが富士山だ……」 そう言いながら、比較的大きな波形を示した。それは、富士山の近くを飛んでいる飛行機 ではなく、富士山そのものの反射波らしい。  顔を上げると、真正面遥かに真っ白に雪を被った富士山を望むことができる。 「電探ってこんな物ですか? 富士山なら電探が無くても、あそこによーく見えますよ」 と、口をすべらした。 「なにいっ! お前いくら目がよくても、真夜中にあれが見えるというのか!」 なーるほど、やはり電探は必要なのだ。 富士山        富士山を望む。  百里原航空隊時代は、同じような理由で酒保係を担当していた。当時の酒保(食堂兼売 店)は、物資不足のため各自が自由に買い物したり、飲食する時代は過ぎていた。酒保で 営業しているのは、散髪屋と洗濯屋ぐらいで、酒保物品は各分隊ごとに配給される仕組み になっていた。これらを受領して配分し、代金を集めるのが酒保係の仕事である。  菓子類など全員に配られる場合もあるが、石鹸やタオルなどの生活必需品は、一度に全 員に渡るほど潤沢ではなかった。だから、その配分には苦労が多かった。だが、主計科に 出入りするので、それなりの役得もあった。  ある日、夕食が終わるとすぐに酒保物品を受け取るため主計科倉庫へ急いだ。本来なら、 課業終了前に行くのだが、その日は飛行作業が遅くなり、夕食後になったのである。 「何しに来た! 今頃来たって何も残ってないぞ!」 と、主計科の下士官に散々嫌みを言われた。それを拝み倒すようにして、どうにか品物を 受領することができた。 「皆はもう風呂にでも入っているのに、損な役割を当てられたものだ……」 と、鹿児島出身の福迫練習生と二人で愚痴をこぼしながら帰ってきた。  すると、デッキの様子がおかしい。ペッタンペッタン餅つきの音がする。バッター制裁 を受けている様子である。しまった! これはまずい、そーっと引き返してしばらく時間 を潰した。頃合いを見計らって素知らぬ顔をしてデッキに帰った。甲板整列はすでに終わ り、同僚は大半が風呂に行き、残った連中は浮かぬ顔をしている。こちらも、何だか後ろ めたい気持ちで、配給された菓子を黙ってテーブルの上に並べた。  考えてみると、酒保係は損な役割のようだが、主計科の兵隊とも仲良くなって、 結構得 をしていたのかも知れない。主計科の倉庫に出入りするので適当に「銀蝿」もした。「銀 蝿」とは海軍の伝統的悪習の一つで、食料や嗜好品などを、正規の手順によらず手に入れ ることである。酒保係の役得であった。       

     戦死と殉職

 ある日対潜哨戒に出た飛行機が予定時刻を過ぎても帰還しない。数日経っても何の手掛 かりもなかった。その時期敵機動部隊の来襲もなかったので、エンジンの故障による不時 着と認定された。百里原航空隊の衝突事故と違い、遺体のない「海軍葬」である。洋上で は墜落場所も確認できないのである。  仮に現場が推定できたとしても、 当時は遺体の捜索や収容などは積極的ではなかった。 搭乗員の戦死の空しさを実感として味わった。デッキでは、遺品の整理も終わり、海軍式 のお通夜が行われた。遺影を飾ってその前に毛布を敷き、 車座になって酒盛りを始めたの には驚いた。 「馬鹿野郎! エンジン故障なら、何で電報一本打ってこないんだ……」 「何を言う、奴ら居眠りしていたんだ、電報なんて打てるもんか」             「それにしてもどのあたりで落ちたんだろう、漁船でも見ていれば……」 「それより、戦死扱いになったんだから、よしとしなけりゃ……」  古参の連中に言わせれば居眠りが原因だと断言する。それぞれ経験があるらしい。長時 間飛行すれば確かに眠くなる。最終のコースで基地に近づけば更に緊張は緩む。しかし、 だれか一人でも事前に気が付けば事故は防げたはずである。  またある日、八丈島派遣隊へ要務飛行で飛ぶ準備をしている飛行機があった。見ている と六番(六十キロ爆弾)を搭載している。人員輸送が目的なのだから爆弾を積まない方が 身軽なのにと思った。ところが、これには別の魂胆があった。空身(からみ)で飛行して 不時着などで死亡すれば殉職である。しかし、爆弾を搭載して飛行目的を「対潜哨戒」に しておけば、事故によって死亡しても戦死として処置できるからである。  これ以外にも、夜間飛行での墜落事故による殉職などで「海軍葬」は再三実施された。 新入りのわれわれは、海軍葬の準備や遺品の整理それにお通夜など、雑用に追い回される 日々が多くなった。そして、死に対する感覚が次第に麻痺してしまったのである。
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[AOZORANOHATENI]