♪嗚呼神風特別攻撃隊♪

蒼空の果てに

     「白菊特攻隊」出陣

 昭和二十年三月、練習航空隊から実施部隊に改編された第十三聯合航空隊は、第十航空 艦隊の命により「白菊」による「神風特別攻撃隊」を編成した。高知航空隊(菊水白菊隊) 徳島航空隊(徳島白菊隊)・鈴鹿航空隊(若菊隊)・大井航空隊(八洲隊)である。これ が世にいう「白菊特攻隊」である。  編成を完了した各航空隊は、離陸発進・接敵・攻撃(体当たり)などの訓練を、昼夜に わたって実施した。そして、着々とその錬度を向上していった。夜間出撃が可能となった 「白菊特攻隊」は、五月二十日、聯合艦隊の命を受け、第三航空艦隊及び第五航空艦隊に それぞれ配属され、ついに「菊水作戦」と呼ばれた「特攻作戦」に参加することになった。  関東方面に備える第三航空艦隊に配属された大井航空隊(八洲隊)と鈴鹿航空隊(若菊 隊)は、「特攻待機」の状態で更に訓練を続行することになった。九州及び沖縄方面に備 える第五航空艦隊隷下の第十二航空戦隊に配属された高知航空隊(菊水白菊隊)は鹿屋基 地へ、徳島航空隊(徳島白菊隊)は串良基地へとそれぞれの作戦基地へ進出展開した。  そして、五月二十四日の「菊水七号作戦」が開始されるや、勇躍基地を飛び立って沖縄 周辺の敵艦船群に対して「体当たり攻撃」を敢行したのである。「白菊」の速力は最大で も百二十ノットと極端に遅く、 爆装すれば百ノットそこそこである。だから、昼間の攻撃 は不可能と判断され、夜明け前に突入する戦法がとられた。そのため、基地を発進したの はすべて夜半であった。(私の調査した資料によると、夜間に発進した「特攻機」は白菊 と水上偵察機のみである) (菊水七号作戦)  昭和二十年五月二十四日         菊水白菊隊   (高知空)  中尉  野田  勉 二〇機   八機 一六名 鹿屋 徳島第一白菊隊 (徳島空)  少尉 須田   治 一四機 一一機 二二名 串良 昭和二十年五月二十五日 菊水白菊隊   (高知空)  一飛曹 坂本 俊実 一五機 一機 二名 鹿屋 (菊水八号作戦) 昭和二十年五月二十七日 菊水白菊隊   (高知空)  中尉  川田  茂 二〇機  九機 一八名 鹿屋 昭和二十年五月二十八日                                 徳島第二白菊隊 (徳島空) 中尉  田中 正喜 一六機   七機 一四名   串良 昭和二十年五月二十九日 徳島第三白菊隊 (徳島空)  一飛曹 北  光圓 一五機   四機 七名 串良 (菊水九号作戦) 昭和二十年六月二十一日 徳島第四白菊隊 (徳島空)  中尉  井上 國平  八機  三機 六名 串良 菊水第二白菊隊 (高知空)  同 古賀 一義  八機  五機 一〇名 鹿屋 (菊水十号作戦) 昭和二十年六月二十五日 徳島第五白菊隊 (徳島空)  少尉  三浦 猛輝  八機  五機 一〇名 串良 昭和二十年六月二十六日 菊水第三白菊隊 (高知空)  一飛曹 春木  茂  六機 一機 二名 鹿屋  以上は出撃月日・指揮官・出撃機数・突入確実と認められた機数及び特攻戦死と認めら れ聯合艦隊告示により全軍に布告された人数である。(防衛研究所資料)  徳島航空隊六十一機、高知航空隊六十九機、 合計百三十機が出撃し、五十六機百十名が 特攻戦死と認められた。このように、六月二十五日の「菊水十号作戦」までに、百三十機 の「白菊」が出撃し、 多数の尊い命が「白菊」と共に大空の彼方へ消え去ったのである。  「白菊特攻隊」に編入され戦死した同期生は次のとおりである。 昭和二十年五月二十七日、神風特別攻撃隊菊水白菊隊。  一飛曹 増田 幸雄(宮崎)         鹿屋基地発進、嘉手納沖の敵艦船群に対し、「体当たり攻撃」を敢行。                            (聯合艦隊告示一五六号) 昭和二十年六月二十五日、神風特別攻撃隊菊水第三白菊隊。一飛曹 春木  茂(愛知)         鹿屋基地発進、沖縄周辺の敵艦船群に対し、「体当たり攻撃」を敢行。                            (聯合艦隊告示二三六号)  「白菊特攻隊」の殿を務めて散華された、春木一飛曹の出撃の模様を紹介する。 すでに沖縄は玉砕し、基地では「いまさら特攻とは」という気分が蔓延していた。だから、 前日出撃した三機は全機引き返している。 六月二十五日、「菊水第三白菊隊」は前日の三機を含めて六機の出撃を予定していた。 一九〇〇から一九三〇までに三機が発進した。ところが、この日も全機が引き返してきた。 春木機は油漏れのため止むを得ず引き返したのである。整備兵を督励して修理を急がせた。 「次の機会を待て、もう出なくてもよい!」 そう言う隊長の制止を振り切って、春木一飛曹は単機で離陸し南の空へ消えていった。  六月二十六日〇〇一八、「ワレ今ヨリ突入ス ユタ ユタ ユタ 」との、春木機から の電信を受信した。この電文は、「我今ヨリ、輸送船ニ体当タリスル」という略語である。 この電信を打ったのは、彼のペアである甲飛十三期出身の岩下武二飛曹であった。  春木一飛曹は予科練では同じ分隊で、 隣の六班に所属していた。正義感が強く、責任感 も旺盛でその行動は積極的であった。分隊対抗や班対抗の競技などを実施する場合、纏め 役の中心で、存在感のある人物であった。その彼が、「白菊特攻隊」最後の指揮官として その名を残したのも、偶然とは思われないものがある。 故海軍少尉 春木茂(谷田部空当時)        *  零式戦闘機     六三一機   九九艦爆      一三五機   白菊        一三〇機   彗星艦爆      一二二機   銀河        一〇〇機   九七艦攻       九五機   水上偵察機      七五機   一式陸攻(桜花)   五四機   天山艦攻       三九機   九六艦爆       一二機     合計     一、三九三機 以上は、昭和二十年四月から六月までの間、沖縄方面の作戦に「特攻機」として出撃し た、機種別の機数である。零式戦闘機は別格として、 練習機である「白菊」が実用機に伍 して、いかに数多く、 特攻作戦に使用されたかを知ることができる。
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