蒼空の果てに

神風は吹かず

日が経つにつれ、終戦の実状も次第に明らかになった。軍隊は解体され帰郷できるとの 話である。また一方では、日本全土は占領され、搭乗員は皆殺しにされるとの噂も流れて いた。まさかと思いながらも、南北アメリカ大陸や、フランス領印度支那それにオランダ 領印度その他南方諸島に対する、西欧列強の過去の侵略の歴史を考えるとき、これを一概 には否定できない真実味を帯びていた。 文永・弘安の役で、対馬や壱岐それに鷹島の住民が、来襲した蒙古軍から受けたような 残虐な仕打ちが、全国各地で再び行われるのだろうか。また、白人に土地を奪われ、騎兵 隊に追い立てられて行くインディアンの悲哀を、映画ではなく、現実のものとして味わう ことになるのだろうか。厚木航空隊の「銀河」が撒いて行ったビラの内容も、将来の我が 国の姿を暗示しているように思われて、不安は増すばかりであった。 要務飛行などに必要な最小限の飛行機以外は、プロペラを外して並べられた。機関銃そ の他の武器も一ヵ所に集められて、種類ごとに整頓した。昔映画でみた忠臣蔵の、赤穂城 明け渡しの場面を思い出させる状況であった。これを海軍式号令で表現すれば、 「大東亜戦争終わり、用具収め!」となるであろう。 《任海軍上等飛行兵曹、依命予備役編入》という、帝国海軍から最後の命令を受けて復員 が決まったのは、八月も終わりに近くなっていた。 持ち帰る最小限の品物を整理して、手荷物にまとめた。そして、不要になった所持品を 焼却することにした。大切にしていた「航空記録」その他も、皆に倣って次々に燃やした。 最後に、「御守袋」を胸のポケットから取り出した。過日、父親が面会に来たとき戴いた ものである。ちょっと拝む仕種をして火中に投じた。  その瞬間、いつの間にか中身の板札が真っ二つに割れているのが、指先の感触で分かり、 慄然たる思いがした。これは、「御守札」が割れることで身代わりになったことを示す、 と言われていたからである。 いよいよ復員できる日がきた。復員証明書といくばくかの旅費を受け取り、思い出深い 「湖畔の宿」を後にして、堀之内駅から汽車に乗った。私は石井勝美兵曹(長崎県壱岐郡 出身)と一緒に帰ることにした。汽車はすし詰めで、おまけに鈍行であった。乾パンなど の食糧は準備していたが、最悪の旅となった。 京都駅で途中下車して、石井兵曹の親戚宅に一泊することにした。浜松、名古屋、岐阜 と焼け野原ばかり見てきた目には、数回の空襲を受けて、相当数の死傷者を出したにして も、比較的被害の少なかった、古い京都の街のたたずまいは、妙に落ち着いた雰囲気を醸 していた。 それにしても、街には店らしい店は開いていなかった。八坂神社の前で氷屋が一軒店を 開けているのを見つけて、氷を一角買った。蜜や砂糖など有るはずがない。オガ屑を拭き とり、タオルに包んで玉垣に打ち付けてカチ割りにした。そして、石段に腰を降ろしてカ リカリと噛んだ。暮れなずむ京都の街並みを眺めながら、物を食べるという事で満ち足り た気分になり、戦争が終わった喜びをしみじみと感じた。 翌朝、しばらく親戚の家に滞在して、様子をみると言う石井兵曹と別れて、今度は一人 で汽車に乗った。広島駅で乗り換えのため下車したついでに、街に出て市内の様子を見て 回った。「七十年間は草木も生えない」と言われるように一面瓦礫の山である。「体当た り攻撃」などでは太刀打ちできない化学兵器の破壊力を、まざまざと見せ付けられた感じ である。 夕方、下関駅に着いた。故郷九州はもう目の前である。関門海峡を見渡すと、おびただ しい数の沈没船が、マストや船体の一部分を海面にさらしていた。この光景を眺めながら、 フト以前歴史の教科書でみた挿絵が頭に浮かんだ。それは「弘安の役」で、博多湾に押し 寄せてきた蒙古軍の大船団が、「神風」に吹き寄せられて、折り重なるようにして沈没す る様子を描いたものであった。 今眼前にみる情景が、本土上陸を目指して、関門海峡に押し寄せた敵艦船群が、「神風」 によって壊滅した残骸であればとの願いが、一瞬脳裏を掠めた。しかし、現実にはB29の 投下した機雷による、わが方の被害であった。 われわれが、心密かに必ず吹くと期待していた「神風」は、ついに吹かなかった。また、 源平の昔、都を追われ壇之浦の合戦に敗れた平家の落人が、九州各地の山奥深く隠れ住ん だ故事を偲びながら、先行き不安な敗戦を現実のものとして認識させられた。また反面、 生きて再び故郷の土を踏むことのできる喜びを、全身に感じていた。
大井空目次へ 次頁へ

[AOZORANOHATENI]