蒼空の果てに

     「名古屋見物ですか?」

    その日は、午前中に甲飛十三期生の訓練を行って、午後は予備士官の訓練を実施した。 各配置の三名を同乗させて、四回目の航法・通信訓練に出発した。航法担当の河本少尉は、 針路二十度で最初の偏流測定を行った。次は、 百十度に変針すると予想しながら飛んでい たが、なかなか変針の指示がない。何をしているのかと、後席を覗くと、航法図板の予定 コースに何か計算しながら、盛んに作図している。  思い当たるふしがある。恐らく直前に同じコースを飛んだ同僚から、本日の風向や風速 それに偏流角などをメモして渡されたに違いない。最初に測定した偏流角が、そのメモと 一致していたので、してやったりと全コースの航跡を作図して記入している様子である。  通信の担当は、基地と交信の真っ最中で外を眺める余裕などない。肝心の見張員配置も、 ただ漫然と風景を楽しんでいる様子である。さーて、 いつ気が付くかと思いながら、その まま飛ぶことにした。四日市の高い煙突を左側に見ながら直進する。名古屋港の防波堤が 見えてきた。入り口に相当広くて平らな埋め立て地がある。いざという時、不時着場所と して充分使えそうである。  市内が望見される。度重なる空襲で、焼け野原となっている。工場の焼け跡に煙突だけ が何本も立っているのが印象的である。こちらも物珍しく眺めていたが、ふと思い直して 伝声管をとり、河本少尉に声をかけた。 「河本少尉、今日は名古屋見物ですか?」 「なにっ! おおっ、これはどうなってんだ!」 「変針の指示がないので、今回から、コースを変更したのかと思って、二十度のまま飛ん でおりまーす」 と、惚けてみたが相当に語気が荒い。すぐに右旋回して南下を始めた。三河湾にある河和 航空隊(水上機基地)を上空から眺めながら、 「河本少尉、帰投時刻は何時にすれば宜しいですか?」 「一六二○だっ!」 「了解しました……」 航法図板上には、既に全行程の航跡図ができあがって、帰投時刻まで計算できているのだ。  道草を食い過ぎて、正規のコースを飛行する時間はない。知多半島南端から右旋回して 飛行場に向かった。 「河本少尉、予定コースを飛んだことにしてくださーい」  本来なら、これは彼の方が頼むべきである。階級が邪魔をしているのだ。こちらが下か らでれば万事が円満に解決する。もしばれたとしても、叱られるのは航法担当と見張員配 置であり、操縦員に責任はない。エンジンを吹かし気味にして、時間を調整しながら帰投 し、予定時刻ちょうどに着陸した。列線に帰るころには、河本少尉のご機嫌も直っていた。
大井空目次へ 次頁へ

[AOZORANOHATENI]