♪梅と兵隊♪

蒼空の果てに

白菊特攻隊出撃せよ!

藤岡 義貴(宮崎市) 今年もまた六月がやってきた。毎年この季節になると、私には特別な感情が湧いてくる。 それは名状しがたいものである。今生きていることが不思議に思えること。生きているこ とが何だか申し訳ないような気持ち。生きていてよかったと思う気持ち。これらが交錯し た複雑な感情である。 今を去る五十数年前、私は甲飛十二期生として鹿児島航空隊に入隊した。予科練を卒業 した後は谷田部航空隊に移り、第三十七期飛行術練習生を命じられ、中間練習機での操縦 訓練を受けた。引き続き姫路航空隊において艦上攻撃機による訓練をけ、一人前の搭乗員 として実施部隊へと巣立った。 大分県佐伯基地に所在する第九三一航空隊に赴任したのは、昭和十九年の年末であった。 ここでは九七艦攻に搭乗し、航空母艦の発着艦訓練その他の錬成訓練が実施された。また、 日向灘や豊後水道の対潜哨戒なども実施していた。 昭和二十年三月、徳島航空隊への転属命令が発令された。徳島航空隊には、第一、第十 一、第二十一の飛行分隊があった。ところが、今度私のように各地の航空隊から転任して きた者は、これらの分隊に編入されずに新たに第三十一分隊が編成された。この分隊は、 戦闘機それに艦攻や艦爆など比較的経験豊富な操縦員だけで構成されていた。変わり種と しては水上機から陸上機に機種転換した者もいた。 私の所属した第三十一分隊は、海兵出身で艦攻操縦員の小柳津中尉が分隊長であった。 分隊士は殆ど予備学生の出身者で、それに下士官兵を含めた約五十名で編成された。そし て、これらの四個分隊を統括する飛行隊長は田中少佐(海兵六十七期)であった。 皆の話を聞いてみると、練習航空隊の教員配置のつもりで赴任したきた者が大部分であ る。ところが古くからいる隊員の話では、学生や練習生を対象にした教務飛行は燃料不足 のため既に中断しているとのことである。そのうえ、特攻隊を編成するという噂が囁かれ ていた。それが本当なら、第三十一分隊は特攻要員として集められたことになる。不安は 増すばかりであった。 四月始め、総勢約二百五十名の搭乗員全員が集められた。ここで、航空隊司令川元大佐 から「特攻隊員を命ず」と宣告された。不安は的中した。「神風特別攻撃隊・白菊隊」の 編成命令が出されたのである。この時期、特攻隊は志願者を募るのではなく、飛行分隊の 所属搭乗員を命令によってそのまま編入したのである。 早速特攻訓練が開始された。第三十一分隊は各地の実施部隊から集められた操縦員ばか りで、「白菊」に乗るのは初めての者ばかりであった。そのため地上でエンジンの性能や 飛行諸元などの説明を受け、操縦員同士が乗り込んで打っ付け本番の離陸着陸の訓練から 始めた。「白菊」は艦上攻撃機に比較して操縦のやさしい飛行機であった。
機上作業練習機 白菊
      徳島空所属の白菊。
  そして、離着陸の訓練が終わると次は昼間の計器飛行に移った。これは、極端に速度の
遅い「白菊」で沖縄特攻を行うには、敵機に発見されにくい夜間攻撃が有利と考えられた
ためである。飛行眼鏡に黒い紙を貼りつけ計器盤だけが見える小さな穴をあけ、淡路島か
ら和歌山そして姫路の上空へと計器だけを頼りの航法訓練を実施した。

  本来このような飛行訓練は操縦員と偵察員がペアになって行うのが普通である。だが、
私たちが正式にペアを編成したのは、出撃が決まり串良基地へ進出する直前であった。

  そのうち訓練は夜間飛行が主体となった。昼間は就寝し夜間に飛行作業を実施するとい
う昼夜逆転の生活がはじまったのである。そして、飛行作業の合間には、種子島から沖縄
本島に至るまでの喜界島や奄美大島それに与論島などの位置と、島の形を覚えることに専
念した。これが終わると、次は艦形識別である。写真やスライドなどを使って、アメリカ
海軍の戦艦・巡洋艦・航空母艦などの形式を記憶するのである。

  これらの訓練は、夜間アメリカ軍のレーダーを避けるため、高度百メートル以下の低空
で進撃し確実に沖縄本当にたどり着くことともに、体当たりの目標である敵艦船の識別を
主眼としたものであった。当時は戦果確認のための友軍機などは飛ばない。だから、自ら
目標を識別して体当たりを敢行し、直前にこれを基地に報告しなければならない。

  戦艦に体当たりする場合は「セタ セタ セタ」と打電し、最後は電鍵を押しっ放しにし
「ツ ―――――――」 と長符を送信する。この電波が途切れた時が即ち体当たりの時刻
であると同時に戦死の時間なのである。「ホタ ホタ ホタ」は敵空母に体当たりするとの
意味であり、 「ユタ ユタ ユタ」は敵輸送船に体当たりするという予め決められた通信略
語である。 

  ところが、 電信機を積んでいる飛行機は少なく、殆どの飛行機は電信機を降ろしていた。
これは五百キロ相当の爆弾を積むために機体重量を軽くする目的もあったが、体当たりし
て消耗する飛行機に電信機はもったいないと言うのが本音である。

  また、たとえ電信機を積んでいても暗闇では出合い頭に集中砲火を浴びて、初めて敵に
気づくような状況のなかで、艦形を確かめて発信する余裕などはない場合が多い。いきな
り撃ってきた防禦砲火に向かって突っ込むことになるからである。だから、どんな艦種に
体当たりしたのか誰にも確認できないのである。
      
  昭和二十年五月二十日二〇四二、徳島航空隊に対して次の出撃命令が伝達された。
「徳島空司令は明二十一日、白菊三十機(昼間組十五機・夜間組十五機)をひきい、串良
基地に進出すべし。」
  
  更に五月二十二日〇一〇八、次の命令を受信した。
「一、進出期日を二十二日に改む。
  二、徳島空司令は五月二十二日一三〇〇までに、更に昼間組二十、夜間組十五の進出準
      備を完了すべし。」

  続いて五月二十二日〇二一四、次の命令が伝達された。
「X日攻撃のため、二十二日中に残余の白菊特攻隊昼間組全機を、作戦基地に進出せしめ
られたし。」
          
  かくして私は、第一陣昼間組の一員として串良基地に進出することになった。昼間組と
は、午前三時前後に発進して夜間進撃し、黎明時に敵陣に到着して攻撃を実施する訓練を
行った組である。これに対して夜間組とは、午後七時から八時にかけて発進し夜間攻撃を
行う組である。いずれにしても、夜間飛行が主体となるので攻撃には月明の夜が選ばれる
ことにっていた。

  出撃命令を受けた二十一日の夜は、搭乗員による壮行会とも送別会ともつかない飲み方
が明け方まで続いた。翌朝飛行指揮所前に集合して、司令川元大佐の訓示を受ける際には
立っていながら上体が揺れている者がいた。

  やがて次々に離陸を開始する。整備科その他各科の連中や、隣接した航空廠に動員され
ている女子挺身隊員に見送られての出陣であった。途中、築城基地に着陸して燃料を補給
したが、ここに到着するまでが大変であった。編隊を組んでいても二日酔いの操縦する機
は右に左に揺れて、今にも翼が接触するのではないかと心配の連続であった。

  しかし、築城基地を離陸してからは整然と編隊を組み見事な飛行ぶりであった。コース
をやや西側にとり、阿蘇や天草上空を飛んで霧島と桜島の間を抜けて串良基地へ到着した。
ところが、いざ着陸する段になると、どの機もみんな異常に高度が低くすぎてやり直しの
連続である。

  着陸して高度計を見てやっと気づいたことは、串良基地は築城基地より標高が高いとい
うことである。普段離陸して同じ飛行場に着陸する場合には、地上で高度計の針をゼロに
規正しておけば飛行場の標高を気にする必要はない。ところが別の飛行場に着陸する場合
は標高差を考慮しないと失敗する。標高ゼロメートルの飛行場を離陸し、標高二十メート
ルの飛行場に着陸する場合は、誘導コースは計器表示二百七十メートルで回る必要がある。
          
  五月二十四日、菊水七号作戦に伴い遂に出撃が下令された。沖縄周辺の敵艦船に対する
「体当たり攻撃」である。私は第一次攻撃隊の昼間組であった。つまり最初の黎明攻撃を
実施することになった。二十四日の夜は、夜間組の発進を帽子を振って見送った。その後、
串良小学校跡の仮兵舎に移って仮眠した。ところが、毛布にくるまって横になっても感情
が昂ぶってなかなか寝付かれなかった。

  午前三時に起床。指揮所の前には白布に覆われたテーブルが準備されていた。川元司令
の「ご成功を祈る」との訓示を聞いて盃を交わした。終わってそれぞれ自分の飛行機が置
かれている掩体壕へ急いだ。すでに燃料が積まれ、二十五番(二百五十キロ爆弾)二個が
両翼に装着されていた。

  そして直ぐに出発できるように整備員によって暖機運転も完了していた。操縦席に乗り
込んで試運転を行い地上滑走で掩体壕から離陸地点に向かっていた。ところが、「攻撃中
止」の指示が伝えられてきたのである。「何事ならん!」と元の掩体壕に引き返した。

  この時期南西諸島方面はすでに梅雨であり、目的地の天候が悪く攻撃目標が視認できな
い恐れがあるための中止であつた。恐らく先に進撃した夜間組の通報を受けたのであろう。
それとも後でわれわれが想像したのだが、九十ノットそこそこの「白菊」が、五時間もか
けて沖縄に着くころには、すでに夜は明け放れている。これでは被害のみ多く、戦果が期
待できないと判断されたのであろう。なぜなら、第一次から第五次までの攻撃はすべて夜
間組によって実施さ、昼間組は出撃しなかったからである。

  そしてなぜかその日、昼間組のわれわれは原隊に帰還を命ぜられた。後ろ髪を引かれる
思いで串良基地を離陸したのである。そして、再び眺めることもないと諦めていた懐かし
い故郷宮崎の上空を飛んで、直接徳島航空隊へ向かった。

  昼間組は新たに転入してきた艦攻や艦爆の操縦員が主力である第三十一分隊で編成され
ていた。だから、われわれを本土決戦に備えて温存したのではないかとの噂が囁かれた。
しかし、真偽は不明である。
          
  徳島白菊隊は、昭和二十年五月二十四日の第一次から、六月二十五日の第五次にわたり、
六十一機が出撃した。その内二十九機が攻撃成功と認められ、井上中尉以下五十七名の者
が「特攻戦死」と認められ、その功績が全軍に布告された。
          
  私たちは特攻出撃に際して、所感文の提出を求められた。これが五十余年前、死を目前
にして絶筆になるであろうと思いながら書いた所感である。当時十八歳であった。

      出撃に際し所感
            第三十一分隊  海軍一等飛行兵曹  藤 岡 義 貴

  出撃に際して特に書くことなし。
  ただ、自分が生まれてすぐから寝たきりとなった母に代わり、
  自分を今日まで育ててくれた父に対し、国のためとはいえ、
  何の恩返しもせず先立つ不幸をお詫びしたい。


  藤岡義貴君は鹿児島空では第二十二分隊の四班で、筆者の隣の班であった。谷田部空の
飛練でも同じ第四分隊で飛行訓練を受けた仲である。機種も同じ艦上攻撃機であったが、
彼は姫路空で訓練を受けた。飛練卒業後の実施部隊でも所属部隊こそ違ったが、対潜哨戒
という同じ任務に就いていた。

  また時を同じくして、第十航空艦隊隷下の部隊に転属となり「白菊特攻隊」に編入され
た。その上彼は、出撃直前の体験までしている。彼が言うように生きていて良かったのか
との思いは同じである。だが、生き残った以上は、英霊の慰霊顕彰に余生を捧げたい。
徳島空白菊特攻隊の勇士
徳島空白菊特攻隊の勇士。
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