甲飛12期の事績

                                                                        
      8−1 はじめに    
                     
 戦争中は畏敬の念をもって迎えられた特攻隊も、戦後は「犬死」としか評価されなくなり
ました。また一部には「自爆テロ」と同一視する方もいます。私は戦争末期、神風特別攻撃
隊の一員として待機しながら、訓練を続けていました。幸か不幸か出撃の機会なく復員する
ことが出来ました。当時の体験を紹介致したいと思います。

 私は昭和2年2月生まれで、現在80歳になります。60数年前を回想すれば感無量です。
私は昭和18年、満16歳で海軍甲種飛行予科練習生として、鹿児島海軍航空隊へ入隊しま
した。当時は「予科練」と呼ばれていました。

 ここで、飛行機搭乗員としての基礎訓練を受けました。信号術や通信術それに、気象学な
ど基本的な知識です。しかし、一番の訓練は搭乗員として体を作るための体育でした。午前
は主に座学ですが、午後は柔道・剣道・銃剣術などの武術、そして夏期は水泳やカッター、
秋になると1万メートル競争や闘球などの球技。そして、冬になると相撲など盛沢山の訓練
を体験しました。

 予科練の期間中に、適性によって操縦員と偵察員に分けられます。私は操縦員に指定され
ました。そして、それぞれの専門分野の知識が詰め込まれるのです。操縦員には飛行機の整
備やグライダーの訓練が加わります。本来これらの基礎訓練は、12ケ月ですが、戦局の逼
迫で私達は8ケ月に短縮されました。

 19年3月、無事に予科練を卒業しました。陸上機操縦員に指定された我々は、茨城県の
谷田部航空隊に移りました。ここで通称「赤トンボ」と呼ばれた、複葉の練習機に乗せられ、
操縦技術を一から教わりました。4ケ月の訓練を終わり、7月にここを卒業しました。次は
戦闘機・爆撃機・雷撃機などの機種別に分かれて、それぞれ機種毎の訓練を受けるのです。

 私は、艦上攻撃機いわゆる雷撃機に指定され、百里原航空隊で操縦訓練を受けることにな
りました。「磯節」で有名な「大洗崎」沖の太平洋が雷撃訓練の場所でした。

 12月末、飛行術練習生を卒業して、いよいよ実戦部隊に配置されました。私は海上護衛
部隊の中核である、903航空隊に配属されました。これには理由があります。百里原での
訓練も終わりに近づいた頃、私は分隊士に呼ばれました。話の内容は、去る10月26日、
長兄の乗った輸送船がフイリピンに向かう途中、敵の潜水艦の攻撃を受けて撃沈され、戦死
したとの公報があったとの知らせでした。そして「兄さんの仇をとれ!」と激励されました。
人事担当の分隊士が、この件を念頭に置かれて、敵の潜水艦を攻撃する海上護衛部隊に配属
して戴いたのです。

 903航空隊では、対潜水艦哨戒や味方船団の護衛などの任務につきました。そうしてい
るうちに、3月下旬大井航空隊に転勤の命令をうけました。大井航空隊は偵察搭乗員を養成
する練習航空隊です。だから、操縦教員の配置につくものと思って喜んで赴任しました。
 
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