甲飛12期の事績


       7−6  まだ死にたくない!  
父上様 母上様 姉上様 在世中は色々と有難う御座いました 此の度 醜敵米鬼に断固反攻すべく 沖縄へと選ばれて征く事になりました かへりみれば 私在世中は思い出深い事ばかりでした 在世中十八年の間 父上母上様の御慈愛により 私も空の特攻として 短い十八年を立派に散る事が出来て 誠に本懐に堪へませぬ 私も台湾沖航空戦に死場所を得たにもかゝはらず おめおめと生き延びて 先に逝った先輩に対して 誠に申訳ないと存じて居ましたが 今度破格にも 漸く立派な死場所を得て此れで先輩にも 父上母上様にも申訳が出来て 何の未練も無く 敵艦に突っ込んで行く事が出来ます 故郷の友達諸君も職場に学窓に又野良に 元気で一生懸命頑張って居る事と 存じますが 私から宜しく言ったと御言傳下さい 中村の叔父様にも その外知人にも宜しく 今生の御別れに一筆記して 一生の離別の辞と致します ではお体を大切に  父上様  母上様  姉上様  御機嫌よう              義 明     二〇、四、一五、
新春お健やかにお迎えの事とお慶び申し上げます。 弟からは、上海より二回ハガキが来ただけです。それと遺書だけが残されております。 昭和二十年四月二十五日の朝、福田さんのお母様がおみえになり、 「今鹿児島より面会しての帰りですが、今すぐに行かれたらまだ息子さんに会えるかも 知れません」と、知らせに来て下さいました。 早速切符を手に入れて、母と二人で夜行列車で久留米を発って、翌早朝西鹿児島駅に着き ました。すぐに、空襲警報にあい、昼ごろまで足止めされました。日豊線も不通となり、 困りましたが、午後四時ごろ開通。隼人駅まで行き、歩いて夕暮れせまるなか、日当山温 泉に着き、その夜は温泉に泊まりました。 翌朝早く出発。歩いて基地に向かう途中、またも空襲警報に会い、ここでもまた足止めさ せられました。昼ごろ解除になり、やっと山にたどり着き、二十七日の午後一時ごろ面会 することが出来ました。農家の庭先で三時間ぐらいの短い別れの一刻でした。 母が折角作って持って行った「おはぎ」も、暑さと長い時間が経った為に、味が変わって 食べられませんでした。残念でなりませんでした。 母が苦心して手に入れた白絹のマフラーと交換に、自分の首に巻いていたマフラーをはず して私達に渡しました。これが唯一の形見となりました。 いよいよ別れるという時に「まだ死にたくない」と、唯一言呟やいたことが胸にジーンと きました。これが最後の言葉となりました。弟から渡されたマフラーには、寄せ書がして ありました。 遺書の上書には「百里空」と書いていましたが、破損がひどく複写出来ませんでした。 遺書と写真をお送り致します、宜しくお願い致します。寒い折りからお身体を大切にお暮 らし下さいませ。                                       ※このお手紙は、神風特別攻撃隊第二正統隊で戦死された同期生、小野義明君の姉上から  「戦没同期生遺書・遺稿集」作成のために送られてきたものです。  小野義明君は遺書を書いたものの、 どうして家族に渡そうかと思案していたと思われま す。そこえ幸運にも福田君の母親が面会に来たので、これ幸いとことづけたのでしょう。 福田君の母親は、 わが子との面会の帰りに久留米市の小野君の家に立ち寄って届けられた そうです。  あの当時、戦死は最高の名誉とされていました。そうは言っても、必ず死ぬと分かって いる「特攻隊」にわが子を送り出す母親の胸中はいかばかりだったでしょう。いくら名誉 だと言われても、わが子の死を願う親はいません。母親の苦衷が痛いほど感じられます。  私も経験したことですが、人間の感情には起伏があります。「特攻隊」に編入された際 には、「よし、やるぞー」と、決心を固めていても、時間が経つにつれて「まだ死にたく ない」との思いが募ってくるものです。だから、小野君が遺書に書き残した決意も本心で あり、母親と面会して、今生の別れに漏らした言葉もまた本音です。  「世間の人は、特攻隊だ、特攻隊だと称えて下さるけれど、本当はまだ死にたくない」。 これが死を翌日に控えた小野君の偽らざる本心だったと思います。だが、そう打ち明けら れても、なす術のない母親の苦衷を察すると、胸が張り裂ける思いです。
目次へ戻る 次頁へ
[AOZORANOHATENI]