白木の箱

遺骨・遺品もない“帰還”

 しょうちゅうとソウメンを遺影に供え、彼岸から迎えた。「あん子が生きちょれば、 六十八歳よ」。お盆の十四日、年老いた母親が小さな声でもらした。孫やひ孫を連れて 集まった子どもたちは、押し黙るしかなかった。    宮崎県都城市に住む増田ミキさんのもとに、白木の箱が届いた。一九四六年五月始め。 長男幸雄さんの戦死の報から、すでに一年近く過ぎていた。箱の中には、遺骨も遺品も 何も入っていなかった。「びんた(頭)ん良か、むじ(可愛い)子じゃした。今でん、 夢を見もんど」  幸雄さんは旧制都城中学から予科練を経て、鹿屋基地の練習機「白菊」隊に入った。 偵察・通信技術を学んでいたところを、特攻に駆り出された。四十五年五月二十七日、 沖縄の海に向けて二人乗り練習機で特攻出撃した。  出撃一週間ほど前に帰宅したとき、ミキさんに元気な表情を見せた。「必ず敵を撃滅 してみせる。これが最後の別れになるかもしれない」。十七歳の若い命だった。  練習機まで駆り出すことには当時、軍内部でも異論があった。鹿屋を指揮していた、 宇垣纏・第五航空艦隊司令長官は、幸雄さんたちに出撃を命じたときの日記に「斃れて も尚戦うのみ!」と書いている。戦争の「狂気」をだれも止めることはできなかった。  六年前に先だった夫との間に、ミキさんは幸雄さんら男四人と女四人をもうけた。孫 は五人、ひ孫も十五人に増えた。夫婦で米や野菜をつくり、牛馬を飼って生計を立てて きた。今でも朝夕は、牛のエサを作ったりして体を動かしている。  三年ほど前から足腰が痛み、鹿屋市の特攻慰霊祭に参列しなかった。その代わりにと 今年四月初め、同居している三男の畜産業瞳さんに連れられ、改築された鹿屋航空基地 史料館を初めて見学した。特攻コーナーに飾ってある幸雄さんの遺影の前に立ち「旧館 の写真に比べ、こも(小さく)なっさね、写りがわるないもした」と残念がったという。  沖縄県糸満市に、宮崎県出身の戦死者の慰霊塔が建っている。元気なうちに一度、沖 縄の地を訪ねたい…… 。幸雄さんを失ったミキさんの慰霊の旅はまだ続く。