蒼空の果てに

八月十六日の特攻

      ☆「宇垣特攻」八月十六日説の裏付け。 ★アメリカ側証言の要約はつぎのとおりです。  「特攻宇垣長官機最後の真相」(歴史研究家 大沢博)  “ポツダム宣言”受諾の日本政府の公電が、スイス駐在の加瀬公使を通じて発せられた のは、 十四日の深夜である。これを受けたアメリカ政府が、やはりスイス経由で日本軍の 戦闘行動を中止せよと指示した通告文を発し、これが届いたのが十六日午前である。 ◎クライド・タルボット氏(リバティ船チャールス・E・スミス号船員)当時沖縄本島の 本部半島の先端近く(対岸に伊江島がある)に停泊していた。       日本がポツダム宣言を受諾したことは、八月十四日の朝、スピーカーで流したので知り ました。そのときはみな何かのまちがいで、本当ではないと思っていました。……カミカ ゼからの防御方法として……煙幕をはっていました。……ところが、十四日の朝からそれ がまったく行われなくなった。船団についていた対空護衛艦も近くから姿を消し、小型護 衛空母も私たちの船とならんで錨をおろしてしまった。  十五日になっても同じ状況が続き、多くの人たちは上陸してしまい、……この日の夕方 からは灯火管制もとかれ……七時半ちかかったと思います。……甲板にいた私は突如とし て数機の爆音を……だれかが「カミカゼだっ!」とどなりました。……私はその間、七機 のカミカゼを数えました。    ◎ウェーシー・ハーガソン氏(対空護衛艦デストロイヤー乗組員)当時本部半島と伊江島 の中間点に停泊していた。  その日(八月十五日)は乗組員のほとんどが上陸していた。日本が負けたことは十四日 の朝、“ポツダムの条件”を受け入れたと聞いていたが、その日(十四日)の午後になっ てはっきりと、日本が降伏したことを伝えられた。  そこで十五日は朝から、いままで行われていたカミカゼに対する総ての防衛行動が停止 となり、私には上陸がゆるされた。……午後七時三十分ごろだったと思う。……七〜八機 はいたと思う。……「カミカゼだ!」と私たちはおどろいて、……やがてカミカゼは、は げしく火をふき出し……    ◎ダニイ・ローズウェル氏(当時LST296号の甲板長)伊平屋島のキヤンプへ食糧輸 送中。「その日のことはよくおぼえています」……八月十五日の午後四時二十分ごろ、私 のLSTは、キャンプに近い砂浜に食糧をおろしていました。……七時四十分ごろ、…… にわかに、エンジンの音がして……だれかが「ジャップだ!」「カミカゼだっ!」とどな りました。 ★以上の証言で疑問になるのは、日本政府の“ポツダム宣言”受諾の決定は八月十四日の 御前会議です。それを、スイス駐在の加瀬公使を通じて通告したのは八月十四日の深夜で す。なのに、これをアメリカ軍の最前戦の兵士が知ったのが同じ八月十四日の朝となって います。 ★解説すれば、これはアメリカ側の日付と日本側の日付では、一日の差があるからです。 彼らの記憶が正しいとすれば、八月十五日の「カミカゼ」は、宇垣長官の特攻と推定され ます。即ち、彼らの言う八月十五日とは、日本の日付では八月十六日となるのです。 ★日本の真珠湾攻撃は十二月八日と発表されました。ところが、アメリカでは十二月七日 です。これは日付変更線にかかわらず、お互いに自国の歴日を使用しているからです。 特に公式記録では、時刻を現地時刻で併記して採用する場合があっても日付はすべて自国 の暦日を使用しているのです。 ★1945年9月2日のニューヨークタイムズに、ミズリー艦上での「降伏文書調印」の 状況が写真入りで掲載されています。降伏文書の調印は日本では9月2日に行われました。 アメリカでは9月1日のニュースが、9月2日の新聞に掲載されたと云う訳です。 ★私は未読ですが、近代史家の秦郁彦氏が、米軍を調査して得た情報の一つに、 「ワ−ルド・アルマナック」という日誌があるそうです。その1945年8月15日に、 「終戦の通報12時間後に2機の特攻機が沖縄本島30マイルの伊平屋島に突入した」と 記録されているそうです。「終戦の通報」とは、アメリカ政府がスイス経由で日本政府に 発した「日本軍の戦闘行動を中止せよ」との通告文のことに違いありません。  また、15日08:00に米機動部隊艦艇に対し、米大統領の「停戦メッセ−ジ」が流さ れたとも記録されているそうです。 ★アメリカ側の十五日、即ち日本では十六日に当たり時間的にも辻褄が合います。 ☆「宇垣特攻」八月十六日説の証言者。 ★自衛隊時代に初めて「宇垣長官の出撃」は八月十六日だったと私に言った鶴谷一尉は、 決して虚言を弄ぶような人物ではありません。また、同席していた甲飛先輩の木船三佐も、 敢えてこれを否定しませんでした。 ★私の同期生、出直敏君やその父親の話は既に述べました。当時出君は「宇垣長官の出撃 が十六日であることは大分では誰でも知ってる」と話していました。これを裏付けるよう に、豊の国宇佐市塾発行の「宇佐航空隊の世界」に、中津留大尉が宇佐航空隊で教官をさ れていた当時の話や、八月十六日に沖縄に向かって出撃したことが記されています。 ★当事の関係者は、命令に従って突入した隊員を「戦死」と認めさせるため、八月十五日 の突入として発表したものと思われます。だから当事者の発言は、戦死者の名誉を護るこ とに重点が置かれているものと考えられます。問題の核心はここにあるように思われます。    ☆アメリカ有力紙の報道。  私は今まで、自分で調査した資料をもとに、終始「十六日説」を唱えてまいりました。 そんな私に強力な協力者が現れました。それは Miss Satomi Maekawa です。彼女は現在 アメリカの大学に留学中の学生です。図書館等に保存されている当時の新聞を調査して、 関連記事のコピーを送ってくれたのです。その中から、ワシントンポスト紙の決定的記事 を紹介致します。皆様も訪米する機会がありましたら、ぜひ図書館を訪れて、当時の新聞 記事を確認してください。

WASHINGTON: THURSDAY: AUGUST, 16, 1945
Kamikazes Hit Yanks 30Hours After 'Peace'
 前にも述べたとおり、私は特攻隊の生き残りとして、特攻隊の真実の姿を後世に残した
いとの願いから、真相の解明に努力を続けてまいりました。しかし「宇垣特攻」には日時
以外にも、未だ不明な点が数多く残っております。

 中津留大尉はなぜ五機の命令に対して十一機を編成したのか。そして、なぜ熟練搭乗員
を残して若年搭乗員を主体に搭乗割を作成したのか? また、標準装備でもなく訓練さえ
行っていない80番に積み換えさせたのはなぜなのか? 等々です。皆様のご協力を得て
今後とも真相の究明を続けたいと思っております。             ー終わりー
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