蒼空の果てに

     魚雷を抱いての着艦について。 (15−11−27)

 艦攻が敵を見ずに帰投した場合、魚雷や爆弾は投棄して着艦するように決められていま
した。800キロの魚雷を抱いたままでの着艦は危険だからです。着艦指導灯のパス角度
は母艦の場合、合成風速15メートルで 6.5度にセットされています。陸上基地で訓練
する場合には、風速に応じて 4.5度から 5.5度にセットされます。

  九七艦攻はフラップを45度降ろし、機首角度アップ2度でパスに入ります。スピード
は65Ktです。この時、800キロのの魚雷を抱いていたらどうなるでしょう。沈下率は
大きくなりバス角度は7度から8度にしなければなりません。これでは甲板に叩き付けら
れるような状態になり、脚が持ちません。

 では、セットされた 6.5度のパスに乗ったとします。この場合、エンジンを吹かして
速度をつけ、引っ張り込む形になります。必然的に機速を70Kt以下には落とせません。
艦尾を通過して引き起せば、機速が残っているのでバルーニングして機は浮きあがります。
それでは、引き起こさなければどうなるでしょう。尾部が上がったままなので、制動索に
フックが繋りません。何れにしても、着艦は危険なのです。

 但し陸上基地の場合は、尾部が上がったままの2点着陸でも、徐々にスピード落として
いけば着陸は可能です。

 ノンフィクションと称する戦記の中にも、我々当時の体験者からみれば、誇張や勘違い
それに伝聞を元にした創作などが数多く見受けられます。これらを取捨選択し、眞の史実
を後世に残していきたいと思います。


 「海軍くろしお物語」福地周夫著から抜粋。
 貴重な爆弾や魚雷を海中に投棄した飛行機を、つぎからつぎと収容しているさなかに、
艦攻隊長市原辰雄大尉は、部下五機とともに八百キロの魚雷を抱いたまま「翔鶴」の上空
に帰ってきた。予備品の少ない大事な魚雷ではあるが、魚雷を抱いたまま着艦することは
きわめて危険であるので、魚雷を海中に投棄するよう、艦から市原隊の各機に伝えた。
「われ魚雷を抱いたまま着艦す」と信号し、全乗員が息を呑んで見守る中を、まるでトン
ボが菜の花に止まるようにスーと着艦、停止した。(以下省略)

※海軍兵学校出身の市原大尉が、艦長の命令を無視してまで、魚雷を抱いたまま着艦する
必要があったのでしょうか。いくら着艦に自信があったにせよ、危険を侵してまで魚雷を
抱いたまま着艦するとは考えられません。

 また、次のような一節があります。
 「運用長! 油槽艦を航空母艦と間違えて報告した索敵機の偵察員は、正規の索敵員で
はなくて、補欠の索敵員だったそうですよ。(以下省略)」
※母艦の搭乗員の配置からみて、補欠の索敵員て何のことでしょう?。

 このとき、萩原大尉機から、つぎのような電報がきた。
「操縦員戦死。われ、これに代って機を操縦し帰艦しつつあり」
※九七艦攻で偵察席から操縦席に移って、機を操縦するなど不可能と思います。

 なお、福地周夫氏は搭乗員ではありません。これ以外にも伝聞と思われる個所が見受け
られます。本人も「正史にあらわれていないうら話てきなもの」と断り書をしています。

※「市原大尉の今日の着艦は見事だったなー」「そうだ! あれなら魚雷を抱いたままで
も着艦できたかも知れない!」 飛行甲板勤務の整備員の話題。
これを伝え聞いた、実情を知らない艦内勤務員の会話。
「おい、整備員が話していたが、今日市原大尉が魚雷を抱いたまま着艦したそうだよ!」
「ウワー、凄いなあー」 こんな伝聞も否定できません。
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