自衛隊こぼれ話

キャプテン・カレンスキー

 連日の設営作業で最低限の生活の場は確保できた。しかし、衣食住すべての面で、不自由な 生活を強いられていた。だが、ここでは勤務時間以外は自由に外出できた。本土の基地と違い 離島サイトでは「外出証」などは無用であった。  自衛隊が運行する朝夕の定期便以外に、アメリカ軍も随時海岸までトラックを運行していた のでこれに便乗して山を下る。ところが、長浜の集落まで外出しても、酒を飲む以外に何一つ 遊べる場所はなかった。  日曜日など昼間から酒を飲むのは気がひける。夏の時期だから海水浴ぐらいが暇潰しの手段 だが、何時間も海に浸かるわけにもいかない。とにかく時間を持てあましていたのである。

長浜海岸で海水浴。上左端下右端が筆者。

 集落のやや奥まった所に、「長光寺」という真宗のお寺があった。私はよくこのお寺を訪問 した。実家と同じ宗派であったが参詣が目的ではない。年ごろの美人の姉妹がいたからである。 都会的な雰囲気にひかれ、暇をみてはお邪魔していた。兵庫県の加古川市で育ち、父親の転任 でこの島に来たとのことである。私の田舎では、お寺の院家は世襲であった。だから、院家が 転勤するとは初めて聞く話である。  彼女達も単調な島の暮らしには馴染めないらしく、以前住んでいた加古川での生活を懐かし んでいる様子であった。だから、話相手が欲しかったのであろう、 私がお伺いすると菓子など を出して歓待し、四方山話で退屈を紛らわせていたのである。
                *       その当時、アメリカ軍のコマンダーはキャプテン・カレンスキーという、非常に厳格な軍人 であった。われわれは下甑島サイトに移駐した後、カタコトの英語を使ってアメリカ兵と仲良 しになり、彼らのNCOクラブに入り込んで、玉突きや輪投げみたいな他愛のないゲームなど で暇を潰していた。  タバコは弗を持たないわれわれは直接BXでは買えないので、彼らから分けてもらっていた。 その当時アメリカ兵の給料は、100弗程度であった。衣食住付きでわれわれの3倍以上であ る (当時為替レートは1弗が360円) 。ところが、独身者は半額が留守宅に渡されるうえ、 特別の事情がなければ日本円では支給されないらしく、遊ぶためにも日本円を欲しがっていた。 お互いに利害が一致するので裏取引は円滑に行われていた。  だが、キャプテン・カレンスキーに知れると大変なことになる。キャメルやラッキーストラ イクなどのアメリカ軍人用のタバコはノータックス(無税)だから、日本人に売れば税法違反 として処罰されるとのことで、アメリカ兵も袋の封を切って渡してくれた。  また、補給のため定期的に運航されるアメリカ軍のLSM(上陸用舟艇)は、その都度映画 のフイルムを運んできた。夕食が終わるとメスホール(兵員食堂)は壁にスクリーンを張って 映写室に早変わりする。暗くなるのを見計らってわれわれも潜り込んで見物する。主として西 部劇などの娯楽物だから、字幕などなくても結構楽しめるのである。  ところがある日、運悪くキャプテン・カレンスキーに見付かった。逃げ遅れた3名の隊員が、 アメリカ軍通訳のケントを通じて説教をうけた。 「このムービーフィルムは日本に輸出した物ではない。故に、諸君がノータックスで映画を見 ることは脱税行為である……」 と言って、散々絞られた。誰が見ても減る物ではないのにと、陰でののしっても、彼にかかれ ば、どう仕様もないのである。  ある日、アメリカ軍からの要請を受けてLSMの荷揚げ作業の加勢に行った。すると彼らが 口笛を鳴らし、歓声を上げて手を振り歓迎の意を表している。見るとフースルテナン(中尉) がジープで上陸してきた。腰にピストルを下げ、後席にはアルミ製の頑丈なトランクを積んで いる。給料の支払いに来たのである。日ごろは、のんびりした働きしかしないアメリカの兵隊 連中も、「ペイディ」の作業は迅速であった。  米軍の給料の支払いの要領は自衛隊とは違う。自衛隊では予め計算して給料袋に詰めて各人 に渡すのに、米軍はその場で札束を数えながら渡している。横にはピストルを持った軍曹が看 視している。ギャングの国の軍隊の一面を覗く思いである。  また、ここのアメリカ兵はよく罰直を受けていた。兵舎の前広場で「控え銃(ひかえつつ)」 をしたまま30歩ばかり前進する、「回れ右」をしてまた元の位置に戻る。このように単調な 動作を延々と繰返すのである。ご丁寧にこれを監視する為の兵隊まで付けている。昼食時間に は罰直を中断して、休憩が終わるとまた開始する。  また数人で、道路の横に大きな穴を掘っていた。演習のため塹壕でも掘っているのかと見て いると、今度は今掘ったばかりの穴を埋め戻している。それが終わるとその横にまた新しい穴 を掘り始めた。皆でガヤガヤと騒ぎながら楽しそうにやっている。聞くところによると、これ もアメリカ式の罰直とのことである。  軽い規律違反程度の者に適用しているのであろう。これを見ていると、アメリカ軍の合理主 義も当てにならない気がする。 穴を掘ったり埋め戻したりでは何の実益もない。帝国海軍なら、 さしずめ厠当番(便所掃除)とかバス当番(風呂掃除)など、実のある作業をやらせるところ である。  ただ感心することは、遠く祖国を離れての勤務にかかわらず、彼らは常に明るく屈託がない。 休日などには、海岸の砂浜に集まって場所に応じた略式ルールでフットボールを楽しんでいる。 次には、モータープールの横の空き地にネットを張ってバレーボールを始めた。われわれにも 入れと言うので参加した。ところが、ルールが違うのでなかなか馴染めない。  場所が狭いのでここだけの特別なルールかと思って参加していた。ところが、後で考えると あれは「6人制バレー」のルールであった。 われわれが知らなかっただけである。          *  自衛隊が移駐して間もないある日、彼らが仕事もせずに昼間からビールを飲んで騒ぎはじめ た。何事かと思っていたら、「独立記念日」であった。 ゼームスと呼ぶサージャンがいた。 彼は酒保やNCOクラブなどの管理を担当していて、特別にショップ(仕事場)をもっていた。 なぜか私には好意を持っていた。  暇ができたら遊びに来いというので、仕事を早めに切り上げて、メスホールの横にある彼の ショップに行った。すると、濃緑色の瓶に入ったビールを盛んに勧める。どこかヨーロッパの 都市の名前を言って、 そこからの輸入品だから上等だと強調している。  普段彼らが飲んでいるアメリカ産のビールはあまり上等ではなかった。それに比べれば確か に美味しい。だから、日ごろは彼らも好んで日本製のビールを飲んでいた。どこの産であれ、 ロハで飲めるのは嬉しい。 「ベリーグット!」「ベリーナイス!」と、お世辞を言いながら腹一杯いただいた。
   またある時彼から、今夜御馳走するからメスホールに来いとの連絡を受けた。行ってみると、 隅のテーブルで数人の兵隊が大きなステーキを食べている。魚の干物と味噌汁だけの自衛隊か らみると大御馳走である。勧められるままに食べ始めたが、不味くて食べられない。彼らをみ ると、卓上にあるソースやケチャップなどをタップリとかけて旨そうに食べている。  彼らは日本のように肉に味付けをして焼くのではなく、焼いた肉に自分の好みに応じて味を 付けるのである。だから、 どの料理も一般に大味である。そのため、 卓上にはソースだけでも 数種類が置かれている。その点日本の料理はそれぞれに味付けしている。食生活の違いである。 自衛隊の食卓に有るのは漬物にかける醤油ぐらいだが、彼らのテーブルの上にはケチャップ類 やソース類それに胡椒・食塩・砂糖など盛りだくさんである。
 またこんな事があった。彼がセメント袋に似た大きな紙包を持って帰れと言う。相当な重量 がある。帰って開けてみると直径5〜60センチ厚さ10センチ程度の円盤状の物が出てきた。 フスマ(大豆油の絞り粕)そっくりで、 表面に青カビが生えている。終戦直後ならいざしらず、 いくら自衛隊員が食べ物に不自由していると言っても、フスマなど喰えるかと思って炊事場の 棚に放置していた。  ところが、隊員の中にも物知りがいた。匂いを嗅いでこれはチーズではないかと言い出した。 さっひく包丁で切ってみると間違いなくチーズである。表面の堅くてカビの生えたところを削 ぎ落として、中身を試食した。旨い! 日ごろ、アメリカ兵の食べ物は味気がなくあまり好き ではなかったが、このチーズばかりは焼酎のツマミに最適で、瞬く間になくなった。                 *  長浜海岸の東端、専用道路の上り口の右側にアメリカ兵相手のスタンドバーがあった。ここ でも彼らと一緒に飲む機会が多かった。割勘は「ダッチカウント」という。だが、一緒に飲ん で困るのは精算である。彼らはすべて足し算で計算するので手間がかかる。日本人なら金額を 人数で割り一人当たりを計算する。ところが、彼らは納得せず人数分の足し算をして確認する のである。  釣銭も同じで、日本人は出されたお札の金額から品物の値段を引いて釣銭を計算する。とこ ろが、彼らは引き算ができない。品物の値段にお札の金額になるまで釣銭の額を足し算する。 福岡県職員研修所での吉川教授の講義を懐かしく思い出した。  またこの店は日本人の経営なので、建前として使えるのは日本円である。ところが、裏では 弗を日本円と交換しているとの噂もあった。また、アメリカ兵がBX(酒保)から持ち出して きたウイスキーなども闇取引している様子であった。  ある夜、例によってカウンターでビールを飲んでいた。日本の店なら帰る時にまとめて勘定 をするのだが、ここはアメリカ方式で1本ごとに前金で払う。面倒だが仕方がない。何本目か の栓を抜いたばかりの時であった。突然電気が消え暗闇の中で喧嘩が始まった。誰かが殴られ ている様子である。何か、 怒鳴り合っているが私の語学力では意味が分からない。  これはまずい、巻き添えを食っては阿呆らしい。 「君子危フキニ近寄ラズ」。買ったばかり で飲み残しのビールには未練があったが手探りで外に出た。資金欠乏の折りに大損害である。  翌日睡眠不足の頭でボンヤリと机に向かっていると、アメリカ軍の通訳のケントが事務室に 来て、昨夜スタンドバーで飲んでいた自衛隊員を、キャプテン・カレンスキーが呼んでいると 言う。昨夜あそこに居たのは私だけだが何のことだろう、映画の件は済んだはずだしアメリカ 煙草も最近買った覚えがない。恐る恐る部屋に入った。すると、 「ホワーイ! デッユー ヒット フースサージャン(先任下士官)?」 と、詰問された。何の事やら理解できない、昨夜の喧嘩ならこちらが被害者である。しかし、 何と説明したらよいやら適当な言葉が浮かばない。下手にしゃべって言質を取られても困る。  「ノゥ アイドントノー アイ ドリンク ツーマッチ ラストナイッ アイム ステンコ ステンコ ヘット タイフーン……」 と、思いついた単語を並べて早々に逃げ出した。  出口のところに金髪のジミーがいた。 「ハーイ」 と言って片目をつぶり、ウインクしている。昨夜は彼も確かにバーにいたはずである。  しばらくすると、また通訳のケントが事務室に来た。彼の説明によると日ごろ兵隊連中に 憎まれていたアメリカ軍の先任下士官が、昨夜あのスタンドバーで数名の兵隊から袋叩きに されて負傷したらしい。傷はたいしたことはないのだが、彼は自衛隊の下士官に殴られたと キャプテン・カレンスキーに報告したと言うのである。 「冗談じゃない! いくら先任下士が小柄だと言っても、われわれ日本人から見れば大男だ! 俺が他の兵隊連中のいる前で、一人で喧嘩できるわけないだろうが……」 と、昨夜の状況をケントに説明した。  先任下士官が殴った兵隊をかばったのか、それとも自分の面子にこだわり、部下に殴られた とは言えずに嘘をついたのであろう。いずれにしても、人を馬鹿にした話である。面白くない。  夕方山を下りたが、昨夜の件があるのでスタンドバーには行きづらい。いつの間にか、足は 自然とお寺に向かっていた。裏に回って姉を呼び出した。そして、 「頭を坊主にしてくれんね……」 と、頼んだ。あらかじめ考えていたわけではなく、急にその気になったのである。   「得度(とくど)なさるおつもりですか?」 笑いながらそう言って、道具を取りに奥へ入った。別段そんな気はないのだが、何かすっきり としたい気持ちであった。広縁に腰を降ろして待っていると、 妹も一緒に出てきた。そして、 さっそくバリカンで髪を刈り始めた。               「剃りましょうか?」 そう聞かれたが、 「いやー、これでさっぱりした、ありがとう……」 そうお礼を言って、帽子を目深に被って立ち上がった。二人とも何か聞きたそうな素振りをし ていたが、黙って見送っていた。  他に行く当てもないのでまたスタンドバーに入り、帽子を脱いでカウンターに腰を下ろした。 「ヘーイ ナガスー ホワーイ?」 どやどやっと、数人のアメリカ兵が取り囲んできた。中には笑いながら握手を求める者もいる。 それぞれがビールを持ってきて注いでくれる。
「トゥスト!」「トゥスト!」 と、大はしゃぎである。彼らも昨夜の事件に、私が無関係なことは知っている。だから、私が 坊主頭になったのを見て罪を被ったとでも思ったのであろう。 「どうだ! お前ら、俺のお陰で穴掘りをせずにすんだのだぞ!」 と、啖呵の一つも切りたいところだが、残念ながらそれだけの語学力は私にはない。  ところで、キャプテン・カレンスキーも、私の体つきを見れば事情は推察できたはずである。 それでも、先任下士官の申し立てを認めたかたちで事件の詮索を打ち切ったのであろう。その 件でアメリカ兵が処罰を受けた様子もなく、自衛隊に対して正式な苦情の申し入れもなかった。      *  ジャールド・マックメーンという兵隊がいた。日本語が非常に上手であった。 「君は日本に来て何年になるの?」 ある時、 そう話しかけた。 「スリーマンス」 との答えが返ってきた。                     「三ヵ月で、これだけ日本語が話せるとは、君の頭は優秀だ……」 と言って、褒めてやった。すると、 「アイ アム ジャーマニィ!」 そう言って、胸を張った。ゲルマン民族としての誇りをもっているのだ。その彼も、酒を飲み ながらの馬鹿話ならある程度通じていたが、真面目な話になるとやはり無理があった。ある時、 「俺は太平洋戦争中ペティーオヒサー ファーストクラス(1等下士官)でトービードウ ボマー (雷撃機)のパイロットであった」 と、話したことがある。ところが、彼は納得しない。
「アメリカ軍ではすべてのパイロットは士官である。もし君が、太平洋戦争中のペティーオヒ サー ファーストクラスなら、なに故に今、スタッフサージャン(3等空曹)なのか?」 これを理解させるには、彼の日本語の理解力と私のカタコト英語では不可能であった。
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