自衛隊こぼれ話

     臨時美保派遣隊

 昭和32年6月、幹部候補生課程を無事卒業した。見習幹部に任命され、最初に配属された のは輸送航空団の編成途上にあった臨時美保派遣隊である。この部隊は、 翌年10月の編制改 正により正式に輸送航空団となった。  当時の臨時美保派遣隊はアメリカ軍から供与されたC46輸送機を装備して、乗員の訓練を 行うとともに、空中輸送業務や陸上自衛隊の空挺協力、それにパラドロップ(パラシュートに よる物資の投下)の研究などを行っていた。そのため、アメリカ空軍板付基地や立川基地など、 航空自衛隊の管理する以外の飛行場へ飛行する機会が多かった。            この場合、乗員には予算の関係で出張旅費は支給されない。「訓練演習費」や「糧食費」な どの予算を使い、宿舎を借上げて宿泊給養を実施していた(実際は旅館に宿泊して書類で操作) ところが国の予算執行は手続きが面倒である。そのため会計隊員が随伴して業務を処理するの が恒例となっていた。   ちょうど私が赴任する直前に、C46輸送機が美保基地西側の中海に墜落して、10数名の 殉職者をだした。その引き揚げられた機体の残骸がエプロンの端に置かれていた。当直勤務で 夜間巡察の際など、この残骸が風にあふられて「ギーイ、ギーイ……」と、泣くような音を出 しているのに出会い、気味の悪い思いをしたものである。
 この事故の後遺症があったのか、場外飛行などの際に乗員に対する宿泊給養などの業務支援 をする役目は、新任幹部の私に割当てられることが多かった。お陰で久し振りに飛行機に乗る 機会に恵まれた。当時の飛行隊長は二階堂2佐で、開戦初頭のマレー沖海戦に参加された歴戦 の勇士である。また、 飛行隊の機長クラスは、ほとんどが旧陸海軍の出身で戦争経験者ばかり である。コパイ(副操縦士)には若い大学出の幹部候補生出身者が配置されていた。  飛行中コックピットに入り、操縦席に座らせてもらった。旧海軍機とは逆で、左側の座席が 機長でコパイが右側の座席である。これもアメリカ軍方式なのであろう。自動車のハンドルの 位置が左右逆なのと同じ発想であろう。操縦装置や計器盤の配置などは旧海軍機と似通ったと ころが多かった。           C46輸送機。
      *  この年は、ソ連が大陸間弾道ロケットの実験を開始し、10月には初めての人工衛星の打ち 上げに成功した。米・ソの宇宙開発競争は益々激化してきた時期であった。    その頃、アメリカ空軍が新たに装備した、ロッキードC130(ハーキュリーズ)が、デモ フライトのため美保基地に飛来した。ターボプロップエンジンを四発搭載した最新鋭機である。 大型機の割にC46より遥かに短い滑走距離で離陸することができる。また離陸上昇も想像以 上に急角度である。  次に外側のエンジンを止めて、内側の2個だけのエンジンを使っての離陸も実演した。また 着陸の際にはプロペラピッチを変更することで、極端に短い滑走距離で停止する。われわれの 目前で盛んに「タッチ アンド ゴー」を繰り返していた。    説明によれば、巡航速度は300ノット以上で、積載量は完全装備した空挺隊員で64名、 普通兵員なら100名近くを1度に輸送できるとのことである。それ以外の性能も申し分ない らしい。  飛行隊の関係幹部も交替で試乗していた。要するに、輸送担当部隊の首脳陣にその優秀性を 印象づけることで、航空自衛隊の次期装備機としての売り込みを計っていたのである。  
 ところが航空自衛隊では、YS11の開発との関連があったのであろう、この優秀機の採用 を見送ってしまった。次に、ターボジェットエンジンを搭載したC1輸送機を開発して装備し た。国産機優先採用の国策なのか、それとも裏に政治家絡みの問題があったのかも知れない。 というのは、30年後(私が停年退職した10年後)になって、防衛庁がC130を導入する ことが報道されたからである。これには驚くよりも情けなくなった。  対米貿易摩擦解消の一環なのか、それとも、沖縄や硫黄島の復帰に伴い、長距離輸送の必要 が生じたことなどの理由もあるだろう。しかし、何のための国産機開発優先だったのか、また あの時点で、C130の採用を見送った本当の理由は、一体何だったのか。結果的には当時の 長期見通しが甘かったといわれても仕方がないであろう。  いくら優秀機であっても、30年も経てば骨董品ではなかろうか。また裏を返せば、逐次改 良を加えたにしても、30数年後の今日に至るまで、第1線で活躍できるC130は、何と優 秀な飛行機であったことか、今更ながら感心した次第である。          C130輸送機。
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