自衛隊こぼれ話

幹部候補生学校へ 

 昭和32年2月、航空自衛隊に入隊してからまる2年、ようやく念願が叶って幹部候補生の 選抜試験に合格した。これで幹部昇任への夢が現実となったのである。希望も新たに、奈良市 法華寺町に新設されて間もない、航空自衛隊幹部候補生学校に入校した。  われわれ第10期の幹部候補生は、防府市で第1航空教育隊と同居していた幹部候補生学校 が、奈良市に移転して最初の入校学生となった。そして、第10期生37名で第8区隊が編成 された。区隊長は岸1尉、学生隊長は吉田2佐であった。
幹部候補生学校講堂。
 3月末になると、防衛大学校の第1期生が入校してきた。続いて4月初めには、一般大学出 身の第11期幹部候補生が入校した。部内出身の第10期生は、営内生活の未経験な第11期 生の指導候補生として、各区隊に2名づつ配属されることになって、その希望者が募られた。  同期生の中にはこれを敬遠する者もいたが私は進んでその職務に当たった。ベッドのとり方、 毛布のたたみ方を初め、整理整頓の要領その他、営内生活全般にわたって基礎から指導した。 根気のいる仕事である。だが、新しい交友関係が生まれることは楽しいことであった。             *  奈良基地は幹部候補生学校だけでなく英語教育隊も同居していた。アメリカに留学する隊員 や、パイロット要員に対して英語教育を行うのが任務である。暇をみては、「エビエーション イングリッシュ(パイロット要員の英語教科書)」を読んだり、ブース講堂を利用して英会話の テープを聞いたりした。  ところが、このテープから流れる英会話は、サイトで酒を飲みながらアメリカ兵相手に馬鹿 話をしたのと違って、サッパリ理解できない。これは駄目だ! とても物にできそうにない。  そもそも、江藤2尉がエルミネートされたのも語学力不足が原因である。T6練習機で操縦 訓練中、突然翼内タンクから燃料が噴出した。燃料タンクの蓋の締め付け不良が原因である。 とっさにエンジンをカットして、火災も起こさずにどうにか飛行場まで持ち込むことに成功し た。これは、過去の操縦経験の賜物である。  ところが、その間管制塔やアメリカ軍教官へ適切な報告ができなかった。したくても応急処 置が精一杯で、適当な英語が出てこなかったのが真相である。当時のパイロットは「寝言も英 語で」と、言われる程の語学力が要求されていた。その理由は、操縦教育の教官は当然アメリ カ軍人であり、航空管制もすべてアメリカ軍の管理下に置かれ英語しか通用しなかったからで ある。操縦経験よりも、英会話の能力が優先した時代であった。 戦争中に中学(旧制)に学んだ私は、英語が苦手である。戦争が始まってからは「敵国語」 として重要視されず、「北京会話」などが登場する時代であった。当時の英語教育は、教科書 の英語を日本語に訳すのと、英作文といって日本文を英文にするのが主体で、英会話の授業な ど全くなかった時代である。  だから、ブース講堂のテープを聞いても何を言っているのかさっぱり聞き取れない。いろい ろと悩んだ揚げ句、江藤2尉の前例もあるので、パイロットのコースは諦めることにした。  エマージェンシーに際して、日本語を使っての交信ができるようになったのは、各管制塔に 日本人の管制官が配置されるようになった10年以上も後のことである。      *   私は幹部候補生学校の入校に際して一大決心をした。それは煙草を止める事であった。年齢 制限30歳ぎりぎりの入校であったので、若い者と一緒に訓練を受けるには体調を整えること が肝心だと思ったからである。そのお陰で、毎日の駆け足などで息切れすることはなかった。 あとで考えてみれば、これが幹部候補生学校に入校しての唯一の収穫であった。  外出して散策する古都奈良の環境は素晴らしいものであった。航空自衛隊が幹部候補生学校 をこの地に設定したのは正解である。奈良県内や京都大阪方面の名所旧跡はもちろんのこと、 比叡山や琵琶湖までも足を延ばして休日ごとに見聞をひろめた。
  
古都奈良の風景。
 パイロットを諦めた途端に学生生活にも余裕ができて、遊びに専念することになった。お陰 で一日行程の範囲内で、計画的に見物して回った。それに引き換え、幹部候補生学校の授業は 全く期待はずれで面白くないものばかりであった。航空自衛隊全般の職域について、広く浅く 教えるのだが教材などの整備も遅れていた関係か、あまりにも浅すぎるのである。  ある日、航空機整備の授業時間にTO(テクニカルオーダー)と部品カタログについての説 明があった。航空機部品は膨大な数量だから、インデックスを引くためにさらにインデックス (マスターインデックス)が必要との説明である。これはアメリカ軍のシステムだから当然で あろう。しかし、自衛隊はアメリカ軍の全機種を使用しているわけではない。だから、アメリ             カ軍と比較すれば遥かに少ない数量のはずだと疑問を持った。 「教官、膨大な数量と言っても、およそどれ程の数量ですか?」 と、質問した。ところが、教官は答えられないのである。1機当たり1万個とか2万個とかの 大台の数字でも分かれば、自衛隊の使用している機種から総量が推察できる。ところが、その 概数さえも示すことができないのである。ただ、膨大な数とだけしか答えられない。こちらは、 どうしても知りたい数字ではない。そうは言っても、行きがかり上後には引けなくなり、つま らぬ問答の繰り返しで一時限を潰してしまった。それでも、結論は出なかった。

 こんなことが2度〜3度と繰り返えされると、 教官室でも問題になる。とうとう教官室から 呼び出しがかかった。    教官室に行くと蒲生2佐が待っていた。ところで、蒲生2佐と私は相性が悪い。数ヵ月前ま で彼は第9040部隊の次席幹部として勤務されていた方である。入校して挨拶に行くと、 「ホー、君が合格したのかネ? よく合格できたなあ……」 と、私が合格したのがさも不思議だといった感じの応対であった。  無理もない、その当時の私は上級者に対し必ずしも柔順ではなかつたからである。私は前回 の受験で、学科試験は上位の成績でありながら合格できなかった。これは幹部候補生は学科の 成績よりも、人物評定が重視されるからである。  これに気付いたので、一念発起してそれ以後半年の間、猫を被って真面目に勤務したのであ る。それを、彼は転勤したため知らなかったのである。だから、彼がびっくりするのも無理は ない。  教官室ではさっそくお小言が始まった。 「君は幹部候補生学校に何しに来たんだ! 教官を教育するために来たのではないだろう…」 要するに、教官だからといっても人格識見が優秀な者ばかりが揃っているわけではない。だか ら、反面教師という言葉もある。自分が幹部になったらあんな事はしない、こんな事は言わな いと、心の中で反芻し、決して表に出してはいけない。卒業するまでは学生らしく、おとなし くしていなさいとの説諭である。至極ご尤もなご意見である。  ある日、昼休み時間に厚生班の事務室に貯金を下ろしに行った。ところが、貯金の窓口はす でに閉まっていた。せっかく昼飯を後回しにして来たのに残念である。 「貯金の窓口は、何時に開けるの?」 事務室で碁を打っている隊員に聞いた。 「窓口は1時まで休みです」 との返事が返ってきた。これでは学生は課業時間外には利用できない。学生は授業をサボって 貯金を下ろしに来いというのか。ここでまた日ごろの忿懣が爆発した。 「おぃ! この学校は誰のためにあるんだ! 幹部候補生が利用できない貯金業務なんか必要 ない! 止めてしまえ! 厚生班長にそう言っとけ!」 と、息まいて引き揚げた。  世の中には人物もいるものである。出来損ないの幹部なら問題の本質は棚上げしにて、そん な生意気なことを言う奴はどの区隊の学生だ! と詮索して、学生隊に苦情を言ってくるのが 関の山である。ところが、数日後に「昼休み時間中も貯金その他の窓口業務を実施する」との 会報が出された。  第8区隊の区隊長岸1尉が、病気治療のため入院され、区隊長が交替されることになった。 発令された後任者をみて、アッ! と驚いた。なんと貯金の窓口業務で文句を付けた、業務課 の厚生班長川嶋1尉その人であったからである。      *  幹部候補生学校は、満蒙開拓団の訓練所を戦後連合軍が接収していたのが解除され、自衛隊 が使用することになったものである。だから、建物は古く幹部候補生の教育施設としては疑問 があった。  入校後しばらくして、洗面所の横に洗濯機が数台設置された。家庭用に洗濯機が普及し始め た頃のことである。ただしこれは官給品ではなくて、業者に委託して設置させたものである。 だから、当然有料である。ところが、これの洗濯機で問題が起こった。料金箱の中から紐の付 いたコインが出てきたのである。 これを業者が届け出たため、学生隊長の知るところとなった。さあ犯人捜しが大変である。 あの手この手と呼びかけたが遂に誰も名乗り出なかった。私などは、海軍時代から洗濯はお手 のものである。実をいうと、アメリカ軍との共同生活で得た知恵で、ほとんど洗濯屋に出して 自分で洗うのは下着ぐらいであった。                         当時幹部候補生である1等空曹の初号俸は、日額420円で月に1万3千円程度であった。 だから小遣銭が不足してのこととは考えられない。家族持ちの者でもことさら倹約する必要も ない程度の生活ができていた。だから、面白半分の出来心か、それとも、 「洗濯機ぐらい国費で購入して、ただで使わせろ!」 と言う、無言の要求であったのかも知れない。  もし教育環境整備のため、国費で洗濯機を購入して設置していればこんな事故は起こさずに すんだはずである。教育環境の不備が生んだ罪ということができる。          *  当時の部内幹部候補生の教育期間は16週間であった。(次の期から24週間に延長された) 卒業が近づくにつれて各科目の考査が始まった。学校だから学生を評価して成績の順位をつけ るのは当然である。だが、筆記試験を初めとしてその内容のお粗末さには呆れ返った。  体育の実技考査での出来事である。先ずバレーボールから始まった。これは各自にサーブを 2回づつ実施させて判定した。強弱に関係なくコート内に落とせば良いのだから簡単である。 次ぎはバスケットボールである。今度は各自フリースローを2本づつ行うことになった。これ はちょっと難しかったが、まぐれで1本成功した。まずまずの成績である。  本来この種の査定は、幹部としての指導力をみるのが目的のはずである。しかし、担当教官 としては、単に点数を付け成績表をつくる必要があるために、こんな方法を選んだのであろう。 また、部下を指導するにはまず自分ができなければという趣旨もあるのだろうが、すっきりし ない査定であった。  ところが、次ぎの鉄棒で問題が起きた。 「各自、連続技を実施せよ」 との指示である。私は過去に鉄棒とは無縁であった。体力検定などで懸垂は度々行ったが鉄棒 の技など小学校の時代からやったことがない。「連続技」がどんなものかも知らない。だから、 人のやるのを見て真似てやろと思い、誰かが始めるのを待った。ところが、皆も思いは同じら しく誰も始めようとしない。そこで私が発言した。  「教官、模範演技をお願いします。われわれの期は体育の時間が少なく、球技を少しやった だけで鉄棒は初めてです。どんな技をすればよいのか分かりません」 ところが、教官も自信がなかったのか模範演技は実施されず考査は中断した。それでも何らか の形で点数を配分したのであろう。後で調べてみると、何を基準にしたのかキッチリと序列が 付けられていた。
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