自衛隊こぼれ話

                                                                           

       松島基地の思い出

 ここ松島基地は私にとって思い出の地である。昭和19年12月初旬、百里原海軍航空隊 で艦上攻撃機の操縦訓練を受けていた私たちは、予想された敵機動部隊の空襲を避けるため、 稼働全機もって松島基地へ移動したことがある。急な移動のため、最初の夜は1枚の毛布さ えも支給されず、兵舎の床に飛行服を着たままごろ寝であった。  翌日は石巻市の旅館が宿舎に当てられた。清酒が一本手に入ったので、江藤・吉田・寺門と 同期生四名で町に出た。灯火管制で暗い町をうろうろしていると、料理屋といった感じの家が あった。さっそく入り込んで、何か肴を作ってほしいと頼んだ。  しかし、これはわれわれの認識不足であった。当時は、すでに料理屋など営業できる状態で はなくこの店も廃業して、「北上無線」の寮になっていたのである。仕方なく帰ろうとしたら、 「兵隊さん、とにかく上がってください。よそを探しても店を開けている所なんかありません ので、内でできるるだけのことをしますから……」 そう言って呼び止められた。それではと遠慮なく上がり込んで、大変お世話になったのである。  昭和19年末、飛練(飛行術練習生の略)を卒業し晴れて一人前の搭乗員となっ私は、実施 部隊である903空館山基地へ赴任した。明けて20年1月、館山基地の本隊から数名の同僚 と一緒に903空の松島派遣隊に移動した。  これは館山基地が252空の戦闘機隊の練成訓練で錯綜しているため、われわれの練成訓練 を比較的閑散な松島基地で行うためである。  903空松島派遣隊は保有機わずかに3機の小所帯で、 太平洋沿岸の対潜哨戒が主任務であ る。古い下士官もいないので雑用に追い回されることもなく、われわれ若い搭乗員にとっては 天国であった。夕食がすめば特別な作業などはない。さっそく連れ立って風呂に行った。まだ 誰も入っていない。海軍に入隊して初めての一番風呂である。ガヤガヤと騒ぎながら久しぶり に、命の洗濯をした。  程なく仕切り戸が開いて、一見して古参の下士官と分かる人物が入って来た。恐らく善行章 を5〜6本も付けた先任下士官クラスであろう。連れてきた当番の兵隊に背中を流させながら、 悠然と瞑想している。これは不味い! コソコソと上がり支度を始めた。 「オィ! お前らどこの隊か知らんが、善行章は右腕につけるもんだ! 尻べたに青臭い線を 2〜3本つけた分際で、一番風呂とは10年はやい!」 と、罵声が飛んだ。  正に名言である。練習生時代にバッターで殴られた跡形が2〜3本、蒙古斑よろしく未だ消 えずに残っていたのである。ちなみに、帝国海軍で入浴許可の号令は、 「等級順 風呂ニ入レ!」であった。          *  松島派遣隊には吉田兵曹も一緒に来ていた。さっそく二人で打ち合わせて、外出が許可され 次第石巻市へ行くことにした。今度は昨年のご好意に報いるため、酒以外にも羊羮や果物の缶 詰などの航空糧食を持てるだけ持って訪問した。  上品な母親と若い娘さんの二人暮らしである。前回にも勝る大歓待を受けたのはいうまでも ない。寮とは名目だけなのか部屋は空いているのに、同居人が居る様子はなかった。再度の訪 問を約束して辞したのに、任務の都合で急に茨城県の筑波派遣隊へ移動することになり、その 機会を逸してしまった。  あれから10年以上も経って、今度は一人だけでの訪問となった。昔の記憶をたどりながら、 その家を探し当てることができた。胸を躍らせながら案内を乞うと、見知らぬ人が出てきた。 そして、以前住んでいた人のことは知らないと言う。
 近くに鮮魚店があった。そこのご主人の話によると、終戦後間もなく岩沼の方へ引っ越して 行かれ、娘さんはそちらで嫁に行かれたとのことである。人伝ての話なので詳しい住所などは 知らないとのことであった。 「十年ひと昔」。遠い青春時代の甘い思い出を胸に秘めたまま、再び訪れることもないであ ろう、早春の石巻市を後にした。  ★地震津波の災害で、石巻市の状況が毎日のように報道されています。昔を思い出しながら 犠牲者のご冥福と、速やかなる復興をお祈りいたします。
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