自衛隊こぼれ話

       千 早 城 の 戦 訓

 環境問題でも早速困ったことが起きた。アメリカ軍の兵舎は山の斜面に沿って建てられてい た。その一番下の段にNCOクラブがある。そこからさらに一段下った所に浄化槽が設備され ていた。しかし、これは本格的な浄化槽ではない。各兵舎などから流される汚物を集めて腐敗 沈澱させる3段式の溜槽で、セシプール槽と呼ばれていた。だから、定期的に汚泥を汲み取っ て清掃する必要がある。  アメリカ軍から移管を受けて間もなくその清掃の時期がやってきた。さっそく二、三の清掃 業者を指名して見積書を提出させた。ところが、どの見積書を見ても予算の数十倍の見積価格 であった。  積算内訳を検討すると、浄化槽の容量とバキューム車の積載量から延べ台数を計算している。 そして、次に市営の処理場までの距離から、一日に何回運搬できるかを勘案してその価格を積 算している。積算は確かに正しいのである。しかし、問題は予算の確保である。増額を申請し ても実状を知らない司令部相手ではその見込みは薄い。ある業者の所に価格の交渉に行った。  「窮すれば通ず」という諺のとおり、少々リスクを伴うが解決策のヒントを得た。結論から 言えば汚泥を下まで運ばなければ良いのである。遠い市の処理場まで運ぶため延十数台にもの ぼるバキューム車が必要となり、費用も嵩むのである。  翌日から綿密な地形偵察を始めた。自家用の水源池がある谷は絶対避けなければならない。 基地内道路の終点にトランスミッター(送信所)があった。その先までは何とか車が通行でき る。そこからホースを森の中へできるだけ遠くまで延ばし、その付近に穴を掘って流し込めば 万事解決する。

 指定した日に、バキューム車が登ってきた。中型である。その代わりホースだけは数台分を 集めたらしく、たくさん積み込んでいる。立ち会っていると、車は浄化槽の横に据えたままで ホースを次々に繋ぎ合わせて予定の場所まで延ばした。これで車を動かす必要もなくなり作業 はさらに簡単になった。 「雨が二〜三回も降れば、すぐ分からなくなりますよ……」     早々と作業を終えた業者は、こう言い残して山を下った。 夏の間は雨と雲の中で過ごした脊振山も、秋になると途端に晴天が続き、雨はなかなか降りそ うにない。そして恒例のADX(防空演習)が始まった。 ADXの主体は、戦闘航空団とレーダーサイトの連係で実施する要撃戦闘である。またこれ と並行して、少数不穏分子の基地内侵入を想定した基地警備演習が実施される。  脊振山サイトは西部航空方面隊の中核となるADDCサイトで、その当時は500名に近い 隊員が勤務していた。ADDCとは、担当空域をレーダーで監視して敵機を発見識別し、要撃 戦闘機に対してスクランブルを指令する。次に、緊急発進した戦闘機と連絡をとりながら敵機 に誘導して要撃指令を実施する機能を持っているレーダーサイトである。 これ以外に、指定された空域をレーダーにより監視して報告するだけのSSサイトや、一部 要撃指令の機能を持つISSサイトがある。これらが互いに連係を密にして防空システムを形 成しているのである。  その当時、脊振山サイトの基地防衛計画では、オペレーション地区は監視管制隊が自主防衛 を実施する。ここは外柵も整備され、展望もきくので割合い防禦しやすい。それ以外の区域が 基地業務隊の警備担当地区であった。稜線約2キロにわたって、各種の基地施設が点在してい る。レシーバーとトランスミッターを除けば柵らしい物は何もない。周囲は背丈の2倍以上も ある雑木林で、見通しは極端に悪い。そのうえ、外柵などもなく基地の境界線もはっきりしな い状態である。  防衛計画を作成し、警戒線や防禦線を設定して人員を配置した。基地業務隊には百数十名の 隊員が所属していたが、輸送業務や給食業務など本来の支援業務を実施するため、警備要員と して抽出できる人員は限られている。少ない人数を効率よく配備することが、基地業務隊長と して腕の見せどころである。  演習最中に群司令が視察に来られたので、警戒配備の状況を図面で説明した。 「トランスミッターの南側が手薄のように思うが……」 と、意見が出された。 「あそこの地形では、 外部からの侵入は困難ですから大丈夫です」 そう言って急いで話題をかえた。  フェーカー(仮設敵)の侵入も一部分に留まり、演習は無事終了した。後片付けをしている とまた群司令が来て、 「トランスミッターの先まで行ってみたが、臭い臭いとんだ千早城だぞ! あれじゃー敵も侵 入できんわ……」 そう言って、ニヤッと笑った。

 延元・建武の昔、千早城を死守する楠木正成の戦訓は、昭和の脊振山でも見事に生かされた のである。それにしても、私の状況説明に疑念を持って、わざわざ地形の確認に出向くとは、 さすがに陸軍士官学校出身者である。          *  この年4月、ソ連は初めて有人宇宙船の打ち上げに成功した。ガガーリン少佐の「地球は青 かった!」の台詞とともに宇宙時代に先鞭をつけた。これに負けじと、アメリカも一ヵ月遅れ て、シェパード中佐を宇宙に送り、巻き返しをはかった。またドイツではベルリンの壁が設定 され東西間の交流は益々困難となってきた。  その当時春日原ベースには、アメリカ空軍第43航空師団の司令部があり、大きな地下壕の 中にはADCC(防空管制所)が置かれていた。ここでは、自衛隊員もアメリカ空軍と一体と なって防空任務についていた。また板付飛行場のアラートハンガー(待機格納庫)には、アメ リカ空軍のF102戦闘機が即時待機していた。そのためアメリカ空軍がらみのADX(防空 演習)が頻繁に実施された。   ADXにおける警戒態勢や警報はニックネームで呼ばれる。最も逼迫した警戒態勢を「コッ クドピストル」と呼ぶ。そして、「レモンジュース(警戒警報)」や「アップルジャック(空 襲警報)」などの警報がADCCを通じて伝達される。サイトではそれぞれの態勢や警報に応 じて警戒配置につきADXは進行する。  レーダーがアンノン(識別不明目標)を発見すると、シニアディレクター(先任指令官)の 判断で直ちにスクランブルが指令される。そして、スクランブルで飛び立つた戦闘機を目標に 誘導して要撃戦闘を実施するのである。警戒態勢の解除は「スノーマン」と呼ばれ、これで演 習は終了する。  自衛隊の演習ならば従来の事例から、事前にある程度のシナリオを予測することができる。 しかし、アメリカ空軍がらみの演習では出たとこ勝負であった。当時は板付飛行場のアラート ハンガーに即時待機しているアメリカ空軍のF102戦闘機に対して自衛隊のコントローラー が要撃指令をしていた。こんな変則的な時代があったのである。
         F102戦闘機
 ある日の夕方、ぼつぼつ仕事を切り上げようとしていると、突然電話が鳴った。 「エアーディヘンス ウオーニング イエロー……」 オペレーションからである。 「おーい、警戒警報発令だ! 皆に伝達せよ!」 と、言ってからふと気がついた。演習なら「レモンジュース」のはずである。これは本物だ! まさか? 外を見ると、群司令が慌ててジープに乗りオペレーションに向かっている。  不安な気持ちで待機していると、次の情報が入った。北朝鮮のミグ戦闘機が38度線を突破 して侵入した。これに対して、韓国空軍がスクランブルを指令して要撃している。これに伴い 在韓アメリカ軍が、韓国全域に空襲警報、日本全域に警戒警報を発令したのである(これは、 あくまで在日アメリカ軍に対してである)。これを、アメリカ軍のネットワークにより通報し てきたのである。
         ミグ23戦闘機
 再び朝鮮動乱が起きるのだろうか。少なからず緊張した。それにしても、38度線付近での 紛争が瞬時に通報される現実と、そうでなければ間に合わない近代航空戦の実態を、いまさら ながら思い知らされる事件であった。  さらに詳しい情報が入った。最初、韓国軍機が航法ミスのため誤って北朝鮮側に越境した。 これに対して、北朝鮮軍のミグ戦闘機が要撃に上がりこの韓国機を追った。そして、今度はそ のミグ戦闘機が38度線を越えて韓国側に侵入して来のである。    これに対して韓国空軍がスクランブルをかけ要撃戦闘機が舞い上がった。だが、双方とも射 撃を控えたため、大事には至らなかった。しかし、戦争勃発の危険性は常に存在しているので ある。防空の第一線で勤務していれば、このような緊張をしばしば体験させられた。       *  脊振山にはサイト展開当時からの笑い話が伝わっていた。ある時先任空曹が事務室で仕事を していると電話が鳴った。オペレーションからである。何やら応答したあと電話を切ると慌て て炊事場に行って、 「オーイ、アメちゃんがレモンジュースと言っていってるぞー」 「先任、オレンジジュースならありますが、レモンジュースはありません、オレンジジュース では駄目ですか?」  食事をしながらこの会話を聞いていたコントローラーが、慌ててオペレーションに電話で確 認した。やはり「レモンジュース(警戒警報)」が発令されていたのである。    この事件以後、事務室の電話がいくら鳴っても部下にとらせ先任空曹自ら受話器をとること はなかった。この話は大分脚色されたものである。アメリカ軍管理時代のサイトでは、彼らと 同じ配置で勤務するので、早くアメリカ軍の方式や用語に慣れさせるため、機会あるごとに、 こんな馬鹿げた話をしては啓発していたのである。  だが、いくら英語ができなくても、これでは先任空曹としての威厳が保てない。とは言って も、新隊員が「レモンジュース」の意味を知らなかった話にしたのでは、平凡過ぎて面白くな い。笑い話の主人公にされた先任空曹も辛いところである。サイトではこれに類する作り話が 多く、真面目に聞いていて後で大笑いするのが常であった。
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