自衛隊こぼれ話

 陸 の 孤 島

 脊振山頂からの景観は実に素晴らしいものがあった。また、夕日に映える秋の紅葉や、朝日 をうけて白銀色に輝く厳冬の霧氷は絶品であり、筆舌に尽くし難い脊振山ではの現象である。 しかし、展望のすばらしさとは裏腹に、冬期における山頂での勤務や生活には、まことに厳し いものがあった。


脊振山の霧氷(学友加来昭二君撮影)
 脊振山サイトの隊員は作業服での通勤が黙認されていた。営内居住者の外出も同様である。 営内居住者は、福岡市内の三宅本町に国の費用で借上げていた宿泊可能なクラブに立ち寄り、 ここで着替えをしてから外出するのである。だからクラブまでは部隊の延長と解釈されていた。  また冬期になると作業服の上に着込むため防寒用のアノラックが個人貸与されていた。その うえ、積雪に備えてガンジキまで用意されていた。北海道なみの装備である。  赴任して最初の秋のことである。施設班長吉山2尉が来て2間(約3・6メートル)ものの 杉丸太を50本ばかり調達してほしいと言う。そんな物を何に使うのかと聞くと、専用道路の 路肩に打ち込むと言う。 「そんな事で、車が落ちるのを防げるわけないでしょうが……」 そう言って笑った。ところがこれは私の認識不足であった。その杭は積雪によって道路の縁が 分からなくなり危険なので、路肩の位置を示す目印にするためのものであった。それにしても、 2間とは大袈裟であると思っていた。  脊振山では11月の末になると決まったように初雪が降る。しかし、これは間もなく溶けて しまう。本格的に降り始めるのは12月の下旬からである。この雪は根雪となって翌年3月末 まで溶けることはない。  降雪が始まると、施設隊から派遣されて山上に待機している、ブルドーザーやグレーダーで 夜明と共に除雪作業を開始する。そして、除雪が完了する頃に交代勤務者を乗せたトラックが 登って来るという段取りである。ところが、降雪が増えるにしたがって除雪作業に時間がかか り、トラックは予定どおりの運行が困難となってくる。トラックには常時ショベルを積み込ん でいて、自らも除雪をしながら運行するのである。           除雪作業
 このような除雪の繰り返しで、路肩を示す棒杭は場所によっては遂に見えなくなった。ブル ドーザーなどで路肩まで押し出した雪は、急斜面の割りには辷り落ちず、路肩付近に積もって しまうからである。この時期、人員の交替も物資の搬入もままならぬ、いわゆる「陸の孤島」 となるのである。  また山頂付近には、警察無線の中継所と、気象用レーダーが設置されていた。こちらは勤務 する人数が少ない関係で、勤務人員の交替や必要物資の補給など、自衛隊以上に苦労している 様子であった。         *  例年11月末になると、標高1055メートルの脊振山に冬の訪れを知らせる初雪が降る。 すると、待ち兼ねたように一人の新聞記者が登ってきた。初雪の紹介記事を書くためである。 その努力には感心したが、その考え方には納得できないものがあった。ある年のこと、 「写真を取りたいから協力してください……」 と、言ってきた。 「立入り禁止の表示がない所なら、どこから写しても結構ですよ……」 そう答えると、 「いやー、雪合戦をしているところを撮りたいから、2〜30人出してください……」 “初冠雪で雪合戦を楽しむ自衛隊員”との構想を頭に描いて登ってきたのであろう。 「ご覧の通り、ここの隊員は24時間勤務で全員が配置に着いています、遊んでる者なんかい ませんよ!」 「そこを何とか協力してくださいよ……」 なかなか強引な要求である。 「ありのままを報道するのが新聞でしょうが……。駄目だと言ったら駄目ですよ!」 と、いささか険悪な雰囲気になってきた。この遣り取りを見兼ねたのか、たまたま別の用件で 来ていた管制隊の隊員が、 「隊長……、うちのクルーを起こしましょうか……」 と、 口を出した。 「君んとこ、ミッドナイトの勤務で先ほど寝たばかりだろうが……」 「ハーイ、でも何とかしてみます……」 「そんなら頼むか……、でも怪我をせんように気をつけてくれよなあ……」 渡りに船である、これで一件落着した。ところが、翌日の新聞には積雪を紹介した5〜6行の 記事があるだけで、雪合戦の写真などはどこを探しても掲載されていなかった。  脊振山の途中にある小さな集落に、小学校低学年用の分校があった。ここの卒業式が行われ ているのに通り合わせたことがある。確か卒業生が一人だったと思う。見ていると、報道記者 が先生や父兄など関係者を並ばせ児童の見送りシーンを撮影していた。途中で振り向かせたり、 手を振らせたり、一つ一つ指示しながら撮影している。ありのままの動作を写すのではなく、 自分で描いたシナリオを演出しているのである。小さな子供にまでこれを押し付けていたのだ。

 これ以来、私は報道写真の裏を読む癖がついてしまった。今でも、事件の現場写真などを見 ていると、 必ず関係者が指差している型にはまった構図に出会う。こんな写真を見ながらいつ も当時の情景を思い出すのである。          *  「陸の孤島」と呼ばれた、脊振山での生活も3年目を迎えた。この時期、部隊の編制が改正 され、ADDCサイトには副司令が配置された。また基地業務隊長も新たに着任して私の兼務 は解かれていた。首脳陣は一段と充実してきたのである。  また方面隊司令部や警戒管制団司令部の機能も強化されたのか、その管理が厳しくなった感 じである。それとも、新しく着任したサイトの首脳陣が、武者隊長時代に比べて司令部に対し て弱腰になったのかも知れない。    一般基地並の形式ばった規律が要求されるようになり、脊振山サイトも住み辛くなった。何 かにつけて規則が優先し、今までのようにサイト故の例外は認められなくなり、娯楽センター の運営にまでこと細かく口出しされては面白くない。  また今までは、土曜・日曜など主要幹部が下山する際には、青免(自衛隊車両運転免許)を 持っている通信電子隊長の松岡1尉がジープを運転して下山し、官舎の横に置いていた。だか ら、何か事が起きても直ちに対応することができた。これを規則どおり、その都度山から迎え に来ていたのでは倍の時間がかかるのは当然である。  われわれが物資調達などでジープを使用する場合も同様である。ドライバーはジープを運転 して前日の夕方から山を下り三宅本町の隊外クラブに車を置き、翌日はここから行動を起こし ていた。これを規則どおりに翌朝一旦トラックで山頂まで出勤し、それからまたジープで山を 下っていたのでは、時間の無駄使いである。  この時期、私はすでに自家用車を所有していた。単車が普及し始めていたが、四輪車はまだ 珍しい時期である。箱型ダットサンの中古車を購入して乗り回していた。部隊車両に頼らずに 自由に行動できるので業務上非常に便利であった。
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