自衛隊こぼれ話

集 中 豪 雨

 昭和38年4月、全国一斉に統一地方選挙が実施された。営内居住隊員の選挙権は行政区画 によって佐賀県の脊振村にある。立候補者にとって300名を越える営内居住隊員の票は関心 の的である。脊振村当局が自衛隊に協力的であったのも、その裏にこの問題があったことは否 定できない。  それはそれとして、武者隊長時代から自衛隊と脊振村当局との関係は親密であった。武者隊 長の後任者、清光群司令は地元佐賀県の出身でもあり、さらに協力的であった。村主催の運動 会に勤務以外の全隊員を連れて参加したこともある。また村では山頂まで開通した林道に一番 近い集落に、村営住宅を建設した。明らかに自衛隊員向けである。  だが、次に交替してきた群司令や新任の副司令は、従来のように親密な関係を維持する配慮 に欠け、村当局の意向を理解することができなかった。脊振村では現在の村長を、県議会議員 に送り込み、現助役が次期の村長に収まるとの筋書きを立てていたのである。 ところが、 選挙がはじまると某隊の先任空曹が、脊振村長に対抗して同じ郡内の他の町から 立候補した者の応援を始めた。彼は娯楽センターに陣取り、営内居住隊員を次々に誘って酒食 を提供しながら投票を依頼している。資金が渡されているのは明らかである。 これに対して、 群司令以下の首脳陣は故意か不注意かこれを放任した。そのうえ、某首脳に対して立候補者か ら金品が贈答されたとの噂も流れていた。 当然の結果として、他の町から立候補した者が当選し、元脊振村長は落選した。そのため、 助役は責任をとって辞任した。そして、 当初予定されていた村長選挙には立候補しなかった。 これら一連の混乱で村当局と自衛隊の関係は円滑を欠くに至ったのである。     選挙の後、納税事務で脊振村役場を訪問した。 当然ながら、顔見知りの元村長も元助役もそ の席にはいない。村の三役は全員が入れ代わっていた。元収入役にお会いして挨拶したところ、 「あちらに投票させるくらいなら、棄権させてもらった方がよかったですなあ……」 と、慨嘆された。その言葉の裏には自衛隊に対する不信とその苦衷の深さが窺われた。それほ ど僅少差の当落であったのだ。たとえ自分の責任ではないにしても、何とも後味の悪い事件で あった。  そんな事もあって、脊振山もいよいよ住み辛くなって、転属の工作を始めた。幸いにこれが 功を奏して幹部候補生学校への転属が内定した。ところが“好事魔多し”の格言どおり物事は 順調に運ばないものである。幹部候補生学校の知り合いの隊員に連絡して借家探しでも依頼し ようと思っていた矢先に、脊振山系一帯が記録的な集中豪雨に見舞われた。私の田舎で昔から 「半夏生水(はげみず)」と呼んでいる梅雨末期に起こる大雨である。  この集中豪雨で、サイトに通じる道路が数箇所で崩壊して車両の運行ができなくなった。 「道路崩壊で筑紫耶馬渓から先は、車両の通行不可能!」 との連絡が入ったのは7月1日早朝のことである。これを受けて通常の出勤より早目に、まず 群司令以下の日勤者が徒歩で山に向かった。私はその日が糧食品の納入日になっていたので、 その前後策を講じる必要もあり、山へは向かわずに春日基地へ直行した。  脊振山サイトでの物資の調達は、納入業者が交通不便な山上まで直接物資を搬入することが 困難なために、日時を指定して春日基地に納入させ担当者が出向いて検収していた。そして、 自隊のトラックに積んで山上まで運ぶ方法を取っていた。  普通であれば、午前中に給食担当者が納入された糧食品の検収を行い、午後のトラック便で 山上へ運ぶ段取りである。ところが、道路が決壊して車両の運行ができなくなれば糧食品など を運ぶことは不可能である。だが、そのまま放置すれば生鮮食糧品等は腐敗する。  司令部を通じて要請した救難隊のヘリコプターが支援のために飛来した。ところが、下では すでに雨が止んでいるのに、山頂はまだ厚い雲に覆われている。 雲が切れて山頂が見え始めた ので急いでトロ箱の魚や野菜籠を積み込んで出発してもらう。ところが、ヘリコプターが近づ くころに山頂は再び厚い雲に隠れて着陸できない。 そんな事を2〜3度繰り返したが遂に輸送 は成功しなかった。         *  山上とは交信可能であるが途中の被害状況などなかなか確認できない。正午近くになって、 徒歩で上山した者からの報告で途中の被害状況が判明した。 「小川内から板屋までの道路が、三ヵ所で崩壊して、車両の運行不可能」 「専用道路は道床が洗い流されて荒れているが、車両の通行は可能である」 との通報である。また、 「新設された脊振村からの林道は、盛土の部分がすべて流失して跡形もない」 との連絡である。            林道は壊滅状態。
  「崩壊した道路も徒歩でなら通行できるから、勤務交替者は不入道(西鉄バス終点)まで車両 輸送し、 あとは徒歩で上山させよ」 と、伝達された。また陸上自衛隊から、背負嚢(せおいのう)を借用して、糧食品をできる限り 上山する勤務交替者を使って搬入させよとの指示を受けた。  大変な事態になった。さっそく指示どおり背負嚢を借用してきたが、 これは外見ほど実用的 ではない。 それは一定の形の整った物を詰めるには便利かも知れないが、種々雑多な形の野菜 類や魚介類などをどのように仕分けして詰め込めばよいのか、重さの配分なども考慮している と時間ばかりかかって作業ははかどらない。  だからといってレーダーを止めて、全員を下山させることもできない。勤務者の食事は絶対 に確保しなければならないのである。武者隊長は、まさかこの事あるを予見して、 「最後に頼れるのは自分の足だけだ!」 そう言って皆を鍛えていたわけではないだろうが、指揮官としては日ごろから非常事態に対応 する腹案を持つことは絶対に必要であることを痛感した。  いずれにしても、自分の目で現場の状況を確認しておく必要を感じて、糧食作業の方は春日 基地の隊員に支援を依頼して、直ちに行動を起こした。まず那珂川町の不入道までは車両の通 行に支障はない。筑紫耶馬渓を通過し、工事中の南畑ダムまで来ると新設した付け替え道路は 方々で洗い流されている。それでも、旧道の方はどうにか通行することができた。  次に五ヵ山を越えて佐賀県にはいる。道は極端に狭くなるので三差路のところで車を降りた。 この先でUターンする場所を確保できるかどうか心配だからである。小川内(佐賀県東脊振村) で休憩しながら情報を集める。ここから板屋(福岡県早良郡早良町)までは約4キロの道程で ある。小川内は佐賀県の外れの集落である。だから、この集落の人達はここから先のことには 関心が薄いらしく、詳しい様子は分からない。自分で確かめる以外に方法はない。  歩き始めてすぐに、山の斜面を切り取って作った道路に谷川が切れ込んだ所がある。ここの 路肩が大きく崩壊している。谷川からの高さは20メートル以上もある。これを元の高さまで 下から土留めをして埋め立て復旧するとしたら大変な工事である。道は山際半分程度が残って いてどうにか歩いて通行できる。            車両の通行は不能。
   同じような所が三ヵ所もあった。トラックの重量に堪えるだけの補強工事となると相当大掛 かりなものとなる。さらに今一つ問題点があった。道は一本道だが、ちょうど中間点ぐらいが 県境である、だから大きな崩壊は福岡県側に二ヵ所と、佐賀県側に一ヵ所である。状況は把握 できたものの大変な問題点を抱えていることに気付いた。それは、復旧工事の促進を要請する にも、相手が単一でないことである。いろいろと解決策を模索しながら帰途についた。  自分ながら応急処置についての腹案ができた。しかし、まずは司令部の様子を確かめること が先決である。司令部を覗くと、施設幕僚は県の土木事務所と連絡をとっている。ところが、 佐賀県側の土木事務所ではまだ被害状況を正確に掌握できていない様子である。担当地区が広 いのだから仕方のないことである。 県が現場の被害状況を確認し、測量・図面作成・予定価格積算・入札・契約締結と、規則ど おりの手順を踏んで工事にかかれば、いくら急いでも一ヵ月以上の日数を必要とするであろう。 その上、交通の途絶した板屋集落を抱えている福岡県側は工事を急ぐ必要があるが、佐賀県側 は小川内までの通行は可能だから、そこから先の工事を急ぐ理由はなさそうである。しかし、 佐賀県側の工事が完成しなければ、場所の関係で福岡県側の工事現場には進めないのである。  去る4月の地方選挙で、脊振村当局の推した元村長が県議会議員に当選していれば、佐賀県 に対して、工事の促進など要請する手蔓が確保できていたのにと思うと残念でならなかった。  本来この道路の復旧工事は道路を管理する福岡県と佐賀県の担当である。だから、司令部の 施設幕僚が両県に要請するのは順当な処置である。もしも、応急工事として自衛隊で実施する   にしても、土木工事は防衛施設庁の管轄で、部隊側の出る幕ではない。とは言っても、交通途 絶で現実に困っているのは部隊であり隊員である。  これに対してサイトの首脳陣は、自らの責任で解決を計る意志はないらしく、司令部任せの 様子である。施設隊にブルドーザーの派遣を要請し、応急処置として崩壊した道路を開削する 作業命令を出す程度の決断もつかないらしい。作戦の基本である補給路の確保を何と心得てい るのだろうか。

               *   さてこうなると、後は成り行き任せで8月1日を待って我れ関せずと黙って転属して行くか、 それとも敢えて火中の栗を拾うかである。火中の栗を拾うのでなく隊員のため泥を被るという のが適切な表現かも知れない。被害道路の復旧は本来部隊側の業務ではない。だから、成り行 きに任せても、誰からも文句の出る問題ではない。だが、このまま放置すれば復旧に何ヵ月も かかるであろう。その間の部隊側の不便は計り知れないものがある。  いろいろと思案の末、脊振山サイトに最後のご奉公をしようと決心した。すぐに方面隊司令 部の会計班長に会って予算の状況を確認した。第1・4半期分はすでに使用済みで残高はない。 第2・4半期分はまだ空幕から示達されていない。現在のところ使用できる予算は皆無である。 要は第2・4半期分の予算を優先的に確保していただく以外に方法はない。  「雑運営費」を何とか都合してもらえそうだとの感触を得たので、さっそく行動を開始した。 規則重視の上司に伺いをたてたり、相談をしていたのでは責任問題などで異論が出て計画は宙 に浮く可能性がある。事は急を要するので独断専行することにした。  通常の業務計画ではサイトに「施設整備費」関係の予算は示達されない。だから工事関係の 業者からの入札参加願の提出はなく知り合いもいない。そこで、専用道路の補修用に砕石を納 入していた業者を呼んで、直ちに現場に急行した。山の中腹の斜面を切り開いて作られた道路 は、完全に崩壊して人が歩ける幅しか残っていない。これを下から盛り上げて元の道幅にする のは大工事で時間もかかるし、膨大な予算を必要とする。              車両を通すのに一番簡単な方法は、崩れた幅だけ道路の山側を削り取ることである。山林の 所有者を探してその了解を得ることは、後で県の担当者が実施すればよいことである。規則や 正規の手順など無視して、応急処置のできるのが《特攻くずれ》の強みである。  業者にその場で工事費用を見積りさせ、すぐに作業を開始させた。そして、三日後には応急 工事を完了し、車両の通行が可能となった。ことのついでに、専用道路にも砂利を搬入させて 修復した。会計法規上では問題のある契約内容だが、非常事態では他に方法はない。  さーて、後は費用の精算である。司令部には専用道路の道床が洗い流されたので、砂利を入 れて補修すると言って予算の増額申請書を作成提出した。工事のついでに専用道路の補修も実 施しているので名目は十分である。  予定価格調書・見積書・契約書など会計検査院に提出する関係書類はすべて「砂利購入」と して作成した。後は予算の示達を待って辻褄の合った日付を入れ、施工業者に支払いをするだ けである。司令部の会計班長は、うすうす事情を承知している様子であったが、あくまで部隊 側「資金前渡官吏」の責任として処理した。  私の幹部候補生学校への転属命令は、8月1日付ですでに発令されていた。そして、後任の 新銅2尉は早々と着任していた。しかし、この契約の責任を後任者に転嫁することはできない。 最後の支払いをすませるまで、自分の手で決着を付けなければ交替するわけにはいかないので ある。やむを得ず赴任延期を申請して許可された。そして、すべての後始末を完了した。これ でどうやら“陸の孤島”に別れを告げることができるのだ。  群司令に転属の申告をした。崩壊した道路が早期に開通したことを喜ぶべきなのに、この工 事が規則に違反して実施されたことを気にしているのか、ねぎらいの言葉もなかった。日ごろ から、規則一点張りの頭では非常事態での対応処置が理解できないのも無理はない。  もし本人にその気があれば、応急処置を司令部任せにせず、除雪作業の要領で西空施設隊に ブルドーザーの派遣を要請し、自分の責任で道路開削の作業命令を出すことで、一円の予算も 使わずに同じ結果が得られたのである。その気配が見受けられないから、私が出しゃばったま でのことである。同じ士官学校出身者でも、いろいろな人物がいるものである。  その当時、司令部の会計班長は河野2佐であった。陸軍経理学校出身の正統派の会計幹部で、 前任者とは比較にならない程、よく隷下部隊の面倒をみていた。お陰で事後処置も順調に終了 した。 転属の挨拶に行くと、 「オーイ永末、北川さんが奈良の校長に発令されているぞ……、しっかり鍛われてこいよ……」 と、激励とも冷やかしとも取れることを言って笑った。
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