自衛隊こぼれ話

大隊長拝命

 航空自衛隊の術科学校では、入校した学生は学生隊に所属させて教育する。内務指導をはじ め一般共通教育や教練体育など、術科教育以外の教育訓練はすべて学生隊の担当で実施する。 教育部の教官はそれぞれの特技科目の授業を受け持つだけである。それに比較して、学生隊の 区隊長や区隊付の仕事は大変である。特に、航空教育隊を卒業して引き続き術科学校に入校し てきた新隊員を受け持つとなおさらである。  その頃は「いざなぎ景気」と呼ばれる好景気が続いていた。民間の雇用状況が良くなると、 必然的に自衛官の応募者は減少する。したがって素質の悪い連中が混じってくる。  成田の新国際空港用地を強制収用する問題で、警察機動隊と学生の衝突が連日のように報道 され世情は騒然としていた。各地の大学紛争は終息の方向に向かっていたが、高校や中学では 校内暴力やいじめの続発で荒れていた時代である。それがそっくり自衛隊に持ち込まれていた。  ある日、学校長中村空将補に呼ばれた。話の要旨は、学生隊第1大隊長として、学生の面倒 を見てほしいとの要請である。第1大隊長は本来教育幕僚(2佐または3佐)の配置である。 いくら何でも、会計特技の1等空尉の出る幕ではない。
   
 ところが中村校長は、私が昭和44年度の幹部研究論文として提出した、戦争体験上の教訓 「神風特別攻撃隊員の精神基盤について」を読んで、《特攻くずれ》を自称している私の経歴 や考え方に興味を示している様子である。その研究論文とは次のような内容であった。    昭和四十五年一月十五日                       第一教育部  一等空尉  永末千里       神風特別攻撃隊員の精神基盤について       序 論   自衛官の精神の基盤となるものは健全な国民精神である。わけても自己を高め、人を愛  し、民族と祖国をおもう心は正しい民族愛、祖国愛としてつねに自衛官の精神基盤となる  ものである。……と、自衛官の心がまえに記されている。しかし、正しい民族愛や祖国愛  とは具体的にどの様なことかといえば、はなはだ漠然としたものである。   勇敢さでは定評のあるフランスの外人部隊や、アメリカの選抜徴兵制度において、外国  人留学生を徴兵する状況などを考え併せると、民族愛や祖国愛が必ずしも軍人の精神基盤  の必須要件であるとは限らないと思われる。   また思想としての愛国心は、それぞれの立場で理論づけされるのだから、政治家をはじ  め学生活動家や反戦運動家にもそれぞれの主観に基づく愛国心があるはずである。だから、  抽象的に愛国心を強調することは、かえって混乱を招く結果となりかねない。   文化人と称する人で、戦争中は別段なにもしなかったのに、敗戦と同時にいかにも自分  は戦争に反対した愛国者であったような言動をする人がいる。またこれに同調するように、  先だって佐藤首相の「国民各自が銃をとって国を守る気概をもってほしい」。旨の発言に  対して、「銃をとることだけが愛国心ではなく、銃を拒否した人が、より祖国愛に燃えた  人であったことを、この前の戦争で学んだ……」との新聞投稿があった。   また一方の発言として、「腐敗、堕落した現代の日本は愛する価値がない。愛せない」  と主張する人もいる。確かに汚職に明け暮れ国民不在の政治家や、私利私欲を貪る経済界  など、現代の日本社会には種々の欠陥が見受けられる。だから、この主張が間違いだとは  断定できないかも知れない。人はそれぞれの立場で民族愛や祖国愛を主張するのだから、  理論的に解決しようとしても結論は出せないのではなかろうか。   これによく似た例として、大東亞戦争末期における「神風特別攻撃隊」に対する評価が  ある。同じ日本人が同じ行為を評価するのに、「真の愛国者」から「馬鹿げた無駄死」に  至るまで千差万別である。これも、それぞれの立場や思想などから止むをえないと思われ  る。しかし、その大部分は「体当たり攻撃」を単に結果からのみ評価し、その精神基盤に  ついて考察されていないきらいがある。またこれに言及している者も、当時の軍国主義的  な教育を問題とし、特別攻撃隊員個々の精神状態を追求しているものがほとんど見当たら  ない。   私は、昭和二十年四月上旬から沖縄決戦の期間中と、本土決戦に備えて七月下旬から終  戦に至るまで、二度にわたって「神風特別攻撃隊」に編入されて出撃待機した。そして、  死の瀬戸際に立ったぎりぎりの生活を体験した。この貴重な体験を当事者の立場から記述  してみたいと思う。そして、これが自衛隊での隊員指導の参考になれば幸いである。       本 論   一、神風特別攻撃隊編成までの経緯                   南洋諸島の一角であるマーシャル群島が占領され、聯合艦隊司令長官山本五十六大将に  続いて、古賀峯一大将も戦死された昭和十九年三月、私たちは甲種飛行予科練習生の課程  を卒業した。そして、操縦員と偵察員に分かれて飛行術練習生の課程へ進み、飛行訓練を  開始した。猛訓練を受けること半歳、まず偵察員が課程を卒業して実戦部隊に配属された。   次に操縦員は七月末に中間練習機課程を終了、引き続き戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃  機及び陸上攻撃機に分かれて実用機による訓練を受けた。そして、機種によって多少の差  はあったが、十九年末までに飛行術練習生を卒業し、一人前の搭乗員として偵察員の後に  続いて、各地に展開している実戦部隊に配属され逐次戦闘に参加していったのである。   そして、昭和十九年十月の台湾沖航空戦がわれわれの初陣であり、初めての戦死者を出  すにいたった。この戦闘を皮切りに、七百余名の同期生のうち特攻戦死を含めて、二百数  十名の者が一年足らずの間に大空の彼方へ消え去ったのである。   私は操縦員に選ばれて谷田部空で中間練習機、次に百里原空に移って艦上攻撃機の操縦  訓練を受けた。卒業後は海上護衛部隊の中核である、九〇三空に配属され、艦上攻撃機の  操縦員としての配置についた。ここでの日課は対潜哨戒と艦隊や船団の直衛である。また 数次のS作戦(対潜水艦制圧)にも参加した。その間、B29の爆撃や敵機動部隊の空襲を 受けるなど、実戦の非情さを身をもって体験した。   当時は戦闘による戦死者以外にも、訓練中の事故による殉職者も相当な数にのぼった。  ところが、身近に死傷者を見ながら、不思議に自分自身の死について真剣に考えることは  なかった。これは、現在自動車を運転する者が、交通戦争と呼ばれるほど事故が多発して  いるのに、自分だけは別だとか、自分は絶対に事故など起こさないと思うことで、事故を  自分のものとして真剣に考えないのと同じ心理である。   俺の飛行機は大丈夫だ、俺には弾は当たらないんだと無理に思い込むことで、死につい  て考えることの繁雑さを故意に避けていたのである。また死に対する恐怖から逃れていた  のかも知れない。   昭和二十年二月、海軍は基地航空戦力を強化するため航空艦隊の編制替えを実施した。  南西諸島(沖縄)方面に備えるため、第三航空艦隊の第二十五航空戦隊と連合艦隊直属の  第十二航空戦隊を主体にして、新たに第五航空艦隊を編制して九州方面に展開した。また、  今まで練習航空隊であった第十一、十二、十三の各聯合航空隊で、第十航空艦隊を編制し  第五航空艦隊の予備兵力として実戦に使用することにした。                 三月下旬、私は九〇三空から新編制の第十航空艦隊隷下の大井空に転属を命じられた。  ところが、同時に転属を発令された者はすべて操縦員に限られていた。だから、誰からと  もなく特攻要員ではないかとささやかれていた。   アメリカ軍の沖縄侵攻が開始され、三月二十六日に「天一号作戦」が発動された。当時  われわれ転属組は機種転換による操縦訓練を実施していた。ある日、飛行隊の搭乗員だけ  が講堂に集合を命じられた。そして、航空隊司令立ち会いのもとに艦隊参謀から聞かされ  たことは、部外はもちろん部内にも秘匿されていた聯合艦隊の現実の姿であった。   即ち、ミッドウエー海戦をはじめマリアナ海戦そしてレイテ沖海戦における、わが聯合  艦隊の壊滅的な損害と、通常の手段では挽回することのできない彼我の戦力差であった。  そして、「一機で一艦を沈める体当たり攻撃」のみが残された手段であり、第十航空艦隊  は全機をもって「特別攻撃隊」を編成すると告げられたのである。   ここに至って、初めて死を自分自身のものとして考えざるを得なくなった。いくら危険  の比率が高くても、普通の出撃であれば万が一にも生還の可能性が残されている。だから、  「俺は生還できる」「俺に弾は当たらない」と信じることで不安を克服することができた。  だが、必死の「体当たり攻撃」ではこの考え方は通用しない。今まで心の片隅で恐れてい  ながら、極力考えまいとしていた死を現実のものとして解決する必要に迫られたのである。  二、特別攻撃隊員の死を解決する要素について   特別攻撃隊員となった場合、覚悟が決まるというか、死に対する気持ちの整理ができる  のに二〜三日かかるのが普通である。中には一週間程度も悩み続ける者もいる。そして、  一週間を過ぎても気持ちの整理ができなければ脱落する。   それでは特別攻撃隊員はいかにして死に対する気持ちを整理し、覚悟を決めたのであろ  うか。一般的に考えられるのは宗教である。私の家は真宗の信者であった。子供のころか   ら「正信偈」などのお経をあげたり、蓮如上人の「御文章(おふみ)」に感銘を受ける程度  の関心は持っていた。   ところが、いくら極楽浄土を信じても(実際には殺生をするのだから地獄に落ちる結果  となるのだが……)それだけでは死に対する解決は得られなかった。だからといって宗教  を否定するつもりはない。今考えると、意識の底では宗教心が働いていたのだが、当時の  年齢では信心といっても程度が知れていて、死の教義を理解し得なかったのである。   次に、「悠久の大義に生きる」という国家神道的な考え方である。当時の精神教育は、  これに集約されていた。しかし、前述の宗教と同じように、真にこれを理解して死を肯定  するには至らなかった。   日ごろ友達同志の会話で、「靖国神社で逢おう」とか「軍神になるんだ」などの言葉を  使うことがある。ところが、本心からこれで死を解決できた者は恐らくいなかったと思う。  どうせ死ぬのなら多少とも後世に名を残したいと願うのは人情である。だから、結果とし  ての軍神や靖国神社には意味があるが、これを目的とするのは神に対する冒涜であろう。   われわれは国家神道を概念的には理解しても、それは結果を納得するためで、死を解決  する手段としては別に何かを求めていたのである。   また他の考え方として、何事も運命として諦める方法がある。確かに人の運命は予測し  難い。九〇三空から特攻要員として転属したわれわれが生き残り、残った連中が串良基地  に進出して夜間雷撃を敢行してほとんど全滅した。また幸運に恵まれ苛酷な戦闘を生き抜  き、死神に見放されたと信じていた同期生で、戦後の航空事故で死亡した例もある。   昭和三十七年九月、T6練習機で夜間飛行訓練中墜落殉職した某三佐(彼は六〇一空当  時に、特攻隊員として二度まで沖縄に出撃して奇跡的に生還している)や、血清輸送中に  名瀬市に墜落した、海上自衛隊P2Vの機長。さらに、昭和四十一年羽田沖で原因不明の  墜落事故を起こした全日空727の機長などである。確かに人間の生死は運命に左右され  る面がある。しかし、これは結果からいえることで、運命そのものと死を納得する手段と  では、考え方の次元が違うと思う。 三、特攻隊員の心情について   先年まで航空自衛隊に在職されていた中島正氏(当時海軍少佐)が「神風特別攻撃隊」  という本を出版されている。フィリピンで「体当たり攻撃」を初めて採用した、二〇一空  の飛行長を勤め、以後第十航空艦隊及び第五航空艦隊の司令部付として、終始特攻作戦を  指導され、その間の状況がよく記述されている。   特に特別攻撃隊員の心情については、非常に鋭い観察をされている。しかし、特別攻撃  隊員の心の底に秘められていた内面的なものについては、やはり理解できなかったのでは  ないだろうか。理解していても、立場上無視せざるを得なかったのかも知れない。   命令する側の者と、命令を受けて死を実行する者との立場の相違からくる物事の受け止  め方の差であろう。だから、特別攻撃隊員の心情については、体当たりを実行した当人と、  彼らと同じ境遇を体験した者にしか理解できない面があるのではなかろうか。   遺書一つを書くにしても、男としての意地があり見栄もある。だから、必ずしも本心を  そのまま書けるとは限らない。文面の裏に隠されているものを感じとることができるのは、  当時同じ立場にいた者だけではないだろうか。   数年前、十四期飛行予備学生出身者の手記をもとにしたテレビ映画「あゝ同期の桜」が  放映された。毎回のように女性との関係が題材となって戦争映画というよりも、恋愛映画  のように感じた人が多かったのではなかろうか。しかし私は、さすがに死んでいった者が  残した手記を忠実に映画化しただけあって、俳優の言動のぎここちなさは仕方がないとし  て、当人の心情をまざまざと感じとることができた。それは、彼らと心理的に共通の立場     を経験していたからである。   人間が死に直面して考えることは、最も身近かな人のことである。即ち、親や兄弟など  肉親のことである。自分が犠牲になることで、親や兄弟が無事に暮らせるならばという、  切羽詰まった考え方で自分の死を納得するのである。「あゝ同期の桜」における予備士官  は年齢的に最も身近な者が、最愛の女性であったのであのような手記となったのであろう。   近ごろ、特別攻撃隊関係者の手記や遺書などが整理保管され、または収録出版されてい るので読む機会が多い。その大部分は予備学生出身者のもので、割合に思ったことがその まま書かれていると思う。これに反して、予科練出身者の手記などは非常に少ない。また   残っている遺書なども至って単純である。これは表現力の問題もさることながら、手紙や  日記などはすべて検閲されていた下士官、兵の生活では本心など書ける状態ではなかった  からである。その場に至って、遺書さえも書かなかった心理が理解されるであろう。   「雲流れる果てに」「あゝ同期の桜」に続いて予科練を主題とした映画を計画した東映  が、関係者の日記や遺書などがほとんどないため、生存者の話を集めフィクションとして  「あゝ予科練」のシナリオを書かざるを得なかったのも、その間の事情を物語っている。   私自身も二度の特別攻撃隊編成に際して、遺書を書いた記憶がない。だからと言ってそ  れだけ立派な覚悟ができていたのでは決してない。人並み以上に生に対する執着もあり、  死に対する不安をもっていた。      近年同期生の会合で旧友と話す機会がある。同じ基地に居合わせて、出撃する同期生の  最期の面倒をみた者が、「身の回りのことは俺が片づけてやるから、ご両親に手紙でも書  け」と、勧めても、「手紙など出すとかえって親に心配をかけそうだし、またせっかくの  決心が乱れそうな気がする……」と言って、何も書き残そうとせず、万感の思いを胸に秘  めたまま出撃して征った様子を今にも泣き出しそうな顔をして話すのを聞き、また当時の  私自身の心境をかえりみて感慨深いものがあった。   昭和十九年十月二十五日、神風特別攻撃隊敷島隊の関行男大尉以下五名の者がスルアン  島沖のアメリカ空母に体当たり攻撃を実施したのを皮切りとして、終戦当日の八月十五日  までに海軍関係だけでも二、三六七機が出撃し、二、五二四名の貴い命がはかなくも消え  去ったのである。   彼ら特別攻撃隊員の大部分の者は、恐らく父母や弟妹など最も身近な人の無事を願うこ   とによって、自分の死を肯定し、未練を断ち切ったであろうと推察する。関大尉の当時の  様子について中島少佐は、『……自室に戻った関大尉の思いはたゞ一人の母親へ、そして、  新婚間もない愛妻のもとへ幾度か去来したことであったろう……』と、記している。  そして、一握りの髪を副長玉井中佐に託して出撃したのである。  四、特攻作戦の経過   私は、昭和二十年四月、菊水作戦開始と同時に特別攻撃隊に編成された。「発進」「接  敵」「攻撃(体当たり)」の飛行訓練と同時に精神的には生に対する執着と、死に対する  恐怖と闘いながらこれを克服してきたのである。誰れでも一時の感情に激して死を選ぶこ  とはできるかも知れない。しかし、理性によって自分の死を肯定し、その心境を一定期間  継続するのがいかに大変なことか、体験した者でなければ理解できないであろう。   当時でも日ごろ大言壮語していた者が、特別攻撃隊の編成に際してこれを免れるために、  仮病を使ってこそこそと逃げ隠れした事例からも判断できる。見方を変えればそれが本来  の人間の姿であったのかも知れない。当時の状況でなお死から逃れる努力をする者には、  それ相当の勇気が必要であったと思う。われわれの同期生は当時十七、八才の若さでこの  世の未練を断ち切り、還らざる攻撃に飛び立って、次々に散華したのである。   鈴鹿空・大井空・徳島空・高知空で構成された第十三聯合航空隊は、練習機「白菊」に  よる特攻隊を編成した。そして、五月二十四日の菊水七号作戦から、 遂に第五航空艦隊に 編入され、鹿屋基地や串良基地に進出し、次々と「体当たり攻撃」を敢行した。そして、 六月二十六日の菊水十号作戦までに、百十八機が未帰還となり二百三十余名が大空に散華  したのである。   今日は人の身、明日は我が身という状況のもとで、さらに死ぬための訓練が続けられた。  飛行訓練が終り、宿舎(当時基地外の林の中に分散されていた)に帰る途中、なにげなく  道端で見かけた蓮華草の花に故郷の野辺を偲び、夜中にふと目ざめて父母(長兄は戦死、  次兄も出征中)の行末を案じ、一度は決心したものの果たしてこれでよいのかと煩悶した  ことも度々であった。   その間も戦局は推移し、六月末の菊水十号作戦をもって沖縄周辺に対する特攻作戦は打  ち切られた。これに伴い私は特攻待機を解かれ、鈴鹿基地の田中部隊に派遣された。鈴鹿  基地では、偵察員の練成訓練を担当することになった。機上作業練習機の操縦教員という  地味な配置に対する不満と、特攻待機から解放された安堵感の入り混った複雑な気持ちで  あった。   しかし、アメリカ軍の本土侵攻が予想され再び特別攻撃隊が編成され、八月五日を目途  に特攻待機となった。そして、沖縄戦の戦訓から今度は夜間攻撃のみを対象にして昼夜入    れ替えの訓練が実施された。即ち、飛行訓練は夜間のみ実施し、昼は横穴式の防空壕の中  で寝るといった変則的な生活が続いた。単に死ねばよいという安易な考えでなく、いかに  して有効に死ぬかということに日夜努力を重ねたのである。   戦後の特別攻撃隊に対する評価には、戦果(結果)のみを対象としたものが見受けられ る。しかし、真にこれを評価するなら、二十歳にも満たない若者が、いかなる理由にせよ 死をもって任務を遂行するという境地に至った精神状態、即ち特攻精神こそ評価すべきで ある。  五、遺族の心境について   すでに述べたとおり、特別攻撃隊員は両親や弟妹など自分に関係深い大切な人の身替わ  りになるという考え方で死を肯定するのである。もちろん、指揮官に人を得て、その統率  のもとにこれと生死を共にするという場合もある。しかし、その根底には肉親との愛情に  裏打ちされたものがあるはずである。   たしかに肉親とのつながりは理屈では説明できないほど切実なものがあった。検閲のた  め思うことの万分の一も表現できない数行のハガキの文面からその胸中を察して、わざわ  ざ遠い所を面会に来た親の例を含めて、いろいろと見聞している。   近ごろ慰霊祭などで遺族の方とお話しする機会がある。ある遺族は「もし許されるなら、  息子に替わって自分が死ねばよかった。息子には長生きして欲しかった……」と、涙なが  らに述懐された。   吉田松陰も「親思う心にまさる親心、今日のおとずれ何ときくらん」と、最後まで親に  思をはせている。当人も恐らく死の瞬間まで瞼の裏に両親の面影を焼付けていたのではな  いだろうか。   また別の遺族は息子の無事を祈って「茶断ち」「塩断ち」の祈誓をしたと当時を回想し  ておられた。ともあれ、われわれが命に代えて護ろうと考えた両親もまた、息子の安否を  気遣い、自分の命を縮めてもと、息子の無事を祈っていたのである。この心の繋がりこそ  が、特別攻撃隊員の精神基盤そのものである。これは理屈を抜きにした肉親との愛情以外  の何ものでもない。       結 論   われわれ自衛隊員は、入隊に際し服務の宣誓を行っている。その服務の宣誓には「事に  臨んでは危険を顧みず身をもって責務の完遂に努め……」とある。この身をもってとは即  ち、死を意味するものと解する。自衛隊員は任務を放棄しない限り、いつ死に直面するか  分からないのである。   しかし、現在の自衛隊員で死について真剣に考えたことのある者が果たして何人いるだ  ろうか。恐らく前述したドライバーの心理と同じで「そのような非常事態は絶対に起こら  ない」と、有利に考えることで故意にこの問題から逃げているのではないだろうか。だが、  幹部自衛官は部下隊員を教育指導する立場として、果たして自分が宣誓のとおりに、身を  もって責務の完遂ができるかどうか、反省してみる必要があると思う。   昔は小学校からすでに「忠君愛国」の教育が行われていた。そして、一般社会教育その  他で帝国臣民としての精神基盤が醸成されていた。だから、軍隊での精神教育は単に仕上  げの場でしかなかった。ところが、現在の社会情勢をみると、学校教育でも一般社会教育  でも昔とは反対の教育が行われている感じがする。だから、隊員に対する精神教育は旧軍  隊以上に徹底しなければならないはずである。   特別攻撃隊員の死をもって任務を遂行する精神基盤が、肉親との愛情に立脚した信頼関  係にあることを述べた理由は、自衛隊の隊員指導の根本理念と相通じるものがあると信ず るからである。   現在の世相は親が我が子を殺し、妻がその夫を殺すという断絶の世の中である。われわ  れが生まれ育った時代のように、貧しくても暖かい親子の愛情とか、厳しい中にも信頼感  溢れる師弟の交わりなど、正しい人間関係は失われている世の中である。   ここにおいて、真に役立つ隊員を育成するためには、われわれ幹部自衛官が隊員の両親  や教師を兼ねた人間になることが必要である。日常の勤務や、営内生活を通じて同じ生活  基盤にたち、家庭生活を通じて醸成される肉親の愛情にも勝る信頼関係を確立することが  急務である。   旧海軍に通称「芙蓉部隊」と呼ばれる部隊があった。飛行隊長は美濃部正少佐である。  数年前まで航空自衛隊に在職されていたので面識のある方も多いと思う。「全機特攻」が  至上命令のあの時期に、自らの信念をまげずに特攻を拒否した指揮官である。この部隊は  「必死」の特攻を行わない代わり、「決死」の夜間襲撃に徹した部隊であった。   指揮官が特攻を否定したことで、隊員の士気はいやがうえにも高揚した。その根底にあ  るのは部下に対する深い愛情である。また部下もこの愛情に報いるため、特攻にも劣らぬ  多大な犠牲を払いながらも最後まで勇戦力闘したのである。     これとは別に「野中一家」と呼ばれた部隊があった。「桜花特別攻撃隊」として有名な  七二一空隷下の野中五郎少佐率いる、攻撃七一一飛行隊の別名である。軍紀風紀の厳しい  旧軍隊ではちょっと想像もできない、型破りで、やくざまがいな性格の部隊であった。     隊長の部下を可愛がることは肉親以上であり、真に同じ釜の飯を食うといった気概に徹  し、必要とあれば隊長自ら規則を無視する反面、やるべきことは理屈抜きで先頭にたって  実行し、真に「野中一家」を形成していた。   ここの隊員は野中少佐の部下であることを誇りとし、野中少佐と生死を共にすることを  悦びとしていた。もちろん、親分子分にあやかった彼の統率方法については異論もあるが、  短期間にあれだけの信頼関係を確立したことは敬服に値する。                以上述べたとおり、隊員指導の要諦は「愛情」の一言につきる。父親ならばこう言うで  あろう、母親ならばこうするであろうことを親に代わって実行することである。祖国愛や  民族愛などを理論的に納得させることを無駄とは言わないが、愛とは主観的、一方的かつ  献身的な行為であり、理屈ではないことを認識すべきである。そして、深い愛情で結ばれ  た信頼関係こそが、有事に際して思いもよらない力を発揮する原動力であることを銘記す  べきである。                              −終り−   中村校長は《特攻くずれ》の私に、体当たり精神で取り組んでくれと言うのか、死んだつも りで泥をかぶって欲しいと言うのかいずれかであろう。それにしても、こんな型破りな人事を 考えること自体、学校長が藁にもすがる気持になっているのに違いない。  現第1大隊長である多良2佐に相談に行った。彼は元海軍第13期飛行予備学生の出身で、 私と同じ時期、903空で飛行士をされていた方である。いろいろと話を聞いたが肝心なこと は打ち明けてくれない。しかし、彼が少々音を上げている様子を見ると、大変な仕事であるこ とは想像できる。  同じことの繰り返しで、教育部の授業はマンネリ化していた。それに比較すれば確かにやり 甲斐のある仕事でわある。4〜500名の隊員を指揮監督するのもよい経験になるであろう。 また1等空尉に昇任してすでに6年以上も経過している。上級の職務につくことで次期昇任が 有利になるかも知れない。あれやこれやと自分に都合のよいことばかりを考えて引き受けるこ とにした。 また、私と同時に第2大隊長も交替した。新進気鋭、防衛大学校7期生出身の伊藤1尉であ る。彼も本来教育特技ではない、教育部の教官からの配置替えであった。この人事を見ても、 校長中村空将補の並々ならぬ決意を窺うことができる。  大きな机に応接セットまで揃った大隊長室に納まった。前任大隊長の多良2佐からの引き継 ぎを受ける。次に区隊長及び区隊付を集合させ、型どおりの挨拶を行う。急に偉くなった気持 ちになるから不思議である。今回の人事では、2等空佐の後任に素人の1等空尉が就任したの だから、所属の区隊長や区隊付それに学生が驚いたのも無理はない。  さて仕事を始めてみると想像した以上に大変である。しかも聞くと見るとでは大違いである。 次々に難問が噴出してくる。こんなはずではなかったと気付いた時にはもう後の祭りであった。 いじめと暴力事件が続発して、早々に音を上げる始末である。一つを治めると次の事件が起き るという具合で際限がない。  ところが、調べてみると加害者は同じ区隊に限られている。事件を起こした連中にしても、 特に凶悪な人物とも思えない。内容を調べてみると、どうも唆されている様子である。自分が やらなければ誰かにやられるという脅迫観念から、他の隊員をいじめたり暴力を振るったりし ている様子である。  陰に隠れていた問題の中心人物も判明した。彼は高等学校卒業者で、人並み以上の知能指数 を持っていた。そのうえ、彼の父親は教育者である。父親は息子の性格を見抜いて、その将来 を憂慮して、大学に進学させず自衛隊に入れたのかも知れない。指導方法さえ間違えなければ、 立派な指導者になれる素質を持った隊員であった。  二人の取巻きがいることも判明した。彼らは口で唆すだけで、自分では決して手を出さない。 だから、最初は事件に無関係と思われていたのである。区隊長や区隊付の並々ならぬ努力で、 全容がほぼ解明された。区隊長池田2尉が所持品を検査したところ、革ケースに入った大きな 登山ナイフが発見された。これが他の隊員に無言の圧力となっていたのである。
 
 隊員指導の困難さは想像以上である。空曹学生は別として、新隊員を受持つ区隊長や区隊付 は、朝起きてから夜寝るまで、付き切りで面倒をみている。いくら任務といっても並の人間に できることではない。昔の軍隊のように殴って矯正することが許されるならと思うことも再々 であった。しかし、制裁などすれば今の隊員は皆逃げ出して、自衛隊は成り立たなくなるであ ろう。 隊員指導の重要性とその困難さを身をもって体験した。
目次へ戻る 次頁へ
[AOZORANOHATENI]