自衛隊こぼれ話

      佃空将補と「六調子」

第3術科学校長が交替され、中村空将補の後任として佃空将補が着任された。彼は陸軍経理 学校出身の正統派の会計幹部である。空幕では予算班長、会計課長を歴任され、会計職域での エリートコースを進まれた方である。いわゆる「会計一家」の親分が、第3術科学校の校長に 補職されたのである。 着任後間もなく、恒例の校内初度巡視が実施された。各部課隊とも隊舎内外の清掃を入念に 行い、整理整頓に余念がない。これは天皇陛下が地方を行幸されるのと同様である。関係者は 自己の担当区域のうち、巡視経路に当たる部分を重点的に磨きあげ、いかにも日ごろからこの ようにきれいにしています、といった顔をしてお迎えするのである。  私は意識的に最も汚い隊舎を選んで先導した。ただし、整理整頓だけはキチンとやらせてい た。古色蒼然として穴だらけの天井を指さして、 「あんなに、穴がほげております」 と、建物の古さを強調した。 「うーん、ほげとるなあー……」 天井の穴から私の顔に目を移してニヤッと笑った。そして、 「ほげとる……」 とつぶやいた。九州の方言が分かるなら私の意中も理解していただけるはずである。つられて 私もニッコリ笑った。 佃空将補の故郷は熊本である。同じ熊本出身の大田黒2佐を会計課長から総務課長に配置替 えして、足元を固めた。総務班長はベテランの久野事務官である。大田黒2佐は海軍第13期 飛行予備学生の出身である。海軍航空隊時代に肖って「大田黒一家」などと称して、会計課を 掌握していた豪の者である。 そして後任の会計課長には井上3佐が赴任してきた。また会計教育を担当する第3科長には 末2佐が配置された。末2佐も大田黒2佐と同期の第13期飛行予備学生出身の元搭乗員であ る。芦屋基地の「会計一家」も所帯が大きくなった。 この布陣なら、教育環境を整備する予算ぐらいは簡単に獲得できるはずである。ところが、 この期待が裏目に出たのである。中途半端な予算しか獲得できず、外注工事を行うには予算が 不足した。已むを得ず補修材料のみを購入して、自隊作業で環境の整備を行うことになった。 お陰で、教育部の教官から学生隊の区隊長に至るまで、毎日毎日ペンキ屋稼業に精を出すこと になったのである。 それはさておき学校長が交替した以上、学生隊に長居は無用である。本来の教官配置に復帰 するように畏る畏る打診してみた。すると、二つ返事で元の教育部教官に配置された。さすが に「会計一家」だ、素早い反応である。大隊長の在任期間は僅かに九ヵ月での更迭であった。 それでも、やるべきことはやったとの自負があり、心残りはなかった。 * 佃空将補の口が悪いのは天下一品であった。会議などで自分の気に入らない発言があると、 すぐに「単細胞」と決め付けるのである。私も、教程(教科書)審査でやられた。従来の文字 ばかりの教程を、思い切って図解や漫画を取り入れたものに変更した。これは当時の新隊員は 基礎学力が低く、一般の文書でも満足に読めない者がいたからである。 ところが、この改訂内容が気に入らない。新隊員が対象だから極力分かり易くと考えて作成 したのに、校長はあまりにも幼稚過ぎるとしか評価しない。そして、「単細胞」の考えること はこの程度かと決めつけられる。悔しくてたまらないが、階級の差は歴然としているので反発 することもできない。畜生! 今に見ておれということになる。 佃空将補の趣味はマージャンである。夕食が終わると、人数を集めて卓を囲むのが日課であ る。月に一度の割合で「中国文化研究会」などと称して十卓前後を集めて大会を開いていた。 校長官舎の壁には常連の名札を並べた大きな額が、位階勲等の序列を示すごとく掲げられてい た。これは大会の成績で順位が上下する。この額には校長よりも「単細胞」である私の名札の 方が上位にかけられることが多かった。
   
 日ごろの欝憤を晴らせるのは、ここだけである。ちなみに私の優勝は、4回・5回・13回 ・14回・16回と五度に及んだ。それに対して、校長の優勝は7回の一度だけである。また 2回以上優勝した者も他にはいない。校長のご栄転が決まり、最後の送別大会が行われた。こ の時も私が優勝した、だから「佃盃」はその記録と共に今も私の手元にある。
また佃空将補が着任されてから、急に宴会が多くなった。何かと名目を付けては開かれてい た。「黒潮荘」がよく利用されていた。また幹部学生の入校や卒業など、少人数のパーティー は校長官舎でも行われた。  この際佃校長の飲物は「六調子」という銘柄の球磨焼酎に限られていた。焼酎全盛時代では あったが、校長の影響で「六調子」はまたたく間に普及した。癖があるので、最初はちよっと 飲みづらいが、慣れてくるとなかなかの味である。行く先々でこの調子だから、「六調子」は 自衛隊内では全国的に名が売れたはずである。    * 明けて昭和48年7月、河野1佐が空幕会計課長から第3術科学校副校長として着任された。 これで「会計一家」の勢揃いである。会議や講習会など会計職域の集まりが急に多くなった。 夜になれば恒例の懇親会である。ここでも「六調子」が飲まれたことは言う迄もない。 この年9月、北海道の「長沼訴訟」で自衛隊は憲法違反であるとの判決が下された。これに 対する世間の反応は様々であったが、部内では特に話題にはならなかった。それよりも翌月に 勃発した、第4次中東戦争に伴い石油不足が深刻化した。いわゆるオイルショックは他の物価 にも影響を与え、予算の執行を担当する会計職員はこれの対応に忙殺されたのである。 第3術科学校長在職2年半、佃空将補は空幕へご栄転されることになった。日ごろの口の悪 さとは裏腹に、私のために次の職務配置と昇任のお膳立てをして離任された。最初は飲みくち に癖があって刺激が強いが、爽やかな酔い心地の「六調子」の味そのものであった。
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