自衛隊こぼれ話

第12飛行教育団

 佃空将補の置土産で、次の配置が発令された。山口県防府市に所在する、第12飛行教育団 会計隊長である。故郷九州からも近いうえ気候も温暖である。寒さに弱い私には理想的な配置 であった。  当時の団司令は生野空将補、基地業務群司令は児玉1佐であった。児玉1佐は、第3術科学 校の教務課長の職から転属された方で面識があり気心も知れていた。また陸大出の優秀な方で あった。    第12飛行教育団の所在する防府北基地は、芦屋基地と違って、こじんまりとしたきれいな 基地である。十数年前の情景を知る私にはその変貌は驚きであった。これは、芦屋基地のよう に旧陸軍や米軍の残した古い建物がなく、すべて自衛隊が新しく計画的に建設した基地だから である。         *  昭和19年4月、陸軍はこの地に飛行場を建設した。そしてこれを管理するため、第235 飛行場大隊が編成された。同年6月には、第51戦隊が小月飛行場から移駐して訓練を開始し た。錬成なった同戦隊は同年9月、南方戦線へと飛び立った。  これに替わって10月には、フィリピン戦線で活躍中の第71戦隊の留守部隊が、亀山から 移駐してきた。やがて終戦となり、英濠連合軍によって接収された。 195  ところが、近くに旧海軍の防府通信学校の建物が残っていたので連合軍はこれを利用した。 だからここに施設らしきものは建設されず、今の言葉で言えば「更地」のまま残ったのである。  昭和30年10月、パイロットの急速な養成に迫られた航空自衛隊は、ここに第1操縦学校 の分校を開設した。ところが、滑走路だけで付帯設備が何もないので、防府南基地の第1航空 教育隊が全面的に後方支援を担当することになった。  また格納庫などもないので、飛行機はすべて野外係留されていた。そして整備作業は、大き な天幕を張って飛行機をこれに収容して実施する有様であった。戦争中の野戦部隊並の苦労を しながら飛行教育を実施したのである。格納庫やベースオペレーションなどの施設が完成した のは、翌年4月のことであった。 新しい格納庫前のT34の列線。前の3機は陸自13飛行隊のL19連絡機。
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