自衛隊こぼれ話

防衛大学校1期生

 飛行教育集団司令部は浜松北基地に所在して、航空自衛隊のパイロットを養成する部隊を統  括していた。隷下には、第1航空団(浜松北)、第4航空団(松島)、第11飛行教育団(静 浜)、第12飛行教育団(防府北)、第13飛行教育団(芦屋)、それに航空学生教育隊(防 府北)の各部隊があった。  私は予算の調整や会議その他で、集団司令部に出張することが多かった。この場合、出張旅 費を節約するためほとんど飛行機を使用していた。飛行機を使用して部隊内で宿泊給養を受け れば、旅費はほとんど使わずにすむからである。おまけに往復の時間も短縮できる。  当時航空自衛隊ではC46やYS11を使って定期便を運行していた。ところが、定期便は芦屋 基地からしか発着しないうえ便数も少ないので不便であった。そのため、搭乗命令書を受けて 自隊所属のT34(メンター)を使用することが多かった。
 C46やYS11の客席では、空を飛んでいる感じがしないが、T34の座席は大空を満喫できる。 そのうえ練習機だから操縦装置から計器類まですべてデュアルである。海軍時代を思いだしな がら、 久し振りに大空の感触に浸り快適な飛行を堪能することができた。  司令部出張の帰り、パイロットの益田1尉がフライトプランを提出するためオペレーション に行った。私はコーヒーでも飲みながら待つことにして、控室の裏にあるスナックに入った。 するとカウンターに飛行服姿の検見崎2佐がおられた。彼とは幹部学校SOCの同期生である。 現在は防衛大学校助教授のはずである。技量保持のため年間飛行訓練にでも来たのであろう。  ちょっと挨拶を交わしてテーブルに座った。しばらくすると、 「永末さーん、何ごとですか?」 と、声がかかった。振り返って見ると平山2佐が立っている。彼は検見崎2佐と同じ防衛大学 校1期生出身のパイロットである。私が飛行服を着込んでいるので不審な顔をしている。  「防府に帰るとこですよ……、 お久しぶりですね……、お元気でしたか?」 「アーア、あの飛行機ですか……、さっきフライトプランを見ましたが、しばらく出発を見合 わせて様子を見てください、向こうは天気が崩れていますから……」 と、心配そうに告げられた。  平山2佐とは脊振山サイト以来の顔合わせである。話によれば、彼はいま第1航空団所属で 飛行場勤務隊長の職にあるとのことである。            *  航空自衛隊では有事に備えて、定員以上にパイロットを確保している。この定員以外のパイ ロットは操縦技量を保持するため、年間に一定時間の訓練飛行の実施を義務づけられているだ けで、本来のパイロットとしての配置には就かないで、他の職域で勤務することになっている。  平山2尉(脊振山当時)は、本来の特技がパイロットでありながら、コントローラー(要撃 管制官)の教育を受けて脊振山サイトに配属された、いわゆる兼務パイロットであった。     パイロットの職域では、飛行隊長⇒飛行群司令⇒航空団司令⇒航空方面隊司令官⇒航空総隊 司令官と進むのが出世コースの本命である。その意味から兼務パイロットは傍系と見られてい た。しかしながら、平山2尉の勤務態度は真に誠実であった。何事にも率先垂範、陰日向のな い行動に私は深い感銘を受けていた。  大雪の朝など幹部宿舎の前の通路を、 防衛大学校後輩のパイロットと二人で、黙々と除雪を している姿を見かけたこともある。隊員を使ってやらせればすむ事でも、自分でできることは 自分でやるといった信念を持って行動していた。 その彼が、ここでもまた傍系である飛行場勤務隊長を勤めている。あの誠実な人柄からすれ ば、これは適切な配置かも知れない。それにしても、もったいない配置である。私の知ってい る範囲でも、防衛大学校の1期生出身者には積極的な人物が多かった。  彼ら1期生とは幹部候補生学校が同じ時期であり、またSOC(幹部学校普通課程)も一緒 に教育をうけた仲である。F104Jパイロットの林・検見崎・石原・宮本1尉、それにF86D パイロットの安藤・前田1尉らが同じクラスであった。  彼らはそれぞれ優秀な技能を持ち、将来の提督を目指して積極的に自己研鑚を行っていた。 そして、自分達が防衛大学校出身者としてその伝統を築くのだという意気に燃えているように 見受けられた。1期生としての自覚がそうさせていたのであろう。2期生以降のような単なる エリート意識とは異なったものを持っていた。   特に林1尉(当時)の言動は常に積極果敢であった。ある時、林1尉に私が、 「航空自衛隊ではなぜF104を採用したんですかね……、 いくらスピードがあっても、後ろに 回り込まなければ撃てないサイドワインダー装備では、迎撃にロスが出るでしょう? その点 F102なら正面からでも攻撃できるから有利ではないですか?」  脊振山サイトの幹部宿舎では、アメリカ空軍所属のF102に対して要撃管制指令を担当してい るコントローラーの話を毎晩のように聞いていたので、職種は違っていても要撃戦闘の要領ぐ らいは承知している。  これに対して、林1尉の回答は単純明快であった。 「間に合わなければ『体当たり』して墜とします!」 私は一瞬ドキッとした。  私が帝国海軍時代に特攻隊員として「体当たり攻撃」の部隊に所属していたことなど、彼は 恐らく知らないはずである。彼が「体当たり」という言葉をどのように意識しているのか私は 知らない。「体当たり攻撃」即ち戦死と自覚しているのか、それとも「体当たり」した後脱出 可能と考えているのかも知れない。  何れにしても、とっさにこんな言葉が出るということは、日ごろから彼の思考の中に「体当 たり攻撃」の認識があるという証拠である。それとも、F104パイロットとしての矜持がそう 言わせたのかも知れない。戦時中ならともかく、平和なこの時期に「体当たり攻撃」を意図し ているとは、相当な人物であると感心した。               昭和41年1月18日。第5航空団(新田原)において、F104Jに搭乗して飛行訓練中の 林正弘1尉は、エンジントラブルのため海上に墜落して殉職された。死の瞬間彼の脳裏に映じ たのは、敵機に「体当たり攻撃」をしている己の姿ではなかっただろうか。志半ばにして大空 に散華された彼の胸中を偲び哀惜の誠を捧げたい。実に惜しみても余りある人材を亡くしたも のである。        殉職された、林正弘1尉(小牧基地第105飛行隊当時)。
Click me! F104JとF102  大東亜戦争の戦史を基準として、彼の積極果敢な性格からすれば、ミッドウェー海戦で戦死 された、第2航空戦隊司令官山口多聞少将を凌ぐ勇将に成長されたであろうと推察する。          *  午後になってようやく飛行の許可がおりた。エプロンに駐機していたT34に乗り込んでいる と、平山2佐がわざわざ見送りに来られた。そしてパイロットに気象状況などのアドバイスを している様子であった。 「飛勤隊長とは、どんな知り合いですか?」 「ウーン……、 むかし脊振山で一緒だったの……」 「いい人ですねえ……」 これは、離陸後の益田1尉との会話である。彼も平山2佐の人柄を理解している口調であった。  撤退作戦の指揮は侵攻作戦を指揮するよりもさらに困難であるというのが定説である。もし も、大東亜戦争末期の昭和19年末から20年にかけて、フィリピン方面や沖縄方面の戦闘に 彼のような指揮官がいたとすれば、随分と違った作戦が実施されたであろうと想像する。即ち、 「体当たり攻撃」を拒否した「芙蓉部隊」の指揮官のように、人間を生かして使うことに重点 を置いた作戦指導が行われたであろうと推察する。
           *  離陸して見ると、前面は厚い雲の壁である。鈴鹿山系は特有の雲の流れで完全に姿を消して いる。三河湾、伊勢湾など空からの眺めは鈴鹿空時代に「白菊」で訓練飛行を行っていた頃を 思い出させる懐かしいものであった。  浜松出張で最初にここの上空を飛んだ時のことである。渥美半島越しに三河湾を眺めている と、何となく感じが違う。旧豊橋空のあの特徴ある形の島と、長い橋が忽然と消えているのだ。 あるべき所に島がないのである。そんな馬鹿な!   豊橋空は陸上攻撃機専修の同期生が実用機の訓練を受けた航空隊である。 どうにも気になる ので帰途、浜松を離陸して徐々に高度をとりながら比較的低空で豊橋の上空を通過した。気を つけて見ると滑走路など航空隊の跡はハッキリと残っていた。島という先入観があったので、 埋め立てで陸続きになった今の姿を見落としていたのである。  ところで、今日は天候が極端に悪い。30年前の回想に耽る余裕などない。雲の壁を越える   ため急速に高度をとりながら雲上に出た。旧海軍時代は難所と言われていた鈴鹿越えの特有な 雲の流れや気流の悪さも特に気にする必要はない。この程度のフライトでは少々視界が悪くて も現在の飛行機では機位を失することはない。ほどなく瀬戸内海に抜けることができた。  こちらは思ったより天気は回復していた。夕日に映える箱庭のような瀬戸内海の景色を眺め ながら「敵機」を意識せずに飛べる大空の醍醐味を満喫し、在りし日の感慨に耽ると共に平和 の貴さをしみじみと感じた。
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