自衛隊こぼれ話

飛行安全と適性検査

 大分県出身の後藤1尉は同じ会計職種である。彼とは公募空曹の1期生として同時に航空自 衛隊に入隊して会計職種に配置され、 浜松の整備学校で教育を受けた。帝国海軍では1期後輩 の甲飛第13期生として、同じ鹿児島空に昭和18年10月入隊した。彼の父親は旧帝国海軍 の主計少佐である。昭和18年決戦部隊として編成された、第1航空艦隊第261航空隊(虎 部隊)の主計長を勤められた方である。  幹部候補生学校の入校も彼が1年遅れである。卒業して最初の配置も輸送航空団で、 私の後 を追うように赴任してきた。輸送航空団時代はよく一緒に磯釣りなどをして遊んだ仲である。   私が脊振山サイトの会計小隊長に転属になると、後を追って高畑山サイトの会計小隊長として  赴任してきた。そして、 第3術科学校の教官配置にも1年遅れでやってきた。不思議な因縁で 結ばれている。  私が第12飛行教育団の会計隊長に赴任後しばらくして、 後藤1尉から電話があった。防衛 大学校を卒業して幹部候補生となった彼の長男が、操縦適性検査を受けるため、防府北基地に 行くから宜しく頼むとのことである。30年前、自分が果たせなかった大空への夢を、息子に は適えさせてやりたいとの親心であろう。  第12飛行教育団の編制には、操縦適性検査隊がある。ここでは航空自衛隊でパイロットを 目指す者すべてについて、実際に飛行機に乗せて操縦適性の検査を実施する。身体的な条件は 地上で検査が可能である。だからここでの判定が、操縦適性の最終決定となる。  自衛隊では飛行安全には万全の注意を払っている。それは一度事故を起こせば、その人的並 びに物的損害は計り知れないものがあるからである。だから、パイロットにはあらゆる方法を 用いて適性のある者を選抜する。
しかし、帝国海軍の搭乗員のように、手相や人相までは判定の対象にしていなかった。また 機材の整備にも万全を期していた。それでも航空機事故は後を断たないのである。  幹部宿舎で私の隣室には益田1尉が入居していた。彼は航空学生出身のパイロットである。 そして、操縦適性検査隊の検査班に所属していた。そのうえ都合の良いことに毎晩のマージャ ンの常連客でもあったので、さっそくこの件を依頼した。  適性検査も終わりに近づいた頃、益田1尉が会計隊事務室にやってきた。 「隊長、後藤候補生の件ですが、特に問題はないと思いますが……」 と、 切り出した。私はとっさにその先を遮った。 「益田1尉、初めに頼んでおいて何ですが……、後藤候補生の件はなかったことにしてくださ い、そして先入感なしで判定してください」 と、言った。彼は不審な顔をしなが部屋から出て行った。私の言葉をどんな意味に解釈したの か知らない。そして、その後の判定結果も聞かなかった。           *   私は予科練の同期生のうち約3割を戦争中に失っている。特攻戦死を始め、訓練中の事故に よる殉職などを数多く見聞している。戦後になっても昭和37年9月3日、鹿屋基地から「血 清輸送」のため奄美大島に派遣され、天候悪化により名瀬市郊外に墜落して殉職した、海上自 衛隊P2Vの機長石川昭義3等海佐。続いて9月20日、熊谷の操縦学校で夜間飛行訓練中、 墜落事故で殉職した航空自衛隊の堀川光政3等空佐。さらに、昭和41年2月4日、木更津沖 で墜落事故を起こして死亡した、全日空727機の高橋正樹機長。   彼らとは鹿児島空及び谷田部空で共に猛訓練を受け、決戦の大空へと巣立った同期生である。 銃弾飛び交う苛酷な戦場を生き抜いた幸運を信じ、戦後再び大空に羽ばたいのである。しかし、 運命とは皮肉なもので、絶対安全と思われた平和な空が彼らの貴い命を奪ってしまったのだ。  だが、これら戦後の事故に関しても、戦争中の戦没者についても、私はその因果関係に直接 かかわり合いを持たない。しかし、今度の後藤候補生の件に関しては立場が違ってくる。もし も、操縦適性に疑問があるのに、益田1尉が私の依頼を念頭に置いて「操縦適」と判定したた め、パイロットへの道を進み、将来、不時着その他の事故を起こして負傷か死亡するようなこ とがあれば、その責任の一端は当然私にもある。今度はかかわり合いがなかったとは言えなく なる。  恐らく「あの時、無理に頼んでパイロットに進ませなければよかった……」と、何時までも 後悔することになるだろう。何事も運命にしたがうべきである。作為をして悔いを残すべきで はないというのが私の結論であった。だから、益田1尉には迷惑をかけたが先の依頼を取り消 し、先入観なしでの判定をお願いしたわけである。
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