自衛隊こぼれ話


防府北基地の環境

 昭和34年6月、編制改正に伴い第12飛行教育団が誕生した。しかし、基地業務群の編制 表には、群本部以外には飛行場勤務隊・施設隊・管理隊のみで給養厚生・通信・衛生・会計な どの後方支援業務は、従来通り南基地の第1航空教育隊が担当することになっていた。名実と もに独立部隊としての第12飛行教育団が編成されたのは、翌昭和35年8月のことである。  それに先立つ3月に、庁舎および隊舎が完成したので所属隊員は南基地から移転した。とこ ろが、建物だけは新築されたがその周辺は、草薮あり水溜まりありの荒れ地であった。  ときの基地業務群司令は平山2佐であった。教育環境の重要性を認識された方で、さっそく その整備に着手された。連日連夜にわたり隊員を陣頭指揮して、庭石を集めたり、池を掘った り、樹木を植えたりして建物周辺を次々に庭園化していった。 故平山2佐と環境整備に汗を流す隊員。
 今の環境は決して自然にできたものではない。私はその当時南基地の会計隊に在職していた。 国の予算に頼らず、つてを求めて東奔西走、隊員の先頭に立ってご苦労なされている平山2佐 の姿に深い感銘を受けていた。  あれからすでに十数年、担当者は交替したがその意志は引き継がれ、環境整備に努力を重ね た結果が今の防府北基地の姿である。立派に完成した庭園に、荒れ地だった昔日の面影を見出 すことはできない。 荒地だった昔日を偲ぶ。
 平山1佐は旧海軍士官で歴戦の勇士であった。 昭和49年4月、バリ島にて航空機事故によ り、その生涯を閉じられた。痛恨極まりなし。その代わり丹精込めて造成された防府北基地の 環境が、平山次男氏の名とともに、永遠に遺されることを心から祈願する次第である。          *  ここの隊員は、この恵まれた環境に育まれ和気あいあいと勤務に精励していた。この良好な 環境があればこそ5年間にわたり、飛行部隊として世界最高を誇るに足る、飛行188700 時間に及ぶ無事故達成も可能であったのである。  それに比較して、芦屋基地の術科学校は旧態依然たる教育環境で、その改善は遅々として進 まなかった。あれでは事故が続発しても仕方がないと思われた。「孟母三遷」の教えのとおり、 教育の基本は良好な環境整備が最も肝要であると痛感した。その意味では、昭和45年3月、 航空学生教育隊を、芦屋基地から防府北基地へ移駐させたことは賢明な処置であったと思う。 
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