♪カモメの水兵さん♪

自衛隊こぼれ話

    昭和戦友会

 私の生まれ育った方城村は、福岡県田川郡の北西に位置し、福智山 (標高900メートル) の南麓に開けた山村です。その西隣は、「遠州七つ窯」の一つ<で有名な上野村 (現在赤池町)です。子供の頃は「熊谷窯」や「高鶴窯」などの上野焼の窯元にもよく遊び に行きました。また、延元・建武の武将、足利尊氏にゆかりの「興国寺」には、四月八日 の花祭りに甘茶を戴きに参りました。「福智山」には何度も登って、その優大な展望を楽 しんだものです。夏になると、「白糸の滝」に河鹿を取りに行ったりして遊びました。  上野村には、福智山を祀った「福智神社」があります。上野村の氏神様です。福智山の 頂上に小さな祠があります。「福智上宮」です。これに対して「福智神社」を「福智下宮」 とも呼んでいました。また、「白糸の滝」の傍に「福智中宮」が祀られています。 童謡「かもめの水兵さん」を作曲された、河村光陽氏の生家は「福智神社」の森のすぐ 傍にあります。神社の西側には大きな池があります。カイツブリやアヒルその他の水鳥と 親しみながら育った氏の感性が、あの童謡の情緒に繋がったのだと思います。勿論、この 池にカモメは居ません。 われわれが子供の頃は、玩具などはみな手作りでした。年上の子に習いながら、水鉄砲 や紙鉄砲それに竹馬や竹トンボなど主に竹細工でした。またお菓子なども滅多に買っても らえず、野いちごや桑の実・あけび・いっすく(野生無花果)・かわたけ(いたどりの若芽) その他、四季折々の山野の恵に与かっていたのです。  小学校に入る頃になると、遊びに加えて家業の手伝いが始まります。当時「田植え休み」 と言って、農繁期には一週間程度の休校日がありました。小学生といえども一人前の働き 手に組み入れられていたのです。 農繁期は勿論、夏は田の草とり冬は麦踏みなどのほかに、「釜炊き切り」と言って山に 入って雑木や松の下枝を切って束ね、背負って帰るのも子供の仕事でした。これが当時の 農家の燃料です。ワラビやゼンマイそれにフキなどの山菜もよく山に入って採取しました。  これらの要領は親が教えるのでなく、年上の子に連れられて見様見真似で覚えていくの です。ワラビやゼンマイは自生だが、茸やフキの中には栽培したものがあります。これら の区別なども年上の子に教えられます。  山菜以外にも「せんぶり」や「げんのしょうこ」それに「どくだみ」などの薬草も採取 しました。当時の田舎では「あきない」と言って、自作の野菜や採取した山菜それに薬草 などを近隣の町に売り歩いていました。この売上から応分の小使いを貰うのが楽しみで、 山菜の採取にも熱が入っていました。  小学校に通いはじめると交流の場は広がります。六年間の生活を通じて同級生は勿論、 在校児童全員の顔と名前ぐらいは覚えるのです。それだけ小さな学校でした。  村でも一番山奥に位置する上弁城区は戸数七十戸余りの集落で、われわれが子供の頃に は一戸当たり数名の子供がいるのが普通でした。支那事変から大東亜戦争にかけて大勢の 若者がこの集落から出征しました。総勢九十六名です。そのうち、私の長兄を含めて二十 三名が戦死し、七十三名が無事帰還しました。  わが家のように、兄弟三名がすべて出征した家も珍しくありませんでした。七十戸余の 集落から九十六名の出征です。年齢的に該当する者はすべて召集されていたのです。これ が戦時中における農村の平均的な姿でした。  戦後三十年。戦争中ここ上弁城区から出征して無事帰還した者が集まり「昭和戦友会」 を結成しました。そして毎年正月の第三日曜日に集まり、総会と懇親会を行っています。  この会合には、家業を継いで田舎に残った者も、古里を遠く離れて他所に居を定めた者 も、万障繰り合わせて参集します。横だけの関係である同窓会と違って、縦の繋がりを含 んだ構成です。  年齢的にも十数年の開きがありますが、何の違和感もありません。同じ古里の同じ環境 で育ち、同じ方言が通じる者同士が、年齢を超えての交流です。

 この会は「戦友会」の名称とは裏腹に、軍歌も歌はなければ戦功の自慢話もありません。 話題の中心になるのは、晩春の神事「祇園祭り」の山笠や、夏の夜の盆踊り、「六夜待」 と呼んだ青年団主催の田舎芝居など、集落共通の四季折々の行事など、皆が共有している 楽しかった思い出を語り合いながら、昔日を偲ぶのです。
 平成元年四月、会員の話し合いで基金を持寄り、公民館の庭に戦没者の慰霊碑と並べて 「平和祈念の碑」を建立しました。
   永遠の 平和を念じ集いたる      さきの戦に 征きし輩

「平和祈念の碑」建立記念。 (碑文には私の作が撰ばれました。また会員七十三名の氏名も裏面に刻まれています。)
参加人員もだんだん減少します。     「六夜待」について  私の故郷上弁城では、「七月二十六日(旧暦)には三体のお月様が、山の端から上がる」 との言い伝えがあります。このお月様を拝むために、右京畑の堤の土手にムシロを敷いて、 月の出を待ったそうです。ところが、ご承知のように新月に近い二十六夜の月は、夜半を 過ぎないと上がりません。  そこで集落の人は、ご馳走を食べながら将棋を指したり、座頭唄(琵琶の弾き語り)を聞 いたりして、月が出るのを待ちました。座頭唄は私の子供の頃までよく唄われていました。 香春岳落城の物語「香春岳くずれ」や、高野山に出家した父を尋ねて旅する「石童丸」の 物語などです。それが浄瑠璃や左衛門語り(浪曲)と次第に派手になって、歌舞伎役者まで 呼ぶようになったそうです。  この季節は農作業も一段落し、実りを待つ間の骨休めで、月見は口実にしかすぎません。 そのころ日露戦争に出征した若者が、戦陣の合間に覚えた芸を持ち帰り、他所者を雇わず に自前の芸を披露するようになりました。これが青年団の年中行事として定着しました。
   「六夜待」演芸会記念。

    番場の忠太郎?

     平成9年6月29日 西日本新聞 こだま。

      「六夜待」復活記念。

      青年団総会。
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