自衛隊こぼれ話

遺書及び遺稿

       学徒出陣で戦没された、 海軍飛行予備学生出身士官の遺稿集、「雲ながるる果てに」や 「あゝ同期の桜」が出版され、多くの方々に読まれて深い感銘を与えている。特攻隊員と して同じ立場を体験していた私は、これらの遺稿集を読んでその心情に共感を覚えるとと もに、よくあれだけの遺書や遺稿が書き残せたものだと、ある種の羨望を感じている。  また、軍隊という階級社会における士官と下士官・兵との身分や処遇の格差を、端的に 表した事例として受け止めている。飛行隊の指揮系統による上下関係は当然として、それ 以外に、下士官・兵の営内生活全般にわたる各種の制約が、士官に比較していかに厳しい ものであったか、改めて思い知らされる。  飛行機搭乗員が操縦や航法それに通信など飛行機の中で行う作業内容は、 士官も下士官 も同じである。そして、技術的に士官が勝り下士官が劣るとは限らない。飛行機の操縦や 機上作業において、士官以上に飛行経験のある下士官は大勢いた。  当然ながら、 彼ら飛行学生に対する操縦訓練を、練習機に同乗して直接指導するのは、 主として下士官の教員であった。また、航法や通信など機上作業の教務飛行に同乗して指 導に当たるのも、下士官の教員である。さらに、その機上作業練習機を操縦しているのも 下士官の操縦員であった。  ところが、一旦飛行機から降りると、立場は逆転して厳然たる階級に支配される。外出 一つを例にとっても、士官はカバンを下げて番兵から敬礼を受けながら衛門を自由に出入 りできる。カバンの中身など点検されることもない。  それに引き換え下士官・兵は、「外出員整列」で定刻に整列し、当直将校の容儀点検や 所持品検査を受けなければ外出が許可されない。だから下士官・兵は、私物などを持ち出 すのにも苦労したものである。  手紙を出す手続きも同様である。士官はその人格が認められていて、自主的に文通する ことができた。ところが、下士官・兵は書いた手紙を開封したまま分隊士(分隊付士官) に提出して、検閲を受けなければならない。分隊士は文面を読んで、機密保全や思想身上 などに問題はないかを確かめてからでないと検閲印を捺さない。  また当時は、機密保全が至上命令であった。そのため、軍人が出す手紙は検閲済みの印 がなければ、防諜上の目的から、憲兵隊や特高警察による開封検査が実施されているとの 噂が流されていた。事実かどうかは知らないが、これで検閲を受けずに手紙を出すことを 牽制していたのであろう。  そのため、われわれ下士官・兵は分隊士から注意をうけそうなことは書けなかった。初 めから他人に読まれることを意識しながら書くのだから、自分の気持ちをそのまま書くこ となど思いもよらないことである。だから、「元気に勤務しておりますから、ご安心くだ さい」など、通り一遍のハガキを出すのが精一杯であった。  もう大分昔の話になるが、東映が第13期飛行予備学生の遺稿集をもとに、「雲ながる る果てに」の映画を作製し、テレビなどでも放映された。次に、第14期飛行予備学生の 遺稿集から、「あゝ同期の桜」を映画化した。そして共に好評を博した。  これに気をよくした東映は、 シリーズ第3弾として、予科練を主題にした映画、「あゝ 予科練」を作製した。しかしこの映画は、前2作のように戦没者の遺書や遺稿もとにした ものとは内容が異なっていた。  その理由は、予科練出身者の遺書や遺稿がほとんど集まらなかったからである。また残 されていた遺書や遺稿も、簡単な文面のものが多く、これらを筋書きとしての映画化には 無理があった。  そこで東映は遺書や遺稿をもとにしての企画を断念し、甲飛12期生の生存者に呼びか け、その体験談を集めて、「あゝ予科練」のシナリオを作成した。だから、予備学生出身 者の遺書や遺稿をそのまま映画化したものとは、性格の異なった映画になったのである。  予科練出身戦没者の遺書や遺稿がほとんど残っていない理由は、学生出身の士官に比較 して年齢的にも幼く、 表現能力が劣っていたことは否定できない。しかし、それ以上に営 内生活における各種の制約がその原因であったことは明白である。  手紙一つ出すにしても前述のとおりである。また、すべての行動が監視されている営内 生活では、日誌など書く気にもなれなかった。日誌には自分の感想や意見などを書くのが 普通である。だから他人には読まれてたくない部分もある。  ところが、分隊士などから常時閲覧される立場にあるため、何月何日に何をした、とだ けの記録程度の無味乾燥な文章しか書けない。自分の所見を書くなど思いもよらないこと であった。  そのうえ、朝は「総員起こし」のラッパで起こされ、夜の「巡検終わり」まで、分刻み の日課や雑用に追いまくられる毎日である。営内生活で、自由になる時間といえば夕食後 から、「巡検用意」までの僅かな時間しかない。この間に入浴や洗濯それに装具の手入れ など、すべての個人的な用事を済まさなければならない。もちろん手紙もこの時間に書く。  ところが、毎晩のように実施される夜間飛行訓練などで、この貴重な時間さえも潰され ることが多かった。こんな雰囲気では、日誌を書く気になれないのも当然である。私が営 内生活を共にした下士官・兵の中で、日誌などを書いているのを見かけたことはなかった。 またあの当時は筆記用具なども粗悪品が多かった。万年筆にしても高級品はいざ知らず、 一般にわれわれが使っていたものは、インキが詰まったりペン先が割れたりして、すぐに 使えなくなるものが多かった。そのうえ、当時の酒保(食堂兼売店)は物資不足のため、 開店休業の状態で、便せんや筆記用具などは殆ど売られていなかった。  海軍の航空基地は一般に都会を離れた場所に設置されている場合が多い。だから、外出 しても田舎町では文具屋なども少なく、一般の買い物にも不自由していた。石鹸やタオル などの生活必需品はほとんどが配給制度で、町では買えず酒保での支給も全般的に不足し ていた。われわれ搭乗員は航空加俸などを含めて、比較的多額の俸給を戴いていた。だが、 お金はあっても品物がない時代であった。  そのため、封筒や便せんなどを手に入れるのにも苦労した。だから、普段は手紙など書 かず、 もっぱら官製ハガキで間に合わせていた。終戦後、遺書や遺稿などに接する機会が 多い。当時の封筒や便せんの粗悪さにはいまさらながら驚かされる。  そのうえ、遺書の中には便せんなどの用紙が手に入らなかったらしく、手帳やノートを 切り取って書かれたものも見受けられる。遺書の文面もさることながら、これを書く用紙 にも事欠く境遇にいながら、肉親に最後の思いを書き残そうと苦悩していた彼らの心中を 察するとき、書かれている文面以上に胸が痛む。  次に、遺書などの取り扱いについても問題があった。「特攻隊」が編成されて今生の別 れを告げたいと思っても、どのようにして両親に渡せばよいのかわからなかった。当時、 私の所属していた航空隊で、飛行隊長や分隊長など責任のある立場の者から、遺書の取り 扱いについて明確な説明を受けた記憶はない。手紙なども従来どおり開封のまま分隊士に 提出して検閲を受けなければ出せなかった。  そのうえ、「特攻隊の編成は軍の機密である。部外者には親兄弟であっても話してはい けない。また、お互いの間でも話題にしてはならない」と、釘を刺されると、これに関連 したことは手紙に書くことはできない。  こんな雰囲気の中でも下士官・兵は知恵を絞った。それは検閲を受けずに直接手紙を出 すことである。酒保に勤めている女性に頼んで、封筒だけを女文字で書いてもらったり、 下宿先の住所を借りたりしていた。  手紙の内容は、軍の機密とは直接関係のないことである。しかし、露見すればそれ相応 の罰直(体罰の俗称)を覚悟しなければならなかった。そのような思いをしてまで、他人 の目に触れずに自分の心情を肉親に伝えたいと願っていたのである。  私も「特攻隊」に編入されて死を覚悟した際、今生の別れが近いことをそれとなく両親 に知らせたいと思った。そこで規則を無視し、検閲を受けずに下宿先の住所を使って父親 に宛ててハガキを出した。「元気に勤務しております。今年のお盆には帰れるでしょう」 という意味の、簡単な文面であった。    「お盆には帰れる」という文字に、隠された意味を悟った父親は、空襲の激しい中をわ ざわざ面会に来たのである。ここまでは上出来であった。ところが、検閲を受けずに下宿 の住所を使ってハガキを出したことが、副直将校に露見した。そのため、分隊全員の集合 している前で制裁を受ける結果となった。見せしめの制裁である。          *   召集令状を受け、西部第100部隊(大刀洗)に入営していた長兄が、船待ちのため門 司港の旅館に分宿しているとの知らせを人伝えに聞きつけた母親が、末の姉と2人で面会 に行った。運よく旅館を捜し当てて面談することができた。昭和19年10月6日のこと である。    その翌日、今度は父親が旅館を訪れた。だが、部隊はすでに乗船した後で、面会するこ とができなかった。比島に向け門司港を出港した船団は、昭和19年10月26日早朝、 バシー海峡パブヤン島沖で敵潜水艦の攻撃を受けた。そして、長兄の乗船していた「大博 丸」は撃沈され、約半数の人員が救助されたが長兄は船と運命を共にした。    父親は長兄と最後の面会ができなかったことを心残りにしていたと思われる。だから、 私のハガキを見て、この機会をのがしたらこの世ではもう会えないと思い、遠路はるばる 面会に来たのでる。    面会が終わりいよいよ別れるとき、父親から「成田山」の「御守袋」を渡された。「特 攻隊」に編入され生還が望めなくなったわが子に、いつまでも無事にいてほしいとの願い を込めて、「御守袋」を持たせる親心に、胸中込み上げるものがあった。    私は別れ際に、「神風特別攻撃隊・八洲隊」の編成に際して、第3中隊の仲間と写った 写真を父親に渡した。その裏面には、遺書の代わりに拙い辞世をしたためていた。
     2列目左から2人目筆者。
               火柱と 共に消えゆく 命なれど                  神風吹かして 八洲護らむ                     八洲隊 永 末 千 里                       *   戦後聞いた話である。同期生の中には出撃基地へ移動する途中、叱責を覚悟で編隊を離 れて故郷の空へ飛び、遺書をマフラーに包んで投下するという非常手段をとった者がいる。 また、いろいろ手づるを求めて幸便に託した事例も数多く見聞きしている。  中には出撃を前にして開き直ったのか、未検閲の封書を直接郵便局に持ち込んだ者もい る。彼は最期の思いを遺書に託し、所属部隊の住所を書かず郵便局員に頼んで家族に発送 してもらった。  郵便局員なら当然軍の検閲制度を承知しているはずである。だが、特攻隊員の心中を察 して、特別に便宜をはかったのであろう。もちろん、住所を書いたとしても、出撃すれば 返信が受け取れないのは分かりきったことである。  海軍では、半舷上陸といって兵員の半数が交替で夕食後から翌日の朝食までの間、外出 が許可されていた。だから、外出して憩うために民家に下宿を持つことが通例であった。 ところが戦線が内地に近づくにつれ、夜間飛行訓練などが連日行われるようになり、外出 も制限されることが多くなった。そのため下宿を持たずに、たまに外出が許可されても、 その夜かぎりの旅館や海軍専用の集会所などを利用する者が増えていた。  また、原隊を離れて訓練基地に移動したり、作戦参加のため出撃基地に移動するなど、 同じ基地に長く滞在することが少なくなり、下宿でゆっくり憩うことなどできない状況に なっていた。まして、出撃基地は天候待ちの仮の宿に過ぎない。到着して翌朝には出撃と いう例もある。だから、外出して一息つくこともできず、土地の方々との交流もできない うちに出撃するのが普通であった。  しかし、出撃基地付近の郵便局員や民間の方々の中には、特攻隊員の心情を思いやり、 家族との連絡を仲介したり、進んで彼らの要望を受け入れるなど、積極的に協力した話が 数多く残されている。  また、出撃の状況をご遺族にお知らせしたり、不時着して帰還した生存者からの伝聞を 連絡するなど、いろいろと協力していたことが伝えられている。国のため命を捧げる者に 対する、感謝の気持ちがそうさせたのであろう。  戦死した同期生の遺書を拝読していてあることに気がついた。それは、原隊や訓練基地 で書かれた遺書に比べて、串良や国分それに宮崎など出撃基地で書かれたものは、自分の 思いを比較的率直に書いているように見受けられる。  これは出撃を目前にして開き直り検閲を無視して、つてを求めて幸便などで内密に発送 したためであろう。それとも、出撃基地では原隊や訓練基地のように厳格な検閲は実施し なかったのかも知れない。  出撃基地に移動するのは、1番機と列機(2番機以下の総称)、機長とそのペアという 飛行隊の編成である。分隊長や分隊士といった内務組織の職責は原隊や訓練基地に残した ままである。  だから出撃基地では分隊長や分隊士といった肩書はなく、分隊長は「特攻隊」の指揮官 であり、分隊士は小隊長や機長という身分関係である。そのため、自分も同じ「特攻隊」 の同志であるとの感情から、私信の検閲も大目にみていたのであろう。          *   戦後調査した特攻隊関係の資料(鹿屋航空基地史料館に保存)の中に、徳島空で編成し た「徳島白菊隊」の隊員が書き残した「出撃に際して所感」が残されている。話によれば、 徳島空では、司令川元大佐の指示により、特攻隊員全員にこの課題を与えて提出させたそ うである。当然用紙も支給されている。  しかし、画一的な題目を与えられたのでは本心など書けるとは思われない。「特攻出撃」 を命じたうえに、その決意を書かせて確認することで、二重の足かせを嵌めたことにはな らないだろうか。そのうえ、関係者が読んで保管したままで、ご遺族に渡されてはいない。  内容を読むと、航空隊司令などお偉方に読ませるための、建前の文章としか思えない。 いわゆる肉親宛に書かれた遺書とは似て非なるものである。しかし、他の航空隊のように 私情を捨てさせるため、 文通などの検閲を厳しくして、肉親との交流を断ち切るようなや り方に比較すれば、 はるかに人間的である。 いかなる形にせよ、最後の気持ちを書き残す ことで、 出撃する隊員は死に対する気持ちの整理ができたのではなかろうか。  当時の指揮官に、もしも一掬の涙があるならば、国家のために進んで命を捨てる覚悟を 決めた若者に、 肉親に対する別れの言葉を自由に書かせたうえで厳封し、遺骨の代わりに 家族へ送るぐらいのことはできたはずである。これが、ご遺族に対するせめてもの償いで はないだろうか。  また、出身地が基地に近い者には時間が許すかぎり休暇を許可し、家族を呼べる者には 面会させるなどの便宜をはかり、肉親との別離の機会を与えることも可能だったと思う。 親に会わせることで、決心が鈍るのではないかと疑っていたのであれば論外である。  当時のわれわれは、子供の頃から忠君愛国の教育を受けて育ち、 最も危険とされていた 飛行兵に自ら志願した者たちである。国家の将来と自己の置かれた立場を認識し、我が身 を犠牲にして国に盡くす覚悟はできていたのである。  飛行隊が原隊を離れて頻繁に移動したり、空襲による交通機関の麻痺などにより、ご遺 族のご臨席を仰いでの、「海軍葬」を行うことが無理になったことは理解できる。しかし、 所属部隊の担当者は、各鎮守府と市町村役場の兵事係を通じて、遺書や遺品をご遺族に届 けるぐらいの事はできたはずである。  場合によっては、 このような通常の手続きを経ることなく、特別な処置として部隊から 直接ご遺族宛に発送することも可能だったはずである。それが、「体当たり攻撃」という 死を前提とした非情な命令を下した者が、己を犠牲にして国難に殉じた若者に対する責務 ではないだろうか。  形式的な戦死の通知書と一緒に渡された、「白木の箱」の中身が、石ころか氏名を書い た紙切れでは、ご遺族の方々は空しさが募るばかりである。まして、故郷に思いを残しな がら死にゆく者は浮かばれない。
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