自衛隊こぼれ話

        十有七春秋

遺 書 十有七春秋 逝くものは將又何 幼時濃藍の空に浮かぶ三日月を眺め何を願ひしや 悠久三千年 皇国の歴史は今日何をか語る 噫々 時遂に来たる 粉骨以って皇国に報ゆる時は来れり 既に右田戦死し真島又沖縄に散る われら貴様等の後をしたひて 今日特攻の一員に加はる事を得 喜ぶべし 武人の本懐これに過ぐるものなし 夫れ報恩の道 今日をおきて又何れの日にか求めむ 三千とせの歴史守りて捨つる身と 思へば軽きわが命かな いざ勇み我は出て征く琉球の 空に散りにし友をしたひて 寸骨を埋むる豈青山を待たんや 吾身北山頭一片の煙とならむとも 英霊とこしへに祖国を守らん 皇天后土 願はくば吾が機を守らしめ給へ 古より曰く 一念石に立つ矢の験ありと 何ぞ一撃沈まざる敵艦やある 快なる哉壮なる哉この一挙 桜花の下いざ若桜勇躍征かん 天皇陛下萬歳 帝国海軍萬歳 最後に皇恩の萬分の一にも報ゆる事の 出来ざるを詫び 又吾人をして今日まであらしめ給ひし 両親 教官 教員 恩師に対し 衷心より感謝申し上ぐ次第なり 百里原空特攻隊 海軍二等飛行兵曹 伊 東 宣 夫 遺 辞 世 行く春に逢はで散りゆくますらおの 心は常に楽しくありけり 煙ふく桜が島に生ひたちて 煙ふく日に桜散り行く

       伊東宣夫君遺影。
  この遺書は、故海軍少尉伊東宣夫君が鹿児島県姶良郡の国分基地から、特攻出撃に際し て書き送ったものである。 彼は昭和2年11月14日、大分県南海部郡上堅田村にて出生。 昭和18年8月1日、第12期海軍甲種飛行予科練習生として鹿児島航空隊に入隊した。 朝な夕な、煙り噴く桜島の雄大な姿に接しながら、8ヵ月に及ぶ猛訓練に耐え抜いたので ある。また、峨々たる桜島の山容を間近に見下ろしながらの初飛行も体験した。 昭和19年3月、予科練を卒業して上海空へ移動した。ここで、第37期飛行術練習生 を命ぜられ、航法や通信などの技能の修得に努めた。昭和19年9月、飛練を卒業し台南 空に配属され、艦上爆撃機の偵察員として錬成訓練を開始した。 昭和19年12月、721空(神ノ池基地)に転属を命ぜられ内地に帰還した。ここで も艦爆隊に所属し彗星艦爆による錬成訓練に励んだ。 明けて昭和20年3月、練習航空隊 から実施部隊に編制替えとなった百里原空へ転属となり、さらに技量の錬磨に努めた。 アメリカ軍の沖縄侵攻が開始されると、百里原空においても「神風特別攻撃隊」が編成 され彼は、「第2正統隊」の一員に選ばれた。桜花爛漫の春四月、出撃基地である第2国 分基地へ進出した。若鷲誕生の地鹿児島空を巣立ってから、既に1ヵ年が経過していた。 この基地で再び彼が眺めた煙り噴く桜島が、 この世の見納めとなったのである。 昭和20年4月28日、出撃命令を受けた伊東2飛曹は99式艦上爆撃機に搭乗し、 1514基地総員の見送りを受けて同基地を発進した。そして、沖縄周辺の敵艦船に対し て壮烈なる「体当たり攻撃」を敢行してその短い生涯を終えたのである。享年17歳。 遺書に、「既に右田戦死し真島又沖縄に散る」と書かれているがこれは、601空攻撃 第1飛行隊所属の、右田勇2飛曹と真島豊2飛曹のことである。右田2飛曹は大分県宇佐 郡の出身で、 鹿児島空の予科練時代は彼と同じ24分隊の6班に所属して、 共に厳しい訓 練に耐えた。次に、上海空に移り偵察専修の飛行術練習生として、技量の錬磨に精進した 仲であった。

鹿児島空 第24分隊6班。
国分基地での再会を喜び合うとともに、同じ艦上爆撃機の偵察員として共通の話題に興 じたことであろう。さらに、「神風特別攻撃隊」の隊員として、その戦果を誓い合ったに 違いない。しかし、この語らいも長くは続かなかった。 昭和20年4月17日早朝、「神風特別攻撃隊第3御盾隊」指揮官天谷中尉機の偵察員 として、彗星艦爆に搭乗した右田勇2飛曹は、0700国分基地を発進。喜界島155度 80浬付近の敵機動部隊に対して、必死必殺の「体当たり攻撃」を敢行し祖国防衛の礎と なった。享年18歳。 また、真島豊2飛曹は同期生ではないが(特乙1期生)、台南空時代に艦上爆撃機の錬 成訓練を一緒に受けた仲であった。彼もまた「神風特別攻撃隊第3御盾隊」の一員として、 「北(ほくぼう)山頭……」は、唐の詩人劉庭芝の「百年同じく謝つ西山の日、 千秋萬古たり北の塵」が出典。北は洛陽の北方にある山の名。「北の塵」 とは、死んで土にかえること。 また、この遺書が届いたのは昭和20年4月23日のことである。差出人の住所には、 「姶良郡日当山郵便局、伊東宣夫」とだけ記され、「書留」の印が押されていたという。 ところが、このような遺書まで届けられているのに、戦死の通知が正式に伝達されたのは、 既に戦争が終わりを告げた、昭和20年10月11日のことであった。 伊東宣夫君は、郷里の区長宛てにも次のような決意を書き送っている。封筒には、鹿児 島県姶良郡第2国分基地百里原空派遣隊と記入されている。しかし、 日付はない。恐らく 出撃を目前にして、入隊に際してお見送りいただいた、郷里の皆様方の面影を瞼に浮かべ ながら、 最後の言葉を書き残したのであろう。          * 一筆申し上候 沖縄方面作戦愈々緊迫せるとき 大死一番 特攻の一員に加はるを得候事は 無上の本懐 今日をおきてまたいづれの日にか是れ求め候はん 一途に 皆々様の御鞭撻のお陰と深く感謝申上候 思へば一昨年夏八月 皆々様に山崎の広場にてお別れして以来 幾度か念願致し居り候事 勿論生還は期しておらず………… 末筆乍ら 区民一同様の御多幸のほどを御祈り申上候 逝く春に 逢はで散り行く若桜 御国のためぞ 心は楽し 鹿児島県姶良郡第二国分基地 伊 東 宣 夫 遺 区民御一同様 晩春の国分基地を、総員の見送りを受けて発進した99式艦上爆撃機の偵察席は、遅咲 きの桜の花で飾られていたという。母親の写真を胸のポケットに納めて出撃した伊東宣夫 2飛曹に、いよいよ最期の時が訪れた。「ワレトツニウス、テンノウヘイカバンザイ」。 彼はいかなる思いでこの決別の電報を発信したのであろうか。続いて電鍵を押さえ放しに して、「ツ──────」と長符を発信する。この符号が途切れたのは、昭和20年4月 28日午後7時であった。     * 伊東宣夫君は文学的才能があり漢詩にも造詣が深く、友人には将来小説家になりたいと 漏らしていたという。佐伯中学時代から、 詩や小説などをたくさん書き残している。その 中から予科練入隊を前にして書かれた一編の詩を紹介する。 ほたる (昭和十八年六月十九日 二條にて 宣夫しるす)   草露踏んで川べりの 柳のかげに来て見れば 夢にまよへる蛍が 黒き闇夜を流れけり 消えては点じ又消えて くらき彼方に流れ行く かぼそき光のぬし蛍 いづくの果てに行くや君 われが心のほたるも さまよいながら流れ行く あまつゆ宿るまちなかの こひしき家のかどべまで  
目次へ 次頁へ
[AOZORANOHATENI]