自衛隊こぼれ話

       最後の親孝行

      拝啓 永らく御無音に打ちすぎ相済みません 皆様には御無事で御暮らしの事と思います 私も希望の特攻隊に入り  桜の花と散ることが出来る様になりました 今日までの御恩は死しても忘れません 私の最後の親孝行は必中攻撃でありませう 必ず敵の艦船に体当り攻撃を行ひます お母さん御元気で暮らして下さい 弟妹の事はしっかり御願ひ致します 村の皆々様にもよろしく御礼を言って下さい ではお先に失礼致します  又靖国の庭で会ひませう       若桜今を盛りと咲きにほふ         共に散り行く琉球の空                                 周幸 より  お母様へ                 村御一同様 遂に肉嗅相別る 心中亦空し 再び相接するの期あらんや 唯靖国の庭に会ふことを期す 邦家の為完爾として散らん 戦局まさに危急 国家存亡の秋 雲染む屍 大空以外誰か他に散らんと欲せん 悠久三千年の歴史を顧み 唯大義に生くるのみを本分とす 国を思ふまにまに 一命敢て論ずるに足らず 見敵必殺の意気に沈まざる敵空母なしと信ず 終りに在世中の御厚意を深く謝し 御多幸を御祈りします                     福 田 周 幸
     福田周幸君遺影。
              *  この手紙は、出撃を目前にして母親と、福岡県三井郡三国村の村長に宛てて出されたも のである。母親に最後の別れを告げるとともに、 生まれ育った三国村に思いを馳せ、出征 に際してお見送りくださった、古里の方々の面影を瞼に浮かべながら書いたのであろう。  当時の憲法では、兵役は日本男子の義務であった。そのうえ、出征は一族一家の名誉に 止まらず、郷土の誉れとして称賛された。また、戦死すれば村民あげての「村葬」が行わ れた。 そのうえ門口には、「誉の家」の標識が掲げられ、その栄誉が称えられ時代である。  私も予科練に合格して鹿児島航空隊に入隊するに際して、友人や親族が集まり壮行会を 開いていただいた。出立の日には親戚縁者と連れ立って氏神様に参拝して、「武運長久」 を祈願した。そして、「祝入隊」の幟を先頭に小学校の音楽隊が軍歌を吹奏しながら最寄 りの駅まで、先輩や友人から激励を受けたり、 お別れの言葉を交わしながら歩いた。  駅前の広場ではお見送りくださった皆様方を前にして、入隊の決意とお別れの挨拶それ にお見送りのお礼を述べた。そして、万歳三唱に送られながら列車に乗り込んだ。線路沿 いには近郷の方々が総出で、日の丸の小旗を打ち振っての、盛大な見送りを受けて古里を 後にしたのである。この見送り風景は、支那事変が勃発して以来、次々に出征する軍人を 送り出す儀式として定着していた。    * 毎日御暑うございます 毎度お便りを戴きまして誠に有難う存じます  日毎にはげしくなります空襲 まして御当地はどんなにかお困りの事と 御察し申上げます こちらはおかげ様で今の所空襲は受けましても少しの 被害もうけませず今日まで過ごして居ります  さて先達ってからわざわざお便りを戴きましたのに  何やかにやに取りまぎれついに返事さえも差上げませず誠に失礼致しました 何とぞ悪しからず思召し下さいませ 今日又おなつかしきお便りを戴き ほんとうにありがとう存じました おおせの通り私の方でも今度の発表をほんとうに待って居りましたのに  何度新聞を見ましても 子供の名前がありませんものですから  家中もうがっかり致しております 実は私面会に参りました折 久留米のお方からもお手紙をあづかって来て居りましたので 今度の発表がありましてからすぐに久留米までお尋ねに参りました所  やっぱりあちら様も発表のないのにほんとうに落胆していらっしゃる 模様でございました やっぱり子を思う親心に変わりはありません  丁度四月二十四日 あの空襲のはげしい鹿児島の基地にたどりついて  久し振りに我が子に面会を致しましたが あの時は八幡のお方と二人  面会所まで出て来ましたので 外の方とはお目にかからず  たゞ子供にことづけてあったお便りを私があづかって参りましただけで お宅の宣夫様ともお目にかゝっては居りません 基地は鹿児島県の国分と云う所でほんとうに高い山の上にありました  二時間程話して汽車の時間もありますものですからすぐに山を下りました  その時子供が申して居りましたが 今度原隊を立って来ます時には 桜の花で身体中いっぱい皆さんからかざって戴いて とても もてなされた様に申して居りました  所がその後なんの音沙汰もありませんでしたが  五月中旬ごろ鹿児島のある人から  四月二十八日に立ちました様に申して参りました  それから二十日もたってから又右の人からのお便りに  私の子供たちと一しょにお立ちになったお方が  エンジンの故障で途中から引返してお出になりましたさうです そしてその御二人の方のお話しに                         「福田君たちの最期は二十八日十九時〇〇分です」 とはっきりおっしゃつたそうです それを私の方まで知らせて戴きました 右のお方と言うのは まだ子供等が基地に居ります時に  特攻隊を慰問に行って下さったお方だそうです この様な次第で どうしても四月二十八日には鹿児島を立って居ります事は間違いありません そして後は一機も帰らなかったさうでございますから もうとても生きては居ないものとあきらめては居りますものの  発表一つ見らぬ間はどうしても心が落ちつきません 私も丁度御宅様にお尋ねして見ようかと思って居りました所でした  本当にどうしたのかさっぱり分かりません 私の方でも隊名は分かりません 面会に行きました折も何一つくはしい話は致しませずに ほんの会ったばかりでございました 実は早く御返事差上げねばなりませんでしたけれども つい今までも差上げませず 何とぞ悪しからずお許し下さいませ 先ずは乱筆にて御返事まで                  かしこ                         周 幸  母 輝 子 伊 東 と も 様          この手紙は福田周幸君の母親福田輝子さんが、同じ「神風特別攻撃隊・第2正統隊」で 出撃した、伊東宣夫君の母親宛てに出したものである。激しい空襲の最中に、死を決意し た最愛のわが子と面会し、最後の別れにどんな言葉を交わしたのであろうか。  わが子の身の上を心配し、消息を尋ね合う母親の不安な気持ちが伝わってくる。手紙の 中に八幡の方とあるのは、同じ「正統隊」で出撃した同期生で旧八幡市出身の漆谷康夫君 (17歳)である。  息子は既に戦死したのであろうと不安を感じながらも、正式な発表がないためもしやと の思いで、同じ立場にある母親がお互いに消息を確かめ合う気持ちが痛いほど感じられる。 遺書にもひとしい手紙が届けられているのに、戦死の連絡もないまま終戦を迎えたのであ る。この間の母親の不安や心痛は察するに余りある。  彼らが所属した「第2正統隊」の功績は、8月7日付聯合艦隊告示第145号によって 全軍に布告されている。しかるに、いかなる怠慢かその氏名は公表されず、戦死の通知が ご遺族へ届けられたのは、昭和20年10月のことであった。

百里原基地を発進する第2正統隊の九九艦爆。

第2正統隊の勇士。
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