自衛隊こぼれ話

ここに百里原海軍航空隊ありき

         昭和30年代になると戦後の混乱も少しずつ治まり、同期生の消息もだんだんと判明し てきた。そして、甲飛12期生の戦没者慰霊祭及び同期生会が計画され、地区持ち回りで 盛大に実施されるようになった。また航空隊ごとの会合や機種別の集いなどがしばしば行 われるようになり、旧交を温める機会が多くなった。 この中に「37期百里会」と名付けた会がある。百里原空で艦上攻撃機の実用機課程を 一緒に受けた、飛練37期のクラス会である。定期的に会合して、戦没された教官や教員 それに同期生の慰霊の行事やお墓参りを行っている。   田中和夫君の母親千代子さんは、この会合や全国同期生会の慰霊祭に度々参加されてい た。その際、亡き和夫君に代わって母親に孝養を尽くされている妹さんが、介添えとして 随行されていた。しかし、最近はご高齢のためお体が不自由らしく、参加されなくなった。  過日、同期の平岡健哉君が久しぶりにお墓参りに伺った。ところが、応対に出た妹さん から、「平岡さん、申し訳ないけど母には会わずに帰ってください」と言われた。不審に 思った平岡君にその理由を次のように説明したという。 母親千代子さんは、和夫君の予科練時代の写真や中学生時代に書いた絵画などを見ては、 「和夫!和夫!」と、呟きながら嘆き悲しむそうである。 だから、兄を思い出させるよう な品物は、極力目に付かない所にしまっているのだが、それでも探し出しては、涙を流し ながら見入っているという。  それを宥めるのに一苦労するそうである。だから、平岡さんに会えば必ず兄さんを思い 出して、収拾がつかなくなるので、会わずに帰ってほしいとの願いであった。  悲しみは時間が解決すると言われる。だが、50余年経った今でも、最愛の一人息子を 亡くした母親の悲しみは、増すことはあっても薄れることはない。母親千代子さんの胸の 中には、17歳当時の和夫君が今でも生き続けているに違いない。                *  石川県金沢市出身、故海軍少尉田中和夫君の碑銘を紹介させていただく。彼は前記のと おり百里原空で艦上攻撃機での実用機課程を私と一緒に卒業した。実施部隊は、131空 攻撃256飛行隊(香取基地)に配属された。ここで天山艦攻による錬成訓練を実施し、 訓練終了と同時に串良基地へ出陣した。              アメリカ軍の沖縄侵攻作戦が開始されて間もない昭和20年4月6日、「神風特別攻撃 隊菊水部隊天山隊」が編成された。第3小隊2番機の操縦員に指定された田中和夫2飛曹 は、喜界島180度78浬付近の敵機動部隊攻撃の命令を受け、1535勇躍串良基地を 発進。1750敵戦艦を発見するやこれに対して必死必殺の「体当たり攻撃」を敢行して 壮烈なる戦死を遂げた。
    田中和夫君遺影。
    また、望月九州男2飛曹(大分・17歳)も第2小隊2番機に搭乗して出撃、敵戦艦に 突入して散華された。彼らは同日付で海軍少尉に任命され、功四級勲六等に叙せられた。 そしてその功績は、聯合艦隊告示第91号により全軍に布告された。              事 歴 故海軍少尉功四級勳六等田中和夫君ハ 昭和二年十月十七日金澤市大桑町二十三番地 田中家長男トシテ生ル四代勇作ヲ父トシ千代子ヲ母トス 性俊敏沈毅ニシテ頴悟夙ニ 郷黨ニ推稱サレ石川縣立第二中學校ニ學ヒ其ノ將來ヲ嘱目セラル 大東亞戰争酣トナ ルヤ年歯漸ク十八歳勉學半ニシテ 甲種飛行豫科練習生ヲ志願シ毅然筆ヲ棄テゝ銃劍 ヲ把リ鹿兒島海軍航空隊ニ入ル 同十九年三月右航空隊ヲ卒業シ進ンテ茨城縣谷田部 百里原航空隊ニ於テ艦上攻撃機教程ヲ卒ヘ其ノ奥義ヲ究メ 實戰部隊香取航空基地ニ 猛訓練ニ從事シ其ノ技神ニ入ル 時恰モ沖繩ノ戦局芳シカラス俊鷲永ク翼ヲ休ムヘキ 秋ニ非ス 君大命ヲ奉シテ南九州串良航空基地ニ進出シ艦上攻撃機特攻隊ノ編成ヲ見 ルヤ拔カレテ神風特別攻撃隊菊水部隊天山隊ニ属ス時ニ昭和二十年三月三十一日ナリ カクテ君ハ擧國一億民衆ノ期待ニ應ヘテ沿岸防備中四月六日南西諸島喜界島一八〇度 七八浬ニ游弋中ノ敵空母竝戰艦及支援部隊ニ特攻ノ命ヲ受ケ十五時三十分串良基地ヲ 發進ス同十七時五十分遙カニ敵戰艦ノ炎上セルヲ認メ得タリシカ十七時五十九分我レ 戰艦ニ躰當リスノ壯烈ナル長符連送ノ打電ヲ最後トシテ永ク消息ヲ絶ツ 噫乎君能ク 神鷲ノ精華ヲ發揚シ身ヲ殺シテ以テ悠久ノ大義ニ殉ス 大和男兒ノ本懐豈ソ之ニ過ル モノアルヘキ厥ノ忠烈ハ洵ニ萬世ニ燦タリ 事畏クモ上聞ニ達シ昭和二十年四月六日 君カ忠誠ヲ嘉賞シ 二階級特進ノ榮ヲ賜ヒ海軍二等飛行兵曹ヨリ海軍少尉ニ任セラル 家門之ヲ譽トシ郷閭擧ツテ之ヲ稱フ父勇作思慕ノ念熄ミ難ク茲ニ事歴ヲ認メ石ニ鐫シ 以テ後昆ニ傳ヘントス 衲乃チ需ニ應シ同年五月廿一日付香取航空隊分隊長ノ報告ニ 基キ英魂ヲ偲ヒ茲ニ録ス  昭和二十四年五月              眞宗大谷派金澤別院     輸 番  安 藤 専 哲 誌           *  昭和20年3月、練習航空隊から実施部隊に改編さた百里原航空隊では、教務飛行を中 止し、 われわれの操縦訓練を担当していた教官や教員が中核となり、訓練に使用していた 97式艦上攻撃機及び99式艦上爆撃機で「神風特別攻撃隊」を編成した。そして、艦上 爆撃機は第2国分基地へ、艦上攻撃機は串良基地へ進出し、沖縄周辺の敵艦船群に対して、 還らざる攻撃に飛び立ったのである。  昭和51年、われわれが飛行術練習生当時の第2飛行隊長であった、後藤仁一氏の呼び かけで、海軍時代の関係者が集まり、航空自衛隊百里基地の一隅に桜を植えて記念碑を建 立した。そして、戦死者及び殉職者の名簿を軍艦旗に包み、3吋砲薬莢に収めて碑の下に 埋めた。  形は歴史を語り継ぐ記念碑としたが、われわれの真の願いは慰霊碑である。この碑建立 や除幕式の実施にあたり、航空自衛隊百里基地の隊員諸兄が示された友情とご支援に対し て、衷心より感謝の意を表します。また、今後とも桜の花の咲くころにはこの碑のもとに 集まり、若くして祖国防衛の礎となって、大空に散華された勇士を偲んでいただければ幸 いである。碑銘は次のとおり。   ここに 百里原海軍航空隊 ありき 記念に桜を植え その栄光を伝う     昭和五十一年三月     百里原海軍航空隊有志

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