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鷹城様hush2017/06/04 [20時01分21秒]
 こちらこそはじめまして。
 また、鄭重な御挨拶を賜り恐縮致しております。
 さて、信号符字に関してましては、
出沼氏の御意向次第でありますし、当方もリンク・フリーを銘打っている以上、そのページにリンクすることを拒むことはできないと思っております。
 ただ、御申し出に際しまして、以下のページを御高覧戴ければとは思っております。
 http://hush.gooside.com/For_Link.html#anchor111016
 そして、そのあたりについては、随分と軟化は致してはいるのですが、御推察戴ければ幸甚に存じます。
 


はじめまして。鷹城2017/06/04 [14時05分38秒]
「はいふりWiki」にて、艦艇の記事を書いて居ります、PN:鷹城と申します。

こちらのサイトで、旧海軍艦艇の信号符字が掲載されているのを拝見しまして、「はいふりWiki」でも、信号符字を掲載させて頂きたいと思い、ご許可頂きたく連絡させて頂いた次第です。
資料元の出沼さんにも、こちらと同様のお願いを出して居ります。

不躾なお願いで恐縮ですが、宜しくお願い申し上げます。

用件のみではありますが、これにて失礼させて頂きます。

                                                              草々


海軍航空隊スキー様2017/04/10 [04時56分38秒]
 いつもありがとうございます。
 早速、情報を更新させて戴きました。
 今後ともよろしく御願い申し上げます。

 写真は三重県鈴鹿市石薬師町にあった陸軍第1気象連隊兵舎跡付近に戦後植えられた桜並木。
 


荒井辰夫/靖夫(兵53期)、荒木浅吉(兵64期)海軍航空隊スキー2017/04/09 [13時08分31秒]
こんにちは。
標記の人物について、私の側でも調べていたことを記します。貴HPに記載の内容と重複する箇所もありますが、ご容赦ください。

・荒井靖夫
元の名は辰夫。1934/8/1に辰夫から靖夫(ノブヲ)へ改名した旨を海軍省へ届け出ています。

隼水雷艇長の前職は第一水雷隊附。
→1938/12/15 隼水雷艇長
→1939/11/15 摩耶水雷長兼分隊長
→1940/10/15 文月駆逐艦長
→1941/9/10 朝霧駆逐艦長
→1942/4/25 海軍水雷学校教官
 →1943/6/1 任海軍中佐
→1944/1/10 早霜艤装員長
→1944/2/20 早霜駆逐艦長
→1944/4/2 横須賀鎮守府附被仰付、以後未調査。

・荒木浅吉
→1944/1/20 呂号第59潜水艦長(大尉)
→1944/6/5 伊号第363潜水艦艤装員長
→1944/7/8 伊号第363潜水艦長
 →1944/10/15 任海軍少佐
→1944/12/2 横須賀鎮守府附被仰付
 →横須賀潜水艦基地隊附(発令日付未調査)
→1945/6/8 伊号第352潜水艦艤装員長
→1945/8/9 伊号第157潜水艦長
→1945/11/12 第52号海防艦長
 →1945/12/20 海第52号艦長(艦名呼称の変更による職名変更)
→1946/6/28 依願免官


御蔭様で2017/03/14 [06時59分41秒]
拙サイトは15年目を迎えました。
皆様方のご愛顧の御蔭と感謝致しております。
今後ともよろしく御願い申し上げます。
 


りゅう様2017/03/04 [22時09分10秒]
 御教示多謝。
 なかなか、そういう細かいところは気づかないので、実にありがたい御指摘でありました。
 今後ともよろしく御願い申し上げます。
 


4821船団についてりゅう2017/03/03 [22時43分45秒]
はじめまして。いつも参考にさせていただいております。

4821船団に関する記述について、下記ページでそれぞれ

駆逐艦電:トラック寄港後駆逐艦夕月とともに4821船団を護衛中
駆逐艦雷:トラック出港後会昌丸等からなる4821船団を駆逐艦夕月とともに護衛中
駆逐艦夕月:トラック寄港後駆逐艦雷とともに4821船団を護衛中
会昌丸:トラック寄港後御嶽山丸、第18御影丸、総洋丸、さんとす丸とともに4821船団を編成し駆逐艦雷等に護衛されて航行中

となっていますが、アジア歴史資料センターの以下の資料によると護衛は電と夕月のようです。
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C08030753400
29ページ目から4821船団についての記述、28ページまでは4514船団について書かれています。


ありがとうございますhush2017/02/26 [12時46分03秒]
 わざわざの御教示感謝申し上げます。
 実は、数ヶ月前にアジア歴史史料センターで御教示戴いた文書があることを見出しまして、活用させて戴いているところであります。
 人事に関しましては、あまりにも膨大な量のため、遅々としてはかどりませんが、今後とも御指導、御鞭撻を戴ければ幸甚に存じます。
 本当にありがとうございます。
 


大正期の辞令広報海軍航空隊スキー2017/02/26 [01時09分15秒]
遅レスになります。
2016年3月頃の掲示板書き込みで「大正年間の辞令広報が〜」とありますが、基本は官報で調べるしか無いのですが、第一次大戦中は人事異動自体が機密扱いだったようで官報にも掲載がありません。
第一次大戦中の人事異動に関しては『海軍辞令公報(部外秘)』が発行されておりますので、そちらを見てはいかがでしょうか。
『海軍辞令公報(部外秘)』は、海軍公報各号の末尾に付属していることがあります。また、海軍公報では辞令広報に記載されないお仕事(「補何々」ではなく「命何々」。例えば艦の建造に関する審議委員、事故の査問委員、隊の設置に関する設置委員など)の記載があります。


アップしました2017/01/09 [22時07分45秒]
艦船事故調査様
 ようやく、御紹介戴いた記録をアップさせて戴きましたので、御報告申し上げます。
 
米丸祥一氏の名をお使いになられている方に
 意味が分かりません。ソフトバンクの携帯から書き込まれておられるようですが、何か、誤発信でもされたのでしょうか。それならそれで、削除致しますが。
 


訂正米丸祥一2017/01/09 [00時34分29秒]
米丸祥一Yonemaru Shoichi(防大26).
2000.3/15いなづま船務長3佐01.3海上幕僚監部調査課03.8はやぶさ艇長05.3舞鶴地方総監部援護業務課長07.3/26さわゆき艦長2佐08.8/1舞鶴海上訓練指導隊船務航海科長10.8/10たかなみ艦長12.3/30佐世保地方総監部監察官1佐


失礼ながら2017/01/08 [21時16分32秒]
 失礼ながら、米丸祥一氏本人ではありませんよね。でなければ、さわゆき艦長着任時に3佐だったことは御存知のはずでしょうし、他の日付も御存知だろうと思います。にもかかわらず、米丸祥一氏の名を名前欄に書き込むことは、誤解を招くように思うのですが、いかがでありましょうか。
 それはともかくとして、防大卒業時の年次を間違っていたのは、こちらのミスです。そこで他の方と表記を一致させて、その部分を削除させて戴きました。と同時に、いなづま船務長時代の階級が不明ですので、若干、表記を改めさせて戴きました。
 なお、氏名横は最終階級であって、現在のそれを書き込んでおりませんので、御了解戴ければ幸いです。
 御指摘、ありがとうございました。
 


訂正米丸祥一2017/01/08 [14時51分40秒]
米丸祥一Yonemaru Shoichi(防大).1佐。
1981防大卒
3佐 2000.3/15いなづま船務長
01.3海上幕僚監部調査課03.8はやぶさ艇長05.3舞鶴地方総監部援護業務課長2佐07.3/26さわゆき艦長08.8舞鶴海上訓練指導隊船務航海科長10.8/10たかなみ艦長12.3/30佐世保地方総監部監察官.


艦船事故調査様2017/01/06 [12時25分12秒]
 たくさんの事例を御紹介戴きありがとうございます。

 アジア歴史資料センターの検索窓に、触衝とか衝突とかを入れますと、実に多くの事故の報告が出てまいります。レーダーもなく、無線電信の設備もない船も数多く、まだ帆船も多く残っていた戦前においては、今よりも頻繁に海難事故が起きていたのだろうと思っております。そして、多少の事故は覚悟してという猛訓練が、拍車をかけたのだろうと思っております。

 深雪と伊24の事故については、いささか興味深いものがありました。それは、深雪の艦船長として記された三原貞次郎の名です。
 この人物は、海兵26期の三原中佐のことでありましょう。1935年の徴兵猶予の名簿の中に名前があり、浦賀船渠会社船渠工場長技師と役職名が書かれているからです。おそらく、深雪は海軍に引渡される前の段階であったため、艤装員長であった加藤仁太郎中佐ではなく、造船所側の人間を指揮官にあてていたのでしょう。そして、このことは、徴兵猶予名簿の中に収められた浦賀船渠の上申書の中に港内及船渠へ出入の駆逐艦巡洋艦及商船操縦担当と書かれていることからも確かめられます。
 三原中佐については、1910年に戦艦石見の航海長心得であったことは把握しております。その後、予備役に編入されてから同社に就職したということでしょうが、予備役編入後の海軍士官の生活の一端が垣間見えて興味深いものがありました。
 このあたり、海上自衛隊の士官の履歴をネット上で調べておりますと、退官後の就職予定先の資料に行き当たるのですが、保険関係等が多く、専門性をいかした再就職は難しいようです。旧日本海軍においての事情は不明ですが、三原中佐のような例はあまり多くはなかったのではないかと愚考致しております。ただ、佐官となると、戦前ではそれなりに著名人で、大佐クラスだと、県内に連隊長ぐらいしかいない状況ですが、尉官あたりではどう生活していたのかなと思います。
 というのは、中尉あたりで予備役に編入された人が、家が裕福でもなかったので、大変な苦労をして育ててくれたという、その人の子の書いたものを読んだからです。また、宇垣軍縮の時だったと思いますが、ある人が予備役になるというのを、自分は生活に困っていないから、その人と代えてほしいと言ったという人もいたそうです。

 先般、全国ニュースでも報道されましたが、75年前にダーウィン沖で沈められ、慰霊碑が建てられることになった伊124は、伊24を改名したものです。日本人が沈没現場付近に慰霊碑を建てるというのはよくあることですが、これはオーストラリア人が建立するとのことで、非常に驚くと同時に、感激いたしました。その報を聞いた直後に、御紹介を賜り、奇遇を感じました。

 御紹介戴いた以外にも多くの事故が発生していることは、先述の通りですが、そのすべてを記載していくのは、なかなか大変であります。御紹介戴いた部分も含めて、おいおいと更新していきたいと思っておりますので、温かく見て戴ければ幸甚に存じます。
 今後ともよろしくお願い申し上げます。
 
 写真は水を呑むツグミ。
 


いろいろ艦船事故調査2017/01/06 [02時35分40秒]
素早い対応ありがとうございます。
他にもこのような出来事を見つけましたがいかがでしょうか?

https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C04016970400
「伊号第24潜水艦觸衝報告」
1929年2月12日
駆逐艦「深雪」と伊号第24号潜水艦が衝突

https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C04016971400
「叢雲望月觸衝事件報告の件」
1929年7月9日
駆逐艦「望月」が駆逐艦「叢雲」の右舷に衝突
死者1名、負傷2名

https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C04016971800
「深雲損傷に関する報告写送付の件」
1929年8月2日
第十二駆逐隊夜間戦闘射撃曳的艦として行動中の
駆逐艦「深雪」後部に2発の流れ弾が直撃
「深雪」小破、負傷4名、修理費16,203円

……間違いが有ったらすみません。


艦船事故調査様2017/01/03 [17時46分52秒]
 敷波の方は合っておりますので、ケアレス・ミスかなと思っておりますが、このような部分が非常に多いので、御指摘戴いて大変ありがたく思っております。
 早速、訂正させて戴きました。
 今後とも御指摘戴ければ幸甚に存じます。
 
 写真は琵琶湖博物館のイワトコナマズ。
 


駆逐艦「狭霧」と「敷波」の接触時期艦船事故調査2017/01/02 [21時17分04秒]
http://hush.gooside.com/name/s/Sa/sagiri.html

こちらの駆逐艦狭霧の項目において、
32.2/28有明湾で姉妹艦敷波が左舷中央部に接触 とありますが、

https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C05034647100
『2水戦機密第29号 狭霧と敷波,電と疾風触衝事件報告』
こちらの資料によると35.2/28が正しい年月日のようです。


海軍航空隊スキー様2016/11/28 [22時33分28秒]
 お久しぶりです。
 また、辞令公報を何度も見聞して戴いたそうで、申し訳なく思っております。
 矢風の戦時日誌は見ていたのですが、勘違いしてあのような記載になりました。その結果、大変な労力をおかけしたことになりました。
 感謝申し上げるとともに、今後とも御指導戴ければ幸いに存じます。
 


矢風特務艦長石森大尉/少佐について海軍航空隊スキー2016/11/28 [01時40分47秒]
こんにちは。久しぶりに書き込みいたします。
矢風の特務艦長について気になる部分がありましたので書き込みます。

「45.5/1艦長石森重郎(兵66)少佐」とありますが、1945/5/1は石森大尉が少佐に進級した日付です。
石森大尉の少佐への進級辞令については昭和20年5月1日付 秘海軍辞令公報 甲 第1786号(アジ歴 C13072104600)でご確認ください。
『昭和20年6月1日付 矢風機密第36号ノ7 特務艦矢風戦時日誌(アジ歴 C08030636400)』にも「任少佐 五月一日 海軍省」とあり、「補特務艦長」あるいは「就任(または着任)」とは記載されていません。
少なくとも戦時日誌と辞令広報上での齟齬は、進級に関しては生じていないことがわかります。

では、前任特務艦長の自見少佐が1944/7/15付で隼鷹内務長として異動したのち、誰がいつから矢風の指揮を執っていたのかですが、これについては残念ながら確証を得られる情報がありません。自見少佐の退任から石森大尉が就任する前までに、特務艦長職務執行も含めて間に何人か挟んでいる可能性もあります。
私は、少なくとも石森大尉の矢風特務艦長の発令だけは見つけようと思い海軍辞令広報を何度か検分したのですが、残念ながら見つけることが出来ませんでした。

ただ、丸スペシャルの記述によれば矢風は1944年2月に内地へ到着後は日本本土で訓練に従事していたそうですので、在日本本土の航空艦隊、大湊警備府、北東方面艦隊の各戦時日誌、あるいは鎮守府辞令広報に石森大尉に関する何がしかの記述があるのかもしれませんが、それはこれから調べていこうと思っております。

ですので大濱のような特殊な事例を除けば、1944/7/15以降の何れかの日に石森大尉に対して矢風特務艦長の辞令が出され、上で記した進級辞令のとおり矢風特務艦長在任中の昭和20年5月1日に大尉から少佐へ進級し、同年6月15日に退任という流れになるのではないかと思います。

1944年以降の海軍辞令公報は書き漏らしと思われるものが日を追って増え始め、初梅やハ203のように艦長人事でさえ就任年月日や退任年月日が追跡できないものが多くあります。1944年4月10日に就任後、7ヶ月も経ってから辞令公報に記載された第101号掃海艇長の山下銀二大尉は、まだ良いほうなのかもしれません。1944年から復員庁の廃止までは、人事を調べるうえで鬼門なのかもしれません。

なお、石森少佐の後任特務艦長丹羽大尉ですが、戦後一斉進級の対象とはならずに大尉のまま1945/10/16付で海軍省出仕へ異動しております(昭和20年11月7日付 海軍辞令公報 甲 第1974号、アジ歴 C13072108100)。そのときの現職欄は空白ですので、1945/9/15の艦の除籍と同時に丹羽大尉の人事を所管する鎮守府附となったようですので申し添えます。


けーくん様2016/08/18 [12時18分18秒]
 ドラム缶、無事に受領致しました。
 また、最上川のほうを頂戴できれば幸いです。
 しかし、本当にいつもありがとうございます。

 写真は昨日の月。
 


ドラム缶投下しました!けーくん2016/08/17 [23時52分47秒]
 写真送りました。
ただし、海岸まで辿り着くかどうかは不安なので到着の際は、お知らせ願います。
「スパイ大作戦」・・実物を見ることはできなかったのですが、パロディーやオマージュで育った世代なのでニュアンスは理解できると思います。
 当日、日帰りの日程だったので自動車で出発、午前4時前に出発して、9時前に羽黒山前に到着、帰投が午後10時30分でした。
 加齢のせいもありますが、ラバウルからガ島制空のための行動の
疲労度が少しは理解できたかもしれません・・・


けーくん様2016/08/16 [22時08分40秒]
 御免なさい。
 以前使っていたアドレスが消失した際にアドレス帖をなくしてしまいましたので、そちらのアドレスが分かりません。
 そこで、下記のアドレスを臨時に作成しました。
 hushhushcruiser@excite.co.jp
 まことに恐れ入りますが、こちらに御送付戴ければ幸甚に存じます。
 なお、このメイル・アドレスは90日後に自動的に消滅します(…「スパイ大作戦」って御存知ないですよね
 


うーむ・・けーくん2016/08/16 [20時10分07秒]
 早速のご返答ありがとうございます。
当方、恥ずかしながら電子環境の隆盛についていくことが苦手であります。(以前と同じようにメールでデータを送るのが精いっぱいです。)
 家主様のご迷惑をおかけしない形で、よろしければ、私のアドレス(以前送った時と同じものを使っています)に空メールを送っていただけるとありがたいのですが・・・


けーくん様2016/08/16 [12時24分18秒]
 こちらこそ、お久しぶりです。
 覚えておられるでしょうかも何も、あれだけお世話になって忘れていたら、問題です(笑
 それはそうとして、また、御写真を提供して戴けるそうで、大変、ありがたく思っております。羽黒も最上も写真を貼ってないので、余計に嬉しいです。
 ただ、現在、メイル・アドレスがないのですが、どのように致しましょうか。もし、必要でしたら、緊急に作りますので、御連絡戴ければと思っております。
 本当にいつもありがとうございます。
 


ご無沙汰していますけーくん2016/08/16 [00時31分33秒]
ご無沙汰しています。
(覚えておられるでしょうか?)
昨日、山形県へ日帰り旅行を実施しました。
 羽黒山(?)と最上川の写真を撮影してきました。
過日のように貴HPへの提供をしたいのですがよろしいでしょうか?


お礼ご教示ください2016/08/13 [21時03分25秒]
よくわかりました。ご親切に教えていただき、ありがとうございました。


ご教示ください様(でよろしいのでしょうか?)2016/08/13 [17時35分05秒]
 「戦史叢書」にも中佐と出ておりますので、その時点では中佐でいいと思います。
 多分、お亡くなりになってから、昇進されたと思いますが、その際、同期の人々が昇進した1944年10月15日に大佐に、そして、死亡日に昇進となっていると思います。
 ただ、それが辞令公報のどこに載っているかとなると、遡って昇進となっている関係で、一つずつ見ていく必要があります。ところが、1年後、2年後に遡って昇進というケースもあるので、ちょっと勘弁してほしいなと思っております。それでも、お調べになりたいと思われるのでしたらアジア歴史資料センターが海軍辞令公報を公開しておりますので、そちらを御覧戴ければと思っております。
 なお、広島からアクセスされておられますので、長井貞三副長の御遺族の方という可能性もあろうかと思いますが、その場合は、
 http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000093051.html
を御覧戴いて、請求されるのがよいかと思います。
 
 写真は、表紙にも使用している東亜国内航空のコンヴェアCV120型旅客機。
 


永井貞三氏の階級についてご教示ください2016/08/12 [13時08分05秒]
貴サイト(naval data base)をいつも参考にさせていただいております。貴重な情報をありがとうございます。
人物辞典に収録されている永井貞三氏について、「44.10/15大佐、44.10/24摩耶沈没時に死亡、少将.」となっておりますが、防衛省防衛研究所アジア歴史資料センター「昭和19年10月24日 軍艦武蔵戦闘詳報」によりますと、摩耶沈没後に救助され武蔵に移乗、翌日武蔵の作戦室で爆弾の直撃を受け戦死、このとき中佐となっております。もちろんこの資料が階級を間違って記載している可能性もあります。つきましては、大佐になった事実と、死後少将に昇任した事実を確認できる資料名およびそのページ数を教えていただけますでしょうか?お手数おかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。


表紙の写真2016/08/02 [21時08分02秒]
 鈴鹿は海軍工廠を造るために、戦時中に強引に合併してできた市である。鈴鹿郡と河芸郡に分かれた地域なので、海軍が土地収用するのにやりづらかったからだといわれる。このため、神戸(かんべ)、白子(しろこ)、若松と中心部が散在しており、戦後、海軍工廠の跡地にホンダをはじめとする工場が進出してきたため、これらとはまた別の中心地ができている。また、国道1号と23号という主要国道が市内を走りながら、両者を市街地を貫通しながら結ぶ道がほとんどなく(1本だけあるのは鈴鹿航空隊の滑走路を転用したものである)、非常に分かりづらい街の構成になっている。
 現在、市の商業施設の大半は、中央道路と呼ばれる、海軍工廠と駅との間を結ぶ目的で建設された道路の両脇に並んでいる。そして、工員さんが多いせいか若い人が多く、活気はあるが、少し外れると田んぼが広がっている。つまり、田園が広がる中、所々に街や工場が落ちており、それらを結ぶ道が繋がっているだけなので、基本は田舎である。だから、その中央通りを車で走っている分には、地方都市にしては立派なものだと思うのだが、少し外れて見ると、田んぼの中を店の裏側が並んでいる風景になって、妙に書割ぽくなってしまう。
 そのような環境のせいか、鈴鹿は鳥が多い。そして、トビはあまり見ないが、タカが結構飛んでいる。写真の鳥も、タカである。ただ、止まっているのが建物の壁面にある時計であり、その薄い機械の上に止まれることからも分かるように、とても小さい。つまり、オオタカだとか、クマタカだというような立派なタカではなく、ツミと呼ばれるハイタカの一種であろう。
 ツミは、英語でJapanese sparrowhawk、漢字表記で雀鷹となるように、スズメを意味する言葉が入っている。さすがにスズメよりは大きいが、カラスよりは小さい。ヒヨドリかハトぐらいだろう。実際、ハトが飛んでいると思って見ていると、たまにタカだったりする。
 慣れてくると、尾翼の長さや、翼の形で、一瞬で見分けがつくようになる。もっとも、鳥を観る人はあまりいないし、観ても、ハトだと思うだろう。だから、近くに知人がいると、タカがいますねと言ってみる。多分、これが、ゴイサギのような鳥だったりすると、あまり関心はもたれないと思うが、大抵、ほぅ、あれがというような感じになる。
 しかし、私にとって、夜間に行動するゴイサギのほうが珍しいのであって、タカは、存外によく見る。また、このような田舎だけでなく、東京や大阪のような大都市でもタカはいるそうだ。ツミが多いようだが、ハヤブサなどもいるようだ。もし、鳥が飛んでいたら、たまに目をやると面白いかもしれない。もしかしたら、あなたの前の前をタカが横切るかもしれない。
 


エリック・キィ様2016/07/28 [22時38分32秒]
 御指摘多謝。
 https://en.wikipedia.org/wiki/Accra#History
 上記の英語版のWikipediaでもそのように記されていますので、どこかで主語を間違って記載したものと思われます。
 また、この記述の出典は、文中にございます「地名の世界地図」ではないかと思われますが、どこかに置いたようで見出せませんでした。ただ、辻原康夫著「世界の地名ハンドブック」(三省堂1995年)には「蟻の集団」とありますが、種類については記載がありません。したがいまして、黒蟻とした典拠を思い出せずにおりますが、fire antの胴体は黒色であるものの、頭部は赤いので、これも誤認かもしれません。
 
 写真は滋賀県長浜市長浜別院山門にて。
 


Accraについてエリック・キィ2016/07/28 [18時42分54秒]
 突然失礼致します。たまたま貴サイトに辿り着いた者でございますが、http://hush.gooside.com/Text/0A/01A/A08kAkura_.htmlのアクラ(Accra)の項の記述内容について気になった点がございます。
 現在は「アカン族をガー族が」となっていますが、21世紀研究会 編『地名の世界地図』(文春新書、2001年。ISBN 4-16-660147-4)279頁では両者の関係性は逆となっています。またアカン語の一種であるチュイ語辞書でもnkranを指してfire antsとしているものがございます(https://books.google.co.jp/books?id=aXBHwi4YDbwC&pg=PA101&dq=nkran+Kotey&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjt9OPj6pXOAhWEJ5QKHb_eDL0Q6AEIHDAA#v=onepage&q=nkran%20Kotey&f=false をご参照下さい)。一方ガ語の辞書の方はまだ未確認でございますが、仮にnkranが(黒)蟻の意味であると掲載されていたとしても、ガー族がアカン族をそう呼んだ可能性は低いと思われます。と言いますのも、http://www.akuapem.com/gpage4.html(英語)においてはアカン族と比較的近い系統の言語を話すラルテー族がガー族をNkranと呼んだ、という旨の説明が為されている為です。この様に呼んだ主体については資料によってばらつきがございますが、対象となった民族についてはガー族であったという内容で共通しています。
 以上の点を踏まえますと、より適切な記述は「アカン族がガー族を」となると存じます。取り急ぎご報告に参りました。


表紙の写真2016/06/22 [12時48分12秒]
 先日の解体業者の所を1号線に戻らずにそのまま行ってみた。
 すると、伊勢国国府跡の案内標識があった。
 実は、伊勢国の国府が現在の鈴鹿市にあったことは知っていた。
 ただ、鈴鹿市に国府町というのがあって、「こくふ」ではなく、「こう」と読むのだが、名前からして、そこにあったのだとばかり思っていた。
 鈴鹿サーキットの西側にある、割合に広い地域である。
 ところが、本を読んでいて、そこから数q北側、鈴鹿川を渡った向こうの広瀬町という所に遺跡があるのを知って、行ってみたいと思っていた。
 それで、喜び勇んで行ってみたのだが、もちろん、そこには何もない。
 写真のように、1mほど高くなった台地上の土地に気が生い茂っているばかりで、あとは解説板が置いてあるばかりである。
 そして、その解説板によると、この高まりが建物の基壇であるようである。
 あとで、この稿をまとめるにあたって、少し検索をかけてみると、別の解説板が出ていた。
 驚いて、調べてみると、そこから150mほど南に行った所にも遺跡があったようである。
 まさしく、「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」である。
 


表紙の写真2016/06/20 [22時52分49秒]
 飛行機がいると言われて驚いた。
 聞き直すと、道の脇に飛行機が置いてあるというのだ。
 車のバックミラーで確認すると、確かにある。
 国道1号を、三重県亀山市から四日市市に向かう途中、鈴鹿市に入ってすぐの所である。
 それから、通るたびに気にかけていたが、旧日本軍機のようにカラーリングがほどこされているものの、明らかにそうではない。
 おそらくは民間機であったものを、軍用機のように塗装しなおしたものであろう。
 もちろん、機種まで分かるはずがない。

 過日、午前中、休日出勤した帰りにそこを通りかかった。
 1号線からそれて、脇道に入っていくと、そこは横山商店という解体業者の作業場であった。
 スクラップとして購入したものを、ディスプレーとして飾ってあるということなのだろう。
 そして、あのように塗装したのは、社長の趣味なのだろうと思うが、もちろん、委細は分からない。
 
 撮影した写真を見ているうちに、これは何という機体なのだろうと思った。
 もちろん、Warbirdsに問い合わせたら、即答して戴けるだろう。
 しかし、そのように簡単なものをと思われる危険性がある。
 第一、質問の前に検索するのはネット社会の常識ですと書かれてあるではないか。

 で、単発、低翼、引っ込み脚というふうに特徴を挙げてみたが、なかなか、ヒットしない。
 諦めかけたが、これだけ目立つものを誰かがブログか何かに載せていないわけがない。
 そう思って、横山商店、飛行機と打ったら、一発で出た。
 アメリカのライアン社のナヴィオンという機体だった。
 1機だけ1953年にB型の1機を輸入され、毎日新聞社がビーナスという機名で使用していたそうだ。
 それが、三重県菰野町の喫茶店の店先に飾られていたのが不要になったということであろう。
 http://dansa.minim.ne.jp/a5306RayanNvion.htm
 1948年製造だから、70年近く前の機体である。

 これからどうなるのか知らないが、旅客機の機体もあるそうだから、今度、見に行ってこようと思う。
 


出沼様2016/03/17 [23時00分20秒]
 ありがとうございます。
 そうしますと、 http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?federalRegisterTypeList=0%7C1%7C2%7C3%7C4%7C5&viewRestrictedList=0&detailSearchTypeNo=T5&reshowFlg=1&rows=20&keyword=%E5%AE%98%E5%A0%B1 で公開されています、官報の情報を拾っていくというのは意義があることなのですね。
 出沼様の御蔭で、やる気が出てまいりました。ありがとうございます。

 写真は、桜の蕾と月(なお、前回のはカカオの花)。
 


最近は恵比寿に行ってない出沼ひさし2016/03/17 [21時32分26秒]
のでうろ覚えですが、大正年間がないな〜と思ったことはあります。

なので味礫で公表されている以外の辞令は冒険にもないと思われます。



出沼様2016/03/13 [17時26分44秒]
 なるほど、それぐらいしないと正確なことは分からないということなのですね。
 ところで、一つお聞きしたいのですが、アジア歴史資料センターで公開されている辞令公報は、防衛研究所が所蔵しているもののすべてなのでしょうか。公開されている辞令公報は1915年の次が37年となっており、辞令のほうは1894年から1903年の分で、明治末期から昭和初期にかけてが1915年以外が抜けているからです。
 御教示戴ければ幸甚に存じます。
 


私の調べ方 その2出沼ひさし2016/03/12 [20時53分40秒]
私は駆逐艦長と駆逐隊司令で辞令公報を2周しました。

あの時はまだ鯵礫に辞令公報が載ってなかったので恵比寿で手書きでした。

いや、便利な世の中になったものです。


出沼様2016/03/12 [19時11分42秒]
 お久しぶりです。
 やはり、それが確かなのでしょうが、私の場合、絶対、駆逐隊司令だけでなく、他の情報も全部抜き出したくなるのです。そして、書き出すより、自分のページに打ち込みたくなるのです。その結果、辞令公報一日分で、気息奄々となるわけで、はい。
 ただ、最終的にその方向にいくとは思っています。

 御教示、ありがとうございます。
 


私の調べ方出沼ひさし2016/03/12 [08時43分35秒]
辞令公報を最初から最後まで読み、駆逐隊司令の発令があったらとりあえず書き出す。
全部書き出し終わったら駆逐隊番号順に並べ替える。
駆逐隊の歴代司令をchkして、抜けがあったら再度辞令公報を見る。

手間はかかりますが一網打尽です。


第1駆逐隊2016/03/09 [21時21分00秒]
 第1駆逐隊の更新を行っていますが、思ったとおり、停滞しております。というのは、間が開いている駆逐隊の司令の名をできうる限り埋めたいと思っているからです。そのため、アジア歴史資料センターの検索で駆逐隊司令の名を調べ、その人物の発令日を官報、辞令公報で調べるということをやっております。しかし、闇雲に膨大な量の書類を調べても仕方がありませんので、その人の経歴を調べて、発令日の当たりをつけて調べるということをやっております。ただ、官報というのは実に魅力的な資料でありまして、郵便局の新しい消印のデザインはこうですよとか、他のところに目がいったり、あ、この人はこの艦の艦長だったのかという「発見」があったりして、つい、見入ってしまうのですね。
 というわけで、全然、更新されていないように思いますが、この司令の名を書き入れるには、見入っている時間も含めて、大変な時間がかかっているというわけです。
 以上、言い訳なのですが、そろそろ飽きてきたので、別のところの更新にかかるかもしれません。
 


無題2016/03/05 [15時08分02秒]
突然の質問にこんなにも早く答えてくださり、ありがとうございます。


叶様2016/03/04 [23時14分04秒]
叶様
 はじめまして、ようこそです。
 御指摘の件ですが、かなり雑な書き方をしているようで申し訳なく思っております。
 1905年12月12日に大湊要港部隷下に第3駆逐隊を新編したのは春雨、山彦、皐月で、竹敷要港部隷下に第11駆逐隊を新編したのは叢雲、夕霧、不知火、陽炎です。その後、1912年2月1日に第11駆逐隊が解隊されたことにより、叢雲、夕霧が第3駆逐隊に編入されています。
 そのあたり、一度、きちんと記述しなおさないといけないのですが、作業量が大きいので、取り掛かっていないのが現状です。
 なお、正確なところは、
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886711
 のコマ番号52以降を御覧戴ければと思っております。
 今後ともよしなに。
 


第3駆逐隊、第11駆逐隊について2016/03/04 [16時13分52秒]
初めまして。突然で申し訳ないのですが、

第3駆逐隊には1905.12/12横須賀鎮守府所属の駆逐艦春雨、山彦、皐月、文月、叢雲、陽炎、不知火で横須賀水雷団隷下に新編。
第11駆逐隊には1905.12/12駆逐艦叢雲、夕霧、不知火、陽炎で竹敷要港部隷下に新編

と、書かれていました。
ですが、叢雲、陽炎、不知火の三隻がかぶっていて、この三隻はどちらに新編されたのでしょうか?


ショフト様2016/01/19 [12時38分49秒]
 お久しぶりです。
 確かに「第4水雷戦隊戦時日誌」にそのような記述はありませんね。また、7月分の「第4水雷戦隊戦時日誌」が公開されていないのか、現存しないのか存じませんが、見られませんし、第8駆逐隊、朝潮、荒潮の日誌も同様ですので、確認のしようもありませんが、御指摘の通りかと思われます。
 ただ、6月29日に朝潮が単独でトラックを出港し内地に帰投しておりますので、戦地に残った荒潮に司令が移乗した可能性はあるかなとは思っておりますが、小川司令は同海戦で負傷しており、実際のところはどうであったかは分かりません。
 いつも、御指摘を賜りありがたく存じます。また、この掲示板の確認をきちんとしておりませんでしたので、気づくのが遅れ、御返礼申し上げるのが遅くなりましたことをお詫び申し上げます。
 今後ともよろしく御願い申し上げます。
 


第8駆逐隊の司令駆逐艦についてショフト2016/01/17 [14時36分42秒]
ご無沙汰しております。駆逐艦「荒潮」のページで気になることがありました。

1942年6月19日に「第8駆逐隊司令駆逐艦を朝潮から継承」とお書きになっていますが、私が調べてみたところ、詳しい日付までは分かりませんでしたが、1942年7月の可能性が高いと思われます。

昭和17年6月の第4水雷戦隊戦時日誌には、第8駆逐隊の司令駆逐艦の変更について書かれていませんでした。(前月の5月の日誌には、第9駆逐隊の司令駆逐艦の変更について書いてありました。恐らく、6月中に司令駆逐艦の変更は無かったと思われます。ちなみに6月中の第8駆逐隊の司令駆逐艦は「朝潮」でした。)

〜1942年頃の第8駆逐隊の司令駆逐艦〜
1942年4月23日:司令駆逐艦を「大潮」から「朝潮」に変更
1942年7月??日:司令駆逐艦を「朝潮」から「荒潮」に変更
1942年8月1日:司令駆逐艦を「荒潮」から「朝潮」に変更


矢田寺にて2016/01/14 [23時53分54秒]
 矢田寺の百段ほどの石段を登っていくと、一番上に猫がいた。精悍な顔つきの猫である。ノルウェージャン・フォレスト・キャットかメイン・クーンだと思うが、だとすればまだ成猫になっていない。この両種は、体長が1m以上になることもあるという世界最大級の猫だが、これは普通の猫のサイズである。
 あじさい寺として有名な矢田寺であるが、冬枯れのこの季節、足を向ける酔狂な者はそうはいない。そういう中で、猫は何しに来たと言わんばかりの目つきで睨んでくる。そのまま見ていると、やがて、向こうのほうが目を逸らした。どうやら通ってもよいらしい。
 お参りをすまして戻ってくると、猫は相方とじゃれあっている。見かけと違ってフレンドリーな猫らしい。首輪はしていないが、お腹が膨れていたから、お寺で飼われているのだろうという。
 石段を降りていくと、トラツグミがいた。鵺の鳴く声というのは、この鳥のなく声だといわれるあの鳥である。もっとも、ツグミの仲間だけあって、それほど大きくはない。スズメよりは大きいが、ハトほどもない。つまり、ツグミである。ただ、茶色と灰色のだんだらに染め分かれた体色は、感じはよいが、地味である。
 いつの日か、またこの寺に来ようと思う。その時、この猫がどれほど巨大化しているかが楽しみだからである。そして、もう一度、トラツグミに出会えたらいいなと思う。
 


初詣2016/01/06 [21時43分30秒]
 結婚してすぐぐらいは、面白がって、近所の神社に年越し参りに行ったものだが、最近は全然行かない。
 山深い田舎の出なので、行事だとか、しきたりだとかにうるさいのでは思われがちである。しかし、小さい頃に初詣などに行ったことはない。ただ、春と秋の祭礼の時には、「御供(ごく)さん」と呼ばれる小さな餅を撒くので、それは拾いに行った。
 他の家がどうであったか知らないが、初詣の話題が子供たちの間で出ることはなかったように思う。また、祭礼の時には村中の人が出ていたし、昔の写真を見ると稚児行列などもやっていたようである。
 したがって、神道や神社を否定していたわけではない。ただ、初詣という習慣がなかったのである。
 調べてみると、初詣という季語が歳時記に登録されたのは明治末期だそうで、実際の作例は大正時代になるそうだ。これは、鉄道の発展により、集客のために始めたのが最初だったからだそうだ。
 家に、電話機であるとか、カラーTVであるとかが入ったのが高校生の時、町中に出てきてからだから、文明の面からいうと、他より十年以上は遅れていたと思う。
 もっとも、歌手の石川さゆりは1つ上らしいが、家に電気が来ておらず、ランプで生活していたと言っていた記憶がある。当時は、田舎と都市部の距離が遠かったので、そういうことがあっても不思議ではない。
 したがって、大正期にようやく一般のものになった初詣などという風習が、地方に普及するのには随分とかかったと思う。しかも、これは関東で始まったものだから、関西に拡がるのはもっと後である。その中でも地方の果てに位置する我が家に伝わらなかったのは、当たり前のことなのであろう。
 年賀状も、よしてしまって随分となる。それでも送って下さる方がおられるので、最近は、返礼だけは出しているが、全部で十枚程度である。そして、これも近代郵便制度が始まってからのことであるので、明治以降の話であり、昔は郵便よりも年始廻りのほうが普通だったから、戦後、随分経ってから隆盛になったものなのだろう。
 初日の出を拝むなどというのも、皇室の元旦の行事にはあったようだが、庶民がするようになったのは明治以降の話である。
 昔からの習慣と思っているものでも、存外に根が浅いものが多いのである。
 
 写真は1月2日の日の出。
 


山本様2015/11/23 [09時03分33秒]
 御提供戴きました写真4葉をようやくアップさせて戴きました。
 いつもすばらしい写真をありがとうございます。
 お返しに何かと思ったのですが、何もなくて、感謝の言葉だけで申し訳なく思っております。

 写真はバナナの花。
 


山本様2015/11/14 [13時42分44秒]
 御教示多謝。
 10月の観艦式に行かれたのですね。大変な数の応募者だったそうですが、よく手に入りましたね。それはともかくとして、見事ないずもの写真をありがとうございます。
 


早蕨の写真山本留吉2015/11/13 [23時10分22秒]
写真の人物は門田少佐です。
キャプションに拠れば、十二月五日午前二時過台湾海峡に於て暴風雨の為め沈没百余名の犠牲者を出したる駆逐艦『早蕨』と艦長門田少佐。
なお、巻末の世界日誌によれば日没までに16名が僚艦に収容されたとのこと。

掲載誌名に誤記がありました。
正しくは「歴史写真」で、大正2年創刊の月刊誌です。
伊太利の潜水艦やら米艦の進水式等他にも色々な写真が載っているので、追々取り込み作業を行います。気長にお待ちください。

ついでといっては何ですが、観艦式の初日航海に行くことができたので、2枚ほど貼っておきます。
個人的には印度艦と豪州艦が気になったのですが、残念ながらこの日は参加なし。
代わりにブルーインパルスと護衛艦隊は初公開でお目にかかることが出来ました。
http://kahuetaisyourouman.web.fc2.com/kankansiki.jpg
http://kahuetaisyourouman.web.fc2.com/kankansiki2.jpg


山本様2015/11/13 [21時42分18秒]
 いつも貴重な写真を御提供戴き感謝申し上げます。
 出張等があって、ページの更新もままならない状態で、こちらの返信も遅くなって申し訳ありませんでした。
 ところで、「歴史写真帳」というのは雑誌の名前でしょうか。
 また、早蕨の写真に載っております人物は、その前年12月、早蕨の沈没とともに殉職された門田艦長のものでありましょうか。
 また、ついでの折にでもお聞かせ戴ければ幸甚に存じます。
 本当にいつも戴いてばかりで申し訳なく思っております。
 


駆逐艦早蕨と伊貨客船レックスの写真2015/11/12 [20時56分29秒]
ご無沙汰しております。
カフエー大正浪漫の山本です。
蔵書を整理していた折、昭和8年の歴史写真帳に表題の写真が掲載されていたので以下にアップしておきました。
よろしければご使用ください。
http//kahuetaisyourouman.web.fc2.com/rex2.jpg
http//kahuetaisyourouman.web.fc2.com/sawarabi.jpg


無名氏様2015/05/23 [08時02分48秒]
 亀卦川には、きけがわ以外にも、かめかけがわ、かけがわ、かめかがわ、かめとがわ、きけかわ、きくがわという読み方はあるようですが、そのどれかではないかという意味でありましょうか。
 


駆逐艦沼風の所2015/05/22 [21時59分05秒]
「水雷長亀卦川Kikegawa運七」と表記されちゃってます


海軍航空隊スキー様2015/05/22 [12時45分59秒]
 毎度、御教示ありがとうございます。
 Wikipediaの駒橋の項でも同様のことが書かれておりますが(もしかすると、そちら様の書込みでしょうか)、この点について、確認を怠っておりました。
 また、水谷少佐についても詳細な軍歴を御教示戴き感謝致しております。
 篤く御礼申し上げますとともに、今後とも、よろしく御指導、御鞭撻を賜りますよう、お願い申し上げます。
 
 写真は琵琶湖博物館で撮影した浮上するカイツブリ。
 


駒橋と大野大佐と水谷大尉(少佐)海軍航空隊スキー2015/05/22 [01時34分28秒]
こんばんは。懲りずに書き込みします。

標記について、丸スペシャルなど潮書房光人社で刊行している書物では
水谷勝二(予備)大尉が1945/4/2に駒橋艦長となったことが記載されており、こちらでもそのように記述しているところですが、
駒橋艦長大野周大佐と水谷大尉(少佐)の発令は海軍辞令公報によれば以下のようになります。

大野周大佐の発令日
・駒橋艦長:1942年2月1日〜1945年8月1日(1945/8/15付 秘海軍辞令公報 甲 第1886号、以下単に「辞令公報第何号」とします)
 後職は伊勢防備隊附。

水谷勝二予備大尉/少佐の発令日。ついでに戦前のものもわかる範囲で付記。
・陸前丸掃海艇長:1940/12/16(1940/12/19付 辞令公報第571号)〜1941/5/5(1941/5/5付 辞令公報第633号)
・第3号駆潜艇長:1941/5/5(1941/5/5付 辞令公報第633号)〜1943/10/15(1943/10/15付 辞令公報第1240号)
 後職は横須賀鎮守府附。
・第4号海防艦艤装員長:1944/1/30(1944/1/31付 辞令公報第1309号)、原利久大尉(本務・第2号海防艦艤装員長)の後任。
・第4号海防艦長:1944/3/7(1944/3/8付 辞令公報第1362号)〜1945/3/25(1945/4/2付 辞令公報第1762号)
 第4号海防艦長在任中に少佐へ昇進したことが退任時の発令でわかります。後職は横須賀鎮守府附。
・第112駆潜隊司令:1945/5/5(1945/5/19付 辞令公報第1804号)〜1945/7/5(1945/7/13付 辞令公報第1855号)
・第26掃海隊司令:1945/7/5(1945/7/13付 辞令公報第1855号)

以上の通り、1942/2/1以降の駒橋艦長は大野大佐で固定されており、水谷大尉(少佐)は第4号海防艦艤装員長に就任後も
転勤を繰り返しているため、水谷大尉(少佐)が駒橋艦長に就任する隙間は無いように思われます。
辞令公報上でも大野大佐の在任中、誰かに臨時や兼補の駒橋艦長が発令されたことはありません。

潮書房でなにがどう作用して水谷大尉(少佐)が駒橋艦長に着任したと書いているのかは定かではありませんが、
大野大佐は水谷少佐が着任するまで司令欠員の第26掃海隊(伊勢防備隊熊野灘部隊)の代理指揮をかなりの長期間執っていたため、
それが「大野大佐退任→水谷大尉就任」と勘違いされたのかもしれません。

また駒橋についてですが、こちらでは1942/7/20に特務艦(測量艦)になったとありますが、
1.1942/7/20付 内令第1317号で特務艦となったのは勝力と矢風の2艦だけで、駒橋については記述が無いこと。
2.1942/7/20付 内令第1316号で勝力は帝国軍艦籍から除かれましたが、これにも駒橋の記述が無いこと。
3.1942/7/20付 内令第1320号による海軍定員令の改正で勝力と矢風が改正された一方で、駒橋に関する改正は存在しないこと。
4.艦艇類別等級別表の潜水母艦欄から駒橋が一度も削除されていないこと。
5.1945/8/1付 内令第697号で駒橋は横須賀鎮守府測量兼警備艦の役務を解かれるとともに第四予備特務艦ではなく、
  第四予備艦に定められていること。
6.1945/8/1付発令の大野大佐の退任時の肩書きが「駒橋特務艦長海軍大佐」ではなく、「駒橋艦長海軍大佐」であること。
から、駒橋は帝国軍艦籍のままです。

特務艦に編入後にセレター港で撮影された勝力には菊花紋章がありませんが、駒橋は着底後に菊花紋章が取り外され
尾鷲市内の寺社に持ち込まれましたので、これも駒橋が特務艦籍に異動していない証左と言えます。


海軍航空隊スキー様2015/05/18 [22時15分19秒]
 御教示ありがとうございます。海軍航空隊については、必要性はあろうかと思いながらも、飛行機には各機に名前がついているわけではないので、どうにも興味がわかなくて、放置してあります。
 ただ、Wikipediaによると1944年2月1日、出水飛行場に設置された人吉海軍航空隊出水分遣隊は同年8月15日に第2出水海軍航空隊として開隊していることになっています。だとすれば、第1出水航空隊への改称も第2出水海軍航空隊として開隊した44年8月15日に改称されたとなるはずですが、御教示戴いたように、内令等に記された日付が正しいと思っています。
 今後ともよろしくお願い申し上げます。
 


海鷹艦長の高尾儀六大佐の経歴海軍航空隊スキー2015/05/17 [22時50分46秒]
お久しぶりです。
海鷹の高尾儀六艦長の経歴ですが、1944/9/19の出水海軍航空隊司令〜1945/6/1博多海軍航空隊司令の間の経歴について、

1945/2/11 出水空は第一出水海軍航空隊に改称し、高尾司令はそのまま勤務
(根拠・1945/2/11付 内令第129号、および同日付 海軍大臣官房 官房人機密第124号)
1945/3/1 第一出水空は光州海軍航空隊に改編し、高尾司令はそのまま勤務
(根拠・1945/3/1付 内令第186号、および同日付 海軍大臣官房 官房人機密第125号)
です。

1945/6/1〜1945/11/1は記事の内容で変わりありませんが、光州海軍航空隊の上級部隊の第12航空戦隊の解隊が1945/9/30、
第12航空戦隊の上級部隊である第5航空艦隊の廃止は同年10月10日なので、遅くとも10月10日までには高尾大佐は鎮守府附、
あるいは航空艦隊司令部附になっていたものと思料されます。
敗戦後の隊の解隊や廃止に伴う辞令は発令されていないことのほうが多く、調べるのは難儀です。

なお、上の官房人機密各号は「上覧各隊の職員は・・・辞令を用いずして各下欄各隊の相当職員に補命せられたる義と心得べし」
なので、当日発令の辞令は一部職員を除いてありません。

Wikipediaだと2/11付で第一出水空は光州空になったとありますが、以上の通りそれは誤りでございます。
艦とは関係のない話ですが、経歴を把握するのは大事だと思った次第です。


無名氏様2015/05/13 [12時37分44秒]
 御指摘多謝。
 アメリカ側の記録ではThe position is Hiji harbor, Beppu Bay KAIYO at 33-20N, 131-32Eとなっており、日出城の緯度経度とほぼ一致しており、慰霊碑もこの城へ登る途中に設けられていますので間違いないものと思われます。
 今後ともよろしく御願い申し上げます。

 写真は伊勢市猿田彦神社で撮影したイソヒヨドリのオス。
 


空母海鷹について2015/05/12 [23時26分10秒]
夕風に曳航されて別府日出Hidzi海岸に擱座になってますけど日出町城下海岸では


無名氏様2015/03/22 [20時34分35秒]
 御指摘多謝。
 早速、訂正させて戴きました。
 他にもいろいろとあると思いますが、また、御指摘戴ければ幸甚に存じます。
 


誤字2015/03/22 [12時18分54秒]
水上機母艦瑞穂の記事で
42.1/9メナド攻略作戦を支瑞穂とともに援/となんかずれているのと誤記があるかと


13年目の御挨拶2015/03/13 [22時27分57秒]

 3月14日、拙サイトは13年目を迎えます。
 だからといって、何か目新しいことをしようとか、特集を組もうとかは思っておりませんが、地道にやっていこうと思っております。
 今後ともよろしく御願い申し上げます。


草木もなびく2015/02/03 [12時52分43秒]
 佐渡の更新をしながら、山下汽船が運航していたサド号というのは、本当に佐渡が語源なのだろうかと思った。ただ、もとがオランダ船という情報に振り回されていたのだが、どうもポルトガル船だということになって、調べたらあった。
 だとすれば、サド川というのがポルトガルにあるので、こちらが命名の由来であろう。というのは、ポルトガルの艦名には、日本と同じく川の名を使用しており、河川に関心が深いと思うからである。実際、ポルトガルの水雷艇にはサド川の名を採ったのがあった。そして、ポルトガル語版のWikipediaでSadoを調べると、佐渡と並んでサド川とそれに関連するものしか出てこなかったから、多分、これということになったのである。
 


アクセスが認められかな?2014/12/27 [20時04分01秒]
>音声が読み上げられる
 そんな機能があったのですか。
>航空戦隊にリンク
 ありがとうございます。更新し忘れていたようです。
 
 写真は広瀬大社の大砲と砲弾。日露戦争の戦勝記念として陸軍から同社に奉納されたもので、大砲は6インチ、砲弾は12インチのものである。大砲はワルシャワ株式会社で製造されたと銘板にロシア語で記されているそうだが、砲身は根元から寸断されている。砲身内で爆発事故を起こしたのか、破壊されたのかは分からないが、笛吹神社の名で知られる葛木坐火雷(かつらきいますほのいかづち)神社に現存する大砲とよく似ている。
 


リンクについてショフト2014/12/27 [19時12分15秒]
戦隊のリンクをクリックすると航空戦隊のページに飛んでしまいます。


翻訳のこと海軍航空隊スキー2014/12/27 [18時29分08秒]
既にお試しになられたかもしれませんが、Google翻訳でタイ文字の本文をコピー・ペーストで
翻訳ページの左側ボックス貼り付けると、ボックス下部にスピーカーのアイコンが追加されます。
それをクリックすると音声で読み上げてくれますよ。

「ゆみはりまる」の部分が、翻訳だと「真由美 播磨 ルーム」となったのには苦笑しました。
本船が三菱の神戸で建造されたといった誤認もありますが、船名は「Rāng kewīyn」(英語WikipediaではRangkwien)で合っていそうです。


海軍航空隊スキー様2014/12/26 [12時17分57秒]
 たくさんの情報を賜り、ありがたく思っております、差し出がましいだなんてとんでもないことです。
 ただ、なかなか時間が取れないので、教えて戴いても、反映できないのが辛いところであります。
 したがいまして、瑞鳳と祥鳳のほうは、後日、拝見させて戴こうと思っております。
 なお、拙ページの弓張のところに記してありますランクウェインの名は、「日本海軍全艦艇史」ではなく、木俣滋郎著「残存・帝国艦艇」(1972年図書出版社刊)によるものです。「日本海軍全艦艇史」は持っておりますが、本編は手の届かぬところにあり、資料篇だけを手近においてある関係で、使っておりません。なお、Rangkwienの名のあるWikipediaにリンクしているタイ語のページを見てみましたが、翻訳サイトを使ったので、艦名の読み方までは分かりませんでした。数年前まで、身近にタイ人がいたのですが、今、いませんし、タイ語の辞書を見てもよく分かりませんでしたので、この件につきましては保留させて下さい。
 しかし、2522年とあるので、何事かと思ったのですが、タイの暦では、これが西暦1979年に当たるのですね。
 
 投稿しようとすると、「荒らし対策エラー、アクセスが認められていません」と出てしまうので、返事が遅れましたことをお詫び申し上げます。このメッセージは自宅から送ろうとするとよく出ますので、もしかすると1週間ぐらい、こちらへの書き込みができなくなるかもしれませんが、お許しください。
 


お返事ありがとうございます海軍航空隊スキー2014/12/25 [01時23分11秒]
おお、これは紛れも無く「べるふあすと」ですね。貴重なお写真ありがとうございます。
また、差し出がましいことを書いてしまい申し訳ありません。

さきほど、wikipediaの瑞鳳と祥鳳の艤装員長と艦長を編集しました。
お時間がありましたらご覧いただければと思います。

お礼になるかどうか判りませんが、「弓張」の情報を。
英語wikiに立神型救難船兼曳船の記事があります。
このうちの1隻・弓張は、故福井静夫氏の「写真 日本海軍全艦艇史」内の記述では
タイの「ランクウェイン」となったことが書かれています。
そしてwikipediaの当該記事の弓張のところにあるリンク、これはタイ海軍のサイトらしいのですが、
それを読むと「ランクゥィエン」のようです。記事内の綴りは Rangkwien となっております。
お役に立てば幸いです。

それでは失礼いたします。


海軍航空隊スキー様2014/12/24 [20時54分02秒]
 いろいろと御教示を賜りありがとうございます。
 Wikipediaのほうは、おいおい、利用させて戴きます。
 1と2については存じておりますが、変更された正確な時期は存じておりませんでした。また、拙ページの製作当初は気づいておりませんでしたのと、あまり、その辺りのこだわりがありませんので、混在しております。近年は、できる限り正確にしようとは思っておりますが、となると、艦長も駆逐艦長、潜水艦長等も表記する必要があり、どうしようかなと思っております。
 3につきましては、本船の写真 http://searcharchives.vancouver.ca/uploads/r/null/9/3/933161/98ef544f-fbf5-4a06-95e3-75b87e3d7631-A29108.jpg を見ておりますと、べるふあすと丸と記載されているように思えます。どこかで表記を変更したのかもしれませんが、辞令公報のほうが間違っている可能性もあろうかと思っております。
 4につきましては、他に駆逐艦桂、第58号、第62号、第78号、第83号、第89号、第97号、第116号、第142号、第223号海防艦については艤装員長が発令されており、これ以外にも艤装員が発令されたものもあることは存じております。ただ、他の艦種の未成艦については調べができておりませんので、順次、やっていきたいとは思っておりますが、なかなか遠い道のりです。
 今後ともよろしく御願い申し上げます。
 
 写真は、東大寺大仏殿越しに見た生駒山。
 


少し雑な話海軍航空隊スキー2014/12/23 [16時54分41秒]
では、私が編集したもので覚えている艦名人名をいくつか記します。艦艇長人事だけでなく要目や艦歴の一部を内令、達号、
その他戦後に刊行された本に従い弄っているものがあります。
IP利用者ですが、色々と面倒ごとが多そうなのでアカウントを取るつもりはありません。

葛城(空母)、北上、八十島、五百島、須磨(砲艦)、舞子、雪風(陽炎型)、天津風(陽炎型)、桑、冬月、宵月、夏月、
大浜、大指(大浜内に記述)、波勝、宗谷、明石(工作艦)、樫野、神島、粟島
日露戦争で得た旧ロシア戦艦4隻、巡洋艦3隻、アムール級敷設艦については候補艦名を収録。
橋本以行、入佐俊家
その他については投稿履歴のIPから辿っていただければと思います。

海軍/第二復員省/復員庁第二復員局の辞令公報は昨年夏に公開されたばかりの「新鮮な史料」ですので、
ご存じなかったのも無理はないと思います。
ただ、復員庁第二復員局に改組される直前あたりからは散逸欠損が著しく、加えて復員庁が廃止されてからの
人事の発令状況は現在厚生労働省が保持していますが、非公開の状態が続いています。惜しいですね。

ここで、知っていると幸せになれるかもしれない小ネタをいくつか。
ご存知でしたらごめんなさい。

1.昭和17年7月14日付 勅令第610号。海軍武官階の改正。
 施行日の昭和17年11月1日を以って機関士官、機関将校、特務士官は呼称が変更になり、
 単に「海軍大/中/少尉」「海軍大/中/少佐」「海軍中/少将」と表記されるようになりました。
 昭和17年11月1日以降の人事情報を記す際はご注意ください。

 本勅令の全文は国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)「官報. 1942年07月15日」で閲覧できます。
 呼称変更は機関将士と特務士官だけではありませんので、一度目を通しておくとよろしいかと思います。

2.昭和18年6月30日付 勅令第560号。海軍予備員令の改正。
 この日を以って表向きは「海軍予備大/中/少尉」や「海軍予備大/中/少佐」といった呼称が消滅しました。
 表向きは「予備」の文字が消え、「海軍大/中/少尉」「海軍大/中/少佐」となります。
 こちらのサイトでも「八十島」などで散見されますが、昭和18年6月30日以降の艦艇長人事を記す際にご注意ください。

 本勅令の全文は国立国会図書館デジタルコレクション「官報. 1943年07月01日」で閲覧できます。

3.特設運送船べるふはすと丸
 こちらでは「べるふあすと丸」とある船です。辞令公報上は「べるふはすと丸」と表記されています。
 内令は当時のものが未公開ですが、表記は恐らく同じでしょう。
 「べるふはすと」の表記から、実際に声に出すときは「べるふあすと」ではなく「べるふわすと」であると推察されます。
 駆逐艦「江風」や敷設艇「粟島」の命名の際、読みの「わ」の部分を「は」と表記したのと同じですね。

 該当する辞令公報はアジ歴 C13072072200 昭和12年8月21日付 海軍辞令公報 号外第33号と、
 監督官が上條大佐から神山大佐に交代した C13072073600 昭和13年3月26日付 海軍辞令公報(部内限)号外第156号で確認できます。

4.Wikipediaには登載しない艦の人事
 未成なため記事の作りようが無い艦の艤装員長です。これら各艦が伊吹くらい知名度が高ければ良かったのですが、
 特別輸送艦や掃海艦としても竣工しなかったので仕方ないですね。
 室津
 1945/6/30 艤装員長 三坂政吉少佐 1945/7/11 秘海軍辞令公報 甲 第1853号。C13072106000
  →1945/8/20 横須賀鎮守府附 1945/9/3 海軍辞令公報 甲 第1903号。C13072107300
 蔚美
 1945/6/1 艤装員長 福地好少佐 1945/6/16 秘海軍辞令公報 甲 第1829号。C13072105300
  →1945/8/20 横須賀鎮守府附 1945/9/3 海軍辞令公報 甲 第1903号。C13072107300
 大津
 1945/4/1 艤装員長 神澤彪一少佐 1945/4/16 秘海軍辞令公報 甲 第1774号。C13072104300
  →1945/8/20 呉鎮守府附 1945/9/3 海軍辞令公報 甲 第1903号。C13072107300

長くなりました。ご容赦ください。

現在、辞令公報の確認2周目を実行中です。今周回は1周目で見落としたかもしれない海軍航空隊の人事の再確認に加え、
剣埼/祥鳳、高崎/瑞鳳、初島型電纜敷設艇、測天型敷設艇、網代の人事を注視するつもりです。
艦艇長調べは「ついで」なのであまり期待しないでお待ちください。


海軍航空隊スキー様2014/12/21 [20時59分46秒]
 だいたい1日1ページを目標に更新しているのですが、こうなると空き時間のほとんどを注ぎ込んでも、気息奄々たる状態になっておりますので、辞令公報を一から眺めていくという余裕がございません。
 したがいまして、このような情報を戴けるのは、感謝しても感謝しきれないほどであります。また、第2復員局の辞令が残っているというのも、実は存じておりませんでしたので、この面でも非常にありがたく思っております。
 早速、鳳翔のページを更新させて戴きましたので御笑覧戴ければ幸甚に存じます。

 なお、Wikipediaに載せられているとのことでありましたら、そちらのほうが公益に浴すのではないかと思っております。実は、最近、Wikipediaの艦長欄が充実してきたなと思っていたのですが、
貴殿のような篤志家が活躍されているが故だと、改めて思い知ったような次第であります。
 今後ともよしなに。
 
 写真は仁和寺にて。
 


お久しぶりです海軍航空隊スキー2014/12/21 [06時13分41秒]
海軍航空隊の人事を調べていたときに目についた艦艇の艦長や艇長の記録を記したいと思うのですが、ご興味ありますか?
戦争末期〜復員輸送関係が主になります。

鳳翔を例にすると以下のようになります。
1945/3/5 艦長 大須賀秀一 大佐 1945/3/15 海軍辞令公報 甲 1746号 C13072103800
 →1945/5/1 補海鷹艦長 1945/5/14 海軍辞令公報 甲 1799号 C13072104800
1945/5/5 (兼)艦長 大須賀秀一 大佐 1945/5/17 海軍辞令公報 甲 1802号。C13072104900 本務:海鷹艦長
 →1945/5/18 免兼 1945/6/2 海軍辞令公報 甲 1816号 C13072105200
1945/5/18 (兼)艦長 古谷啓次 大佐 1945/6/2 海軍辞令公報 甲 1816号 C13072105200 本務:呉海軍港務部部員
 →1945/9/20 免兼 1945/10/1 海軍辞令公報 甲 1936号 C13072107800
1945/9/20 艦長 金岡国三 大佐 1945/10/1 海軍辞令公報 甲 1936号 C13072107800
 →1946/3/8 大阪地方復員局出仕 1946/3/30 第二復員省辞令公報 甲 96号。C13072158800
1946/3/8 艦長 吉田正義 第二復員官 1946/3/30 第二復員省辞令公報 甲 96号。C13072158800
 →1946/4/1 第二復員事務官
  →辞令公報の散逸欠損により退任日付不明
1946/6/4 臨時艦長 作間英邇 第二復員事務官 1946/6/10 第二復員省辞令公報 甲 154号。C13072159300
 →1946/6/15 復員事務官
  →1946/7/18 免臨時艦長 1946/7/31 復員庁第二復員局辞令公報 甲 36号。C13072159400

これはWikipediaにはまだ登載していない分です。吉田正義艦長の退任日付が不明なため精査中です。
Wikipediaに登載したらその艦艇名を知らせるという手もありますね。


出沼様2014/12/18 [12時44分41秒]
 恵比寿に行ってこられたのですか。
 こういう片田舎に住んでおりますと、なかなかそういう所には参れませんので、うらやましい限りであります。
 また、わざわざ御報告を賜り、恐縮致しております。
 


恵比寿に行ってきたので出沼ひさし2014/12/17 [23時58分05秒]
海軍制度沿革史資料を読んできました。


S15.8.31 「親潮」「早潮」「夏潮」で15dgを編成 内令545号
S15.11.15 16dgより「黒潮」を削る、15dgに「黒潮」を加える 内令832号

で、15dgは新編時には呉鎮部隊に編入されています。

戦時編制関係允裁書に16dgの2Sd編入(S15.1.26御裁可)は記録されていました。16dgはS15.1.27付で「雪風」「黒潮」で編成(内令54号)されています。
しかし15dgの2Sd編入は記録されていないので、S15.11.15の昭和16年度戦時編制で2Sdに編入されたと見て間違いないでしょう。


無名氏様2014/12/16 [00時36分29秒]
 おお、それはいけませんね。思い切りいけませんね。
 先ほど更新しましたが、もし、よろしければ謝辞を入れたいので、
御芳名をお聞かせ戴ければ幸甚に存じます。
 今後ともよろしく御願い申し上げます。
 
 写真は北野天満宮にて。
 



峯風型駆逐艦夕風について2014/12/15 [17時19分33秒]
47.7/24に海鷹曳航って載ってますけど45.では


出沼様2014/12/14 [23時29分33秒]
 いつもありがとうございます。
 やはり、恵比寿に行かないとだめですか。
 


昭和12年から15年の編制は出沼ひさし2014/12/12 [23時33分59秒]
「海軍制度沿革」にも載っておらず戦時編制でもなく、内令も残っていないようなので通説以上のことは判りません。

多分、恵比寿で「海軍制度沿革史資料」を見れば載っていると思われます。


Pのおじさん様2014/12/09 [23時41分08秒]
 御指摘ありがとうございます。剣埼、高崎は1938年9月15日に特務艦(運送艦)から軍艦(潜水母艦)に編入されており、剣埼は潜水母艦として竣工しておりますので、仰られる通りかと。
 これは、潜水母艦が軍艦籍になっていることを見落としていたために生じたミスでありますが、失礼致しました。
 なお、艦種変更を伴わないものとしては、砲艦勿来が、中国派遣艦として不適当な名として、建造中に安宅に変更されておりますことを、付け加えておきます。

 サイト云々は、拙ページではなく、メイルの運営会社のほうですが、考えてみれば、紛らわしい言い方でありました。そのうちに、何とかします。
 それはともかくとして、趣味でやっているだけのものに、そのような御心配を賜り、幾重にも御礼申し上げます。
 
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