硫黄島での勤務について


着任時の感想

第六十一航空隊YS11型 平成十一年六月十八日付で、硫黄島航空基地隊勤務を命ぜられ、厚木基地から第六十一航空隊の運航する定期便(YS-11)で赴任しました。
自分があの激戦地で有名な「硫黄島」に勤務することになるとは、人事電報が出るまで信じ難かったが、厚木から空路を約三時間経て、硫黄島に降り立った時は、今まで経験したことのない程の強い日射と抜けるような青空が、亜熱帯に来たことを教えてくれた。
また、この地で帝國陸海軍将兵が血を流し本土防衛の任を果たさんと玉砕したのかと思うと、体感的に感ずる暑さとは違う熱いモノが胸にこみ上げてきました。

第六十一航空隊所属YS-11の勇姿

真実一路へ戻ります。

着隊者教育にて

硫黄島航空基地の着隊者教育が他の航空基地と異なることは、まず戦没者慰霊碑への参拝からであることだろう。
何故かは概略を説明すると、着隊後に簡単な戦史講話を司令から受け、着隊者教育の担当当番部隊の先任海曹が島内研修の際に必ず訪れるところなのである。
硫黄島において勤務する前に、先人に対し敬意と哀悼の意を表して参拝しているものである。
この慰霊碑の所在地は、硫黄島の北東にある台地の上で、旧海軍の南方空司令部壕の真上に建設されている。全体的に見たイメージは内地の戦没者慰霊塔とデザインや規模は同じである。ただし、現在でも工事や遺骨収集で地下壕が多数発見されるため、そのとき発見された御遺骨を内地へお返しするまで納める納骨堂が慰霊碑の隣にある。(小生が在島した間の遺骨収集作業でも、百四十九柱の御遺骨が発見収容され、荼毘に付された後に内地へお帰りになった。)

日本戦没将兵慰霊碑

大阪山砲台

参拝後は島内の戦跡研修で、ほぼ当時のまま残されている地下壕やトーチカ、兵器を見て回った。
中でも目を奪われたのは、大阪山の海軍十五糎砲台で、トーチカの天蓋が吹き飛び、砲身の弾痕は著しく、上陸してきた米海兵隊と壮烈な砲撃戦の後に沈黙した様相が、未だ散乱する御遺品と共に、海軍硫黄島警備隊の勇戦と苦闘を無言のまま語っているようだった。

大阪山砲台

この後に沈船海岸へ移動する。ここは米軍が硫黄島占領後に桟橋を構築しようとした場所で、コンクリート船を爆破して沈め、桟橋を造ろうとしたそうなのだが、硫黄島自体が活火山であるため、隆起現象が著しく計画通り作業ができなくなり諦めたとのことだった。現在でも海中にコンクリート船と鋼鉄船の残骸があるが、鋼鉄船はスチームレシプロ機関が原型を留めるのみで、防波堤のようになっている。この残骸群の一部はすでに陸上に上がってしまっているモノもあり、硫黄島の奇観の一つになっている。(当時はこの残骸群も海面下11mにあったとのことだから、かなりの勢いで隆起している!)
いよいよ攻防戦で著名な擂鉢山に向かう。

沈船群

途中に海軍千鳥飛行場南端に所在する一式陸上攻撃機の後部胴体を利用したトーチカを見学した。
このトーチカの特徴は、内部の型枠を代用するためか、大破した一式陸上攻撃機(11型)の後部胴体を利用している点が他のトーチカ群と異なる点であった。外部は他の小規模なトーチカと同様に、壁面を玉石とモルタル利用し、積み上げてあった。興味深いのは、かなりひどい状態ではあったが、一式陸上攻撃機の残骸がまだ残っている点である。また、このトーチカの上から周囲を見回すと、辺り一面はトーチカ群であるようである。

航空機利用のトーチカ

擂鉢山の麓に所在する十五糎砲台見学する。ここのトーチカは硫黄島戦初期に大型艦砲でやられたせいか、完全に天蓋が無くなっている。発見された当時は完全に埋没していたそうである。
擂鉢山山頂に向かい移動する。

擂鉢山水平砲台

山頂の慰霊碑

登山道を上っていく途中にあることに気が付いた。岩肌にびっしりと弾痕(機関砲弾と推測される)が残されていた。世界戦史に名を残す程の激戦であったのがこれを見ても納得できる。
擂鉢山山頂に到着する。案外狭い。ここに第一御楯特別攻撃隊「サイパン特別銃撃隊」(写真右側)と神風特別攻撃隊第二御楯隊(写真左側)の慰霊碑があった。

山頂の慰霊碑

米海兵隊上陸記念碑

もう一つ・・・米海兵隊の上陸記念碑があった。ドックタッグと勲章が沢山掛けてあった。きっと彼ら(米軍)の誇りの象徴なのだろう。

米海兵隊上陸記念碑

裏には有名な擂鉢山の星条旗の立ったところがある。旗を立てた人の家族が、取り付けた石板のようである。

旗の立った場所

真実一路へ戻ります。