紫雲たなびくアラカベサン


旧式兵器勉強家 BUN
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 ご無沙汰しております。旧式兵器勉強家のBUNです。先日、前の記事を書き上げて一杯呑んで寝たら、何と今日になっておりました。もう、今が何月何日であろうと大して問題ではありません。話はクドく、人生に意味無く、将来に救いはありませんが、とりあえず次の酒宴の約束さえあれば生きて行けるのです。さあ、読み終わったら呑みに行きましょうね。


日本の駄作機、水偵「紫雲」?


 みなさんは「紫雲」という飛行機をご存知でしょう。火星エンジンを搭載し、二重反転プロペラを装備した高速水偵、丙巡「大淀」の搭載機として開発された異端の水偵。そして何よりも有名なのが、そのフロート投下機構でしょう。そう、「紫雲」はフロート投下機構をそなえた異色の水偵です。重要な偵察任務を帯びて敵地上空を強行偵察し、敵戦闘機の追尾を受けた際、我が「紫雲」はフロートを投下し、驚愕する敵を尻目に一挙に加速して敵戦闘機を振り切ってしまえるように造られているのです。投下後の飛行機は当然フロート無しでは通常の着水は不可能で、機体は帰投時に放棄されますが、貴重な偵察情報と勇敢で優秀な偵察員、操縦員は無事回収される訳です。機体の回収を前提としない偵察作戦は潜水艦搭載の小型水偵ではしばしば実施されていますが、「紫雲」のような大型で本格的な飛行機がそのような用法をオプションとして持っているというのは些か異様でもあります。
 しかし、世に人気の「駄っ作機」の連載を見ても何の本を読んでも「紫雲」はパッとしません。いいえ、実は何の本を読んでも「紫雲」はパッとしないのです。どの本にも大体こんな調子で書いてあります。「「紫雲」は昭和十九年(十八年)にパラオ島に六機(数機)配備されたが、肝心のフロート投下機構が作動せず、全機撃墜されてしまった。」と。肝心のフロート投下機構が作動しない失望と全機撃墜されたという悲愴感が漂い、話半分としても情けない物語ではあります。きっとファンも少ないのではないでしょうか。
 今日はそんな「紫雲」について調べてみることにしました。


紫雲隊の編制


 元々「紫雲」は大淀に搭載する予定の高速水上偵察機でしたので、大淀の竣工に合わせて昭和十七年中から海軍への引渡しが始められて居ましたが、全生産機十五機のうち、最後の機体が領収されたのは十九年二月の事だったと言われています。各種のトラブルが続出した為に遅れたのだとされていますが、実際には試作機の改修作業に目鼻がついた頃に大淀の改装が決定してしまい、紫雲射出用の二号三型射出機を降ろしてしまう為にもう使い道が無く、優先順位が下がってしまったというのが真相ではないでしょうか。
 しかし、実際に十五機生産されたと言われる「紫雲」のうち、果たして何機が使える状態にあったのか判りませんが、戦雲急を告げる中、横須賀航空隊では艦載用途の消えた「紫雲」の転用計画が開始されます。在庫の「紫雲」を整備して基地に配備する水上偵察隊を編成しようというのです。計画は早速実施され、整備用具、補用部品の調達が開始されます。昭和十九年四月半ば(多分発令は二十日頃・推定)のことでした。
 機体は全部で五機を整備して引き渡す予定でしたが、機体の整備は五月一日に着手され、半月もかけて五月十五日に三機だけ受け入れ終了しています。第二陣の二機も同時に整備されたのですが、これは月をまたいで更に半月近く経った六月十二日に受け入れ完了となっています。これは当時「紫雲」がどのような状態で保管されていたかを想像する手掛かりとなるのでは無いでしょうか。この間に頻発した故障としては、
などが報告されています。「紫雲」の試験飛行がやる気無く行われていたか、途中で放棄されていた証拠のようなトラブルではないでしょうか。ちなみに、その後、後続の機体の引渡し、補充機の用意などは一切ありません。横須賀にあった「紫雲」は五機で打ち止めだったようなのです。
 確認した訳ではありませんがホントに十五機もあったのでしょうかねぇ。


臨戦準備


 着々と機材は集積され、機体の整備も非常に難航しながらも進んではいる状態で、紫雲隊のパラオへの進出が決定します。機体は三機しかありませんが、残った二機は後から追及することとして紫雲隊は出発します。編制は以下の通りです。
 こうして六月一日、サイパン経由で相川中尉がパラオ島アラカベサン水上基地に着任、ダバオ経由の機(誰の機かは不明)も六月三日にはパラオに到着しています。紫雲隊はこのアラカベサン水上基地で最後まで戦うことになります。与えられた任務は敵機動部隊の索敵偵察と対潜哨戒です。敵機動部隊が決戦海面に来攻した時に、決戦前日並びに当日、主として水上偵察隊が偵察触接を持続して主力の攻撃を支援する計画でした。


「紫雲」勇戦激闘!


 紫雲隊は六月五日、第十二偵察隊として第六十一航空戦隊 第四十一西空襲部隊に編入されます。現地では地上支援が充分に得られず、隊の整備要員も揃わない状態でしたが、それでも六月九日から紫雲隊の出撃が開始されます。そして、六月十三日には「あ」号作戦決戦用意、となり、六月十五日には「皇国の興廃此の一戦にあり」の電文を受信、遂にマリアナ沖海戦として有名な大決戦に突入します。

 しかし、敵機動部隊の上陸は西カロリン諸島ではなくサイパン島でしたので、紫雲隊はパラオ方面への敵来襲に備えて索敵偵察任務と敵発見時の触接行動への待機が任務となりました。米軍のサイパンへの上陸作戦への反撃に忙殺されている「あ」号作戦の主力部隊である第一航空艦隊 第六十一航空戦隊司令部は、主戦場から少し外れたパラオの第十二偵察隊紫雲隊を使い切れなかったらしく、次のような電文を送っています。

 「通信費消時大なる現状に鑑み 敵機動部隊当方面来襲の場合 当方の指令を待ちて戦機を逸することなく 独断主任務達成に努められ度」

 指令が出せないかもしれないが、その時は自分で判断して戦えということなのでしょう。当時の慌ただしい雰囲気が何となくわかります。
 六月十五日に出撃した後、十六日は待機、翌十七日には他隊の月光2機と共にパラオ哨区の一般哨戒に当りました。パラオの偵察隊各隊には「友軍機動部隊行動中 味方識別留意」の指令が出ています。しかし、敵の来襲は無く、そのまま十八日、十九日を待機して過ごし、マリアナ沖海戦は日本側に惨敗で終結してしまいます。

 紫雲隊はその後も出撃を繰り返しますが、七月後半からは対潜哨戒任務が多くなり、七月二十五日に出撃した二機がそれぞれグラマンF6Fにより被害を受け、指揮官塚田飛曹長機がF6F三機からの集中攻撃を受けて空中火災、塚田飛曹長は顔面に火傷軽傷、偵察員林田上飛曹は胸部盲貫銃創で重傷を負っています。しかし、機体は基地まで帰還したようで、乗員二名は無事収容されたようです。機体は大破放棄されています。二番機もF6F2機と交戦し、主浮舟を小破しますが、後部旋回機銃で反撃、F6F1機を撃破脱落させています。ああ、「紫雲」はなんと強いのでしょう。

 忘れていましたが、横須賀で整備の遅れていた残り二機の「紫雲」はどうしたのでしょうか。この二機は六月十二日になって整備完了しパラオに向けて出発しますが、米軍のサイパン上陸作戦が始まり、六月十五日に経由地の父島で米機動部隊の空襲を受け、地上で炎上焼失しています。戦死者はありません。
 紫雲隊の出撃内容は以下の通りです。


六月九日対潜哨戒 指揮官 宮本上飛曹
六月十五日索敵偵察 指揮官 塚田飛曹長
六月十七日索敵偵察 指揮官 清水上飛曹
六月十七日索敵偵察 指揮官 中川上飛曹
六月二十三日索敵偵察 指揮官 塚田飛曹長
六月二十六日索敵偵察 指揮官 相川中尉  二機出撃
六月二十八日索敵偵察 指揮官 塚田飛曹長
六月三十日索敵偵察 指揮官 塚田飛曹長
七月九日索敵偵察 指揮官 清水上飛曹
七月十日索敵偵察 指揮官 塚田飛曹長
七月十一日索敵偵察 指揮官 相川中尉
七月十二日索敵偵察 指揮官 宮本上飛曹
七月十四日索敵偵察 指揮官 塚田飛曹長
七月十五日索敵偵察 指揮官 相川中尉
七月十六日索敵偵察 指揮官 塚田飛曹長
七月十六日対潜哨戒 指揮官 相川中尉
七月十八日索敵偵察 指揮官 宮本上飛曹
七月十九日索敵偵察 指揮官 塚田飛曹長 二機出撃
七月十九日対潜哨戒 指揮官 相川中尉
七月二十一日対潜哨戒 指揮官 中川飛曹長
七月二十五日対潜哨戒 指揮官 塚田飛曹長 二機出撃 被害発生 1機大破 1機小破
八月十日対戦哨戒 指揮官 中川上飛曹
八月十二日対潜哨戒 指揮官 相川中尉


 マリアナ沖海戦を挟んだ激戦の空に第十二偵察隊紫雲隊は何と二十三回も出撃しているのです。そして全機、全搭乗員が生還しています。未帰還機はありません。


紫雲隊解散


 こうして勇戦敢闘した第十二偵察隊 紫雲隊ですが、七月二十五日の空戦被害で、塚田機は大破放棄され、二番機も現地修理に入りました。その後も二回の対潜哨戒に出撃していますが、遂に八月十二日、第六十一航空戦隊司令部より「八月十二日以降 貴隊使用中紫雲二機は航空廠に還納せられ度」との命令が下り、紫雲隊は解散されます。

 さて、二ヶ月以上の期間、パラオから索敵偵察、対潜哨戒任務に二十三回も出撃し、一機大破一機小破の被害のみで切り抜けた第十二偵察隊紫雲隊はよくその任務を果たしたと言えると思いますが、その間の戦闘に関してまとめた戦訓を見てみます。
 まず、敵は索敵機を狩り出す部隊を出撃させているのではないか、他隊の索敵機が次々に未帰還になるのはこの為ではないかと述べています。
 次に、索敵偵察専門飛行機にも三番(六番)三号爆弾二個程度爆装可能なること、即ち紫雲のような偵察専門の飛行機も攻撃能力を持たせ、対空奇襲任務に就けるようにするべきではないかとの提案を行っています。
 そして、こうした任務には零戦三機か、彗星二機に熟練搭乗員を当てて編制すれば有効ではないかと述べています。丸腰に近い「紫雲」には不満があったようです。
 ここで、良く勉強されている諸兄は不思議に思うことでしょう。「紫雲」は翼下に六番爆弾までを懸吊できたはずではないか」と。確かにそう書かれた解説はありますが、紫雲隊の戦闘詳報と戦時日誌を読む限り、どうもそうした装備は無かったようです。

 そして総合所見として、「紫雲の如き実用実験不充分にして互換性なく、代替機ゼロの飛行機を第一線に急速増援兵力として進出せしむるは労力予想以上大にして効果少なく、害ありて利少なし。本兵力並びに労力を他方面に利用し居らば適当なりしものと認む。」と述べ、「紫雲」のお蔭で要らぬ苦労をしてしまった、と言っています。何しろ大事な六月中は地上整備員がたった六人しか到着せず、その六人で新機軸満載の特殊な高速水偵である「紫雲」三機を整備していたのですから現場の苦労は並大抵では無かったことでしょう。
「『紫雲』の如き飛行機、今後製作せざること」との戦訓報告はそういった苦労の果ての言葉でもあると思います。

 さて、最後に問題の「フロート投下」問題です。
 以上の戦闘の実態から「六機配備され、出撃した機はフロートが投下できず、全機が撃墜された」との話には根も葉も無いことが証明できたと思います。六機ではなく、五機予定で三機が到着して活動ですし、未帰還機は一機もありません。そしてフロート投下も行われていません。ただ、七月二十五日の空戦で塚田飛曹長機はフロート投下を試みてもよさそうなものだとも考えられますが、実際にはその試みすらしていないようです。もし、仮に投下を試みて失敗していれば、ロックを外した主フロートをぶら下げたまま着水するような命知らずな行為はしなかったでしょうから、フロートはそのまま敵を振り切ったものと思われます。
 この辺りの事情は想像するしかありませんが、塚田機は対潜哨戒任務についていたこと、即ち敵機動部隊本隊の偵察情報を持って包囲を突破、帰還するようなここ一番の任務についていた訳ではないこと、そして「紫雲」には代替機が一切無く、機体を放棄すれば以降の任務を放棄することに直結していたこと、更に敵の第一撃で負傷していたとすれば、後席の部下林田上飛曹が重傷を負っており、フロート投下で敵を振り切っても負傷した部下は脱出生還不可能と考えられたこと等が推定できるのではないでしょうか。
 塚田上飛曹は上記の出撃一覧を見ても判る通り、隊の先任搭乗員として紫雲隊の大黒柱的存在であったように思われ、そうした立場での責任感が「負傷した部下と機体を持って帰る」ことを決意させたのではないかと私は考えています。あくまで推測に過ぎませんが・・・。
 しかしもう一機もフロート投下を行わずに逆にF6Fを返り討ちにして帰還していますので、新型高速水偵の「紫雲」にとってはグラマン如き(ひょっとしてF6Fではなく、FM2ではなかったのか、とも思うのですが未調査)の二機や三機が追尾して来ても冷静に対処すれば逃げ切れる可能性も高かったのではないかと思います。
 そして紫雲隊の戦訓所見は次のように結んでいます。
 「水上偵察機として索敵偵察任務の遂行中、万一の際、浮舟投下可能なるは任務遂行上大いに心強し!」と。

 以上の如く「紫雲」は新開発で不調な部分の残る珍機ではあっても駄作機の汚名を着るにはあまりにも勇戦激闘しています。フロート投下不能事件も発生していません。しかもフロート投下機構は部隊で大いに評価されているのです。はい、そこ!「最初から「彩雲」だったらいいじゃん」とか言わないように。搭乗員が化けて出ますよ。おっと、化けては出ませんね。「紫雲」は全機生還していますし、搭乗員も戦死していないのです。
 ああ、我等が「紫雲」の強いこと・・・!!


紫雲続報
2001.6.27 update


 戦時日誌でもハッキリした事がわからない紫雲隊の被害状況について、当時第一一偵察隊に所属された太田誠二様から貴重な情報をいただきましたので報告いたします。


 アラカベサンの11偵察隊水偵8機のうち4機は6月17日夜索敵に飛び立ち再び帰りませんでした 残った4機はずっとアラカベサンにおりましたが何時の間にか2機になり(この間の詳細記憶なし)後に1機はメレヨン島要務飛行で行方不明になり又1機(私の機)はその後6月28日索敵途上B-24と交戦、燃料タンクに被弾なんとか基地帰還したが使用不能となり、以後11偵察隊としての飛行作業はしておりません 内地帰還命令により7月26日飛行艇によりアラカベサンを離れました 紫雲機の墜落はこの間空襲のあいまに瞬間見たもので詳細は判りませんでしたが復員後同期会で話したところあれは俺だったと『林田吉弘』が名乗り、あの時はグラマンを零戦と思い近づき不意打ちで落とされた、胸部をやられ海中にあったが幸い基地近くであったので救助艇に助けられたと 林田は現在脳挫傷で入院中で再び話を聞けません。

太田誠二


 紫雲はF6Fに基地から見える距離でこのような状況で撃墜されたようです。戦時日誌ではこの状況を大破炎上と表現しているのでしょう。基地のすぐ近くでF6Fを零戦と見誤って接近して不意打ちで攻撃され、やはり浮舟を投下するような状況には無かったことが明確になりました。貴重な情報をいただいた太田様には心から感謝いたします。



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