五式三十粍固定機銃一型
直線上に配置
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2002.3.16 New !
2.経 緯
1)昭和17年3月、航本より空技支廠に対し特大口径機銃研究に関し照会があった。25,30,40粍機銃について研究が開始された。同年8月の要求性能決定まで数次に渡る大小の研究会が開催された。
2)一枝支廠にて弾薬包と銃身、設計試作し、昭和17年5月までに筒内諸元がほぼ決定された。
3)昭和17年6月要求性能決定に先立ち一枝支廠援助の下に日本特殊鋼株式会社に計画,試作を先行開始させた。試作銃は昭和18年7月完成、19年6月試作銃による地上基礎実験を完了し、引き続き同社製作の増加試作銃により地上・空中発射、耐寒実験を実施し昭和20年3月終了、同年5月制式兵器採用となった。
4)量産銃は昭和19年12月より出現、豊川海軍工廠および日本製鋼所横浜工場を主体とした。日本特殊鋼株式会社は爆撃の被害により増加試作銃を生産した所で生産中止となった。
5)装備され実験中または終了したものは、雷電、天雷、月光、銀河、彩雲、秋水、震電、烈風改、電光があった。

3.使用状況
烈風に搭載準備されていたことが最も有名であり、大戦末期の日本海軍の主力戦闘機には例外無く搭載が予定されていた。 
各種飛行機に搭載実験したが、威力を確認出来ずに終戦になった。厚木基地と鳴尾基地の雷電に対してはこの機銃の搭載工事が実施され、数次の空爆によって消失被害を若干被っていたが、実戦使用寸前にあった。
1)月光167号機、5式30ミリ機銃を装備、302空の林少尉は昭和20年5月24日未明、B291機撃墜、林少尉は302空に来る前空技廠で彗星に装備したこの機銃の実用試験を担当し、射撃時の特性を良く知っていた。5月25日にも同機で出撃したが、20ミリ機銃でも撃墜出来る程に接近した絶好のチャンスに機銃の故障で弾が出ず、味方の高射砲の至近弾をくい可動風防を吹き飛ばされて裏返しになり、弾片で尾部に大穴をうがたれながら、厚木基地に帰投できた。(首都防空302空(下)渡辺洋二 282ページ)
2)302空の彩雲11型も30ミリの斜銃を改造搭載していた。ヨD−295機は横須賀の空技廠で取り付けられ、試射は昭和20年6月26日に行われた。 高度3,000メートル、相模湾上空で3発と5〜6発の2回の射撃が行われ、無事完了した。胴体外部にニョッキリ飛び出した30ミリ機銃のおかげで30キロ程彩雲の速度が落ちたと言う。此の後試射を行った安田中尉−福田中尉のペアは昭和20年8月1日B29迎撃に出撃し、30mm弾を浴びせたが、撃墜は果たせなかった。これが彩雲の5式30mm機関銃装備機の唯一の実戦出動であった。(首都防空302空(下)渡辺洋二 322ページ)
3)エアワールド社刊 日本海軍機写真集 1987の雷電の写真に30ミリ機銃を装備した雷電33型の写真があるが、2式か5式かが判明していない。同本にはの彩雲11型改造夜戦の写真があり、前項のヨD−295の写真である。このヨD−295はプラモデルにもなっている。同じ写真が丸メカニックスでは2式30mm機関銃との解説があるが、ミスであろう。
4)量産は試作を担当していた日本特殊鋼が爆撃により大損害を受けたことにより、日本製鋼所横浜工場と豊川海軍工廠が担当することとなった。日本製鋼所横浜工場では2月に初号機を完成させ、5月に21丁,7月に18丁の合計40丁を完成させている。またこの頃建設されたばかりの日本製鋼所宇都宮製作所でも製造が開始されたが、サンプルが完成したところで終戦となった。日本全体では2,000丁以上の5式30mm機関銃が完成したと言われている。(日本製鋼所社史下巻)
4.その他
1)G型保弾子の実験が続行され漸く軌道にのりつつあった。との特記が散見されるが何の事か理解できなかった。
5.参考文献

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1.概 要
大型機撃墜を目的とし、戦闘機翼内装備を建前とし機銃全高ならびに重量を極力小さくするよう計画された大型機銃、実戦化ぎりぎりで終戦となった悲劇の機銃である。